第五部第十七話:竜王の神諭と、背の上の小竜
第五部第十七話:竜王の神諭と、背の上の小竜
天空を覆い尽くす漆黒の翼と、月光を反射して怪しく煌めく黒銀の鱗。
公邸の庭園を見下ろす巨竜『守護竜ブレイズ』の圧倒的な神威の前に、先ほどまで荒れ狂っていたルイザの身体はぴたりと固まり、石化したかのように見えた。
立ち上る熱風と神話の威圧感が場を支配する中、ブレイズは地鳴りのような唸り声を響かせた。
『……お前の弾く、美しい竪琴の調べを聴かせてくれないか』
恐るべき神威からの予期せぬ言葉。
しかし次の瞬間、ルイザの硬直は別の感情――激しいお怒りによって打ち破られた。彼女は気兼ねすることなく細い指先を巨竜の鼻先へ突きつけ、喉を震わせて叫んだ!
「アンタねぇッ! アンタのせいでアタシがどれだけ恥をかいて、惨めな思いをしたと思ってんのよッ!?」
茂みの中で死んだふりを決め込んでいたグレイランスとブルドの背中に、冷や汗が吹き出す。
「竜巫女の座に妹のライザを選んだせいでねぇ! アタシは周囲から『妹に選定で負けた落ちこぼれ』みたいに白い目で見られて、この街に居づらくなったんじゃないさッ!」
憤怒に肩を上下させるルイザを見下ろし、ブレイズは大きな黄金の瞳を瞬かせると、太い息を「フシューッ」と吐き出した。
『……ルイザよ。そうではない』
「何がそうじゃないのさッ! 言ってみなさいよ!」
『そもそも……お主自身が、縛られた竜巫女の座など微塵も望んでいなかったではないか。広大な外の世界を旅し、精霊とともに生きることこそがお主の幼き頃からの夢であったろう。……その夢を叶えてやってくれと、妹のライザが涙ながらに私へ頼み込んできたのだ』
「え……? ライザが……?」
ルイザの言葉が詰まった。
『そうとも。私はライザの献身と、お主の自由への渇望……その二人の願いを等しく叶えてやったつもりなのだがな』
ブレイズは巨木の丸太のような前足を持ち上げ、痒そうに巨大な顎をガリガリとかいた。神話の存在とは思えぬ、どこか人間くさい仕草であった。
言われてみれば――そうだった。
幼い頃から不自由な神殿の掟を嫌い、外の世界を夢見ていたのは他ならぬルイザ自身だったのだ。
妹に竜巫女の座が降りた時、心のどこかで劣等感を覚え、「妹に奪われた」と思い込むことで周囲の視線から逃げ、事実を歪曲していたのは己の自尊心だったと、今さらながら思い至る。
「……なによッ! じゃあ何かい!? アタシが勝手に勘違いして暴れてた、バカな悪者だって言うのかいッ!?」
己の過ちと滑稽さを自覚しつつも、持ち前の強がりが邪魔をして、ルイザの口からはそんな反発の言葉しか出てこなかった。
ブレイズは怒る様子もなく、むしろ困ったように巨大な頭を振った。
『ふむ……お主に嫌な思いをさせたというのなら、悪かったな』
巨竜は静かに大きな身を翻し、夜空へと立ち去ろうと翼を広げかけた。
「……ま、待ちなさいよッ!」
ルイザは慌てて叫び、それから気まずそうに視線を泳がせながら、大事そうに竪琴を抱え直した。
「……約束でしょ。せっかく弾いてやるんだから……黙って聴いていきなさいよッ!」
ルイザは芝生の上にそっと座り込み、目を閉じると、繊細な指先を竪琴の弦へと滑らせた。
――ポロン……ラン……♪
静寂に包まれた貴族庭園に、澄み切った清廉な音色が広がっていく。
それは怒りやプライベートな確執を超越し、精霊たちの息吹と月光の優しさを乗せた、美しくも切ない旋律であった。
人間を超越した古の竜王族の心にすら深く染み渡り、荒ぶる魂を静かに鎮めていく。
曲が終わると、ブレイズは感極まったように大きく喉を鳴らした。
『素晴らしい……! 竜の魂をも揺さぶる、見事な演奏であった。……せめてもの礼に、我が『使い』を授けよう。お前たちの往く手で、必ずや役に立つはずだ』
ブレイズが一声咆哮を上げると、夜空の雲間から一筋の小さな光線が舞い降りてきた。
降ってきたのは、体長五十センチほどの愛くるしい姿をした、白銀の鱗を持つ小さな子供の竜であった。
『カークよ。この人間たちを正しき道へと導いてやるのだ』
ブレイズは小竜に短く命じると、巨躯を夜空の闇の中へと溶け込ませ、風のように消え去った。
残された小竜――カークは、パタパタと小さな翼を羽ばたかせながら地面に着地した。
「カーク……ちゃん?」
ルイザが腰をかがめて手を伸ばすと、カークはキュイッと可愛らしい鳴き声を上げ、彼女の指先にクンクンと鼻を寄せて匂いを嗅いだ。
ひとしきりルイザの匂いを確かめて満足したカークは、くるりと向きを変えると、鼻をひくひくさせながら庭園の端にある茂みへとトコトコ歩き出した。
「ん? どうしたのさ?」
カークが足をとめたのは、全身を黒布で包み、息を殺して地面にへばりついているグレイランスのすぐ頭上であった。
「キュ?」
カークは身を乗り出し、グレイランスの黒髪や首筋の匂いを丹念に嗅ぎまわった。そして、何かがすっかり気に入ったのか、満足げに「キュ〜」と鳴くと、グレイランスの広い背中の上にちょこんと飛び乗り、身体を丸めてすっぽりと蹲ってしまったのだ。
「……おい、ルイザ。こいつをどけてくれ……」
竜の神威が去ったというのに、背中にちいさな神威を乗せられたグレイランスは、いまだに地面に顔を伏せたまま、微動だにできず蚊の泣くような声で呟いた。
「ハッ! 似合いの鞍が見つかったじゃないかい、グレイランス!」
事の顛末を見ていたルイザは、お腹を抱えて大笑いした。
茂みから這い出してきたブルドも、白ひげを揺らして「クックック」と腹を抱えている。
不本意ながらも背上に小さな龍の使いを乗せたまま、グレイランスは深い溜息をつき、長い長い『死んだふり』の夜を終えるのであった。




