第五部第十八話:愚王の横暴と、迫り来る巨象の影
第五部第十八話:愚王の横暴と、迫り来る巨象の影
守護竜ブレイズの庇護のもと、避難民たちを北の要塞都市ラブルへ安堵させたグレイランス率いる傭兵団と聖騎士団の連合軍は、次なる目的地――魔王族の手によって陥落したブラム王国の王都ファルスを目指し、怒涛の勢いで街道を南下していた。
グレイランスの巧みな戦術と、背中に居座る小竜カークの導き、そして猛者たちの獅子奮迅の活躍により、途上で遭遇した魔王族の獣人部隊を次々と撃破。
連戦連勝の破竹の勢いで進軍を続けていた。
しかし、王都の手前まで差し掛かったその時――彼らは魔王族以上の「最悪の障害」に遭遇することとなった。
ブラム王国が誇る第一王子にして、大陸中にその無能ぶりを轟かせる最も愚鈍なる男――バッカス王子である。
王都陥落の混乱からいち早く逃げ出し、命からがら生き延びていたバッカス配下の生き残り騎士団と合流を果たしたこと自体は、戦力増強の観点から言えば悪いことではなかった。
だが、最大にして致命的な問題となったのは、軍の「指揮権」の行方であった。
自作の豪奢だが悪趣味な装飾が施された本陣の大天幕。
その中央で肥満した巨躯を黄金の椅子に沈めていたバッカスは、油でギトギトと光る顔を歪め、横柄極まりない態度で言い放った。
「――聖女殿! 此度の武勇、誠に大義である! そちの配下たる聖騎士団および雑多な傭兵どもは、これより我がブラム王国正規軍の指揮下に置くものとする!」
自らを「陛下」と称させ、すでに亡国となった王国の支配者を気取るバッカス。
実質的な現場の指揮はすべてグレイランスが執っていたものの、軍の公式な名義はあくまで「聖女ソフィアの軍」である。王国の正規軍を前にして、教団の聖女という立場上、ソフィアに拒否する術は残されていなかった。
「……承知いたしました。これよりは軍の指揮権を、陛下にお返しいたします……」
ソフィアは悔しさに唇を噛み締めながらも、淑やかに頭を下げざるを得なかった。
「うむ! グレイランスとやら、大義であったぞ。その方は下がりおれ! ……ソフィアよ、さあ、もっとワシの近くへ寄れ!」
下品にたるんだ頬を歪め、濁った好色な目を爛々と輝かせるバッカス。
ソフィアの華奢で優美な身体を頭から足先まで舐めまわすような視線に、傍らに立っていたグレイランスの額に青筋が浮かび上がった。
腰の長剣の柄に手がかかり、一触即発の殺気が満ちかけたその瞬間――隣にいた老僧ブルドが素早くグレイランスの腕を抑え込み、半ば力づくで天幕の外へと連れ出したのだった。
「――あのボンクラ王子がッ! 人の苦労も知りもしねぇで、功績も軍も根こそぎ横取りするつもりだぜッ!!」
天幕の外へ出るや否や、グレイランスは地面の石ころを力任せに蹴り飛ばした。
「……ふむ、いっそあの時に死んでおれば良かったものをのう。……おお、これは拙僧としたことが、仏に仕える身でとんだ暴言じゃった」
ブルドは白ひげを撫でながら、白々しく念仏を呟いてみせたが、その眼光には明らかな蔑みが宿っていた。
「で? この先どうすんのさ?」
近くの木箱に腰掛け、背中の上から膝へと移動してきた小竜カークに干し肉の細切れを与えながら、ルイザが冷ややかな声で尋ねた。カークはルイザの指から干し肉を「キュ~」と可愛らしく噛み取っている。
「ソフィアの立場もある以上、今は下手に逆らえん! とにかく……あの馬鹿の無謀な命令で、俺たちの仲間を無駄死にさせないように立ち回るしかねぇ!」
グレイランスは悔しそうに掌へ硬い拳を叩きつけた。
一方、熱気と酒臭さが立ち込める大天幕の内側では、あまりにも愚かな光景が繰り広げられていた。
まだ王都を奪還してもいないというのに、バッカスは高級なワインを煽り、取り巻きの泥酔した騎士たちとまるで「戦勝祝い」のような馬鹿騒ぎを始めていたのだ。
「……陛下。まだ敵の残党も多く、油断は禁物でございます。……このような宴を催している場合ではないのではありませんか?」
ソフィアは溢れ出る嫌悪感を必死に押し殺し、冷ややかな瞳で諌めた。
「むほほほほ! 堅いことを申すな、ソフィア! 王都奪還を成し遂げた暁には、盛大な戴冠式を行うのだ! さすればこのブラムのすべてがワシのもの! もちろん、そなたのことも悪いようにはせんぞ……むふふ!」
まだ手中に収めてもいない未来の勝利の美酒に、バッカスは醜く泥酔していた。
――ズゥゥゥゥン……ッ!! ズゥゥゥゥン……ッ!!
その時、地平線の彼方から地響きのような不穏な振動が伝わってきた。
大天幕の布地が激しく揺れ、杯のワインが波打つ。
騒ぎを聞きつけたグレイランスたちが素早く陣地外縁の丘へと駆け上がると、遥か南方の荒野から、地平線を黒く埋め尽くすほどの魔王族の本隊が進軍してくるのが目に入った。
そして、その軍団の先頭――軍を指揮している将の姿を目にした瞬間、誰もが息を呑んだ。
「な……なんだありゃあ!?」
そこにそびえ立っていたのは、通常の巨象の数倍もの巨躯を誇り、分厚い灰色の皮膚と、戦艦の錨のごとき凶悪な四本の巨牙を持つ凄絶な怪異――「人象」であった。豪奢な兜と甲冑を身に纏い、鼻を荒々しく突き上げて周囲の木々を薙ぎ倒しながら進軍してくる。
「ひ、ひぃぃぃッ!? 敵襲――ッ! 敵襲だぁぁぁッ!!」
宴の酔いが一瞬で吹き飛んだバッカス王子は、泡を食って腰を抜かしたが、すぐに取り巻きの騎士たちへ叫び散らした。
「お、お前たちッ! 前へ出ろッ! 敵将の首を取って参れぇぇッ! 褒美は思いのままぞッ!!」
バッカスの必死の叫び声に応じ、先功を焦る王国軍の騎士たちが、統制を欠いたままワッと歓声を上げて前進を開始した。
だが、グレイランスは冷静であった。
あのような化け物相手に正面から突撃するなど、自殺行為でしかないことを百戦錬磨の勘で察していた。
「おい、俺たちは動くなッ! 王国軍のバカどもを前に立たせろ!」
グレイランスは速やかに自らの傭兵団と聖騎士たちへ指示を出した。
「俺たちの最優先事項はただ一つ――ソフィア様の安全の確保だッ! 円陣を組め! 防御の構え!」
「はッ!」
功名心に眩んだバッカス王子と王国騎士団が突撃していく背後で、グレイランス、ブルド、ルイザの三人はソフィアを取り囲むようにガッチリと陣を固めた。
重厚な地鳴りとともに迫り来る人象の猛威。混迷を極める陣形の中で、血で血を洗う大激戦の火蓋が落とされようとしていた。




