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第五部第二話:血煙の轍と、黒衣の傭兵

第五部第二話:血煙の轍と、黒衣の傭兵


静まり返った『聖天神殿』の領地を貫く古い街道。

うっそうと繁茂する大樹の影が差す森の合間、車輪の軋む音とともに豪奢な神殿の馬車と、白銀の甲冑を纏った護衛の騎士たちが一列となって進んでいた。

その静寂を不意に破ったのは、ぬかるんだ轍(わだち)の中央にポツリと佇む、一人の貧しい身なりの農夫であった。

「そこを退かれよ! 我らは聖天神殿の巡察隊なるぞ! 無礼者に割く時間はない!」

隊列の先頭を行く騎馬の騎士が、馬の綱を引いて高圧的に怒鳴りつけた。

しかし、農夫は逃げ出そうともせず、ゆっくりと首を割るように持ち上げた。その瞳は濁った赤に血走り、口元からは不快な涎が垂れている。

――ズズズッ……ガァァァンッ!!

次の瞬間、農夫のボロ切れのような服の下で、背筋の骨と筋肉がグツグツと不気味な音を立てて爆発的に盛り上がった。

皮膚を破って生え揃う剛毛、鋭く伸びる漆黒の爪、そして狼の頭部へと変貌していく顔骨。

「なっ……魔物……人狼(ワーウルフ)かッ!?」

騎士が叫び声を上げる間もなく、人狼へと変貌した怪物は驚異的な跳躍で馬の喉元へ食らいついた。

絶叫とともに崩れ落ちる騎士。

「グオオオオオンッ!!」

同時に、左右の鬱蒼とした森の闇から数頭の人狼が一斉に躍り出た。

肉を裂く音と悲鳴、飛び散る鮮血。神殿の騎士たちは陣形を整える暇すら与えられず、肉塊へと変えられていく。

怪異の手先はすぐさま神殿の車体へと取り付き、鋭い爪で木製の壁をバリバリと砕き始めた。

「嫌……っ、お救いください、神よ……!」

破壊される馬車の中、神聖な純白の聖衣を纏った幼さの残る聖女は、胸元で聖印を強く握り締め、恐怖にガタガタと打ち震えていた。

破られた天井から凶暴な爪が覗き、絶体絶命の死線が迫る――その時であった。

――バシィィィンッ!!

強烈な衝撃とともに車輪の扉が外側から乱暴に叩き壊され、細く引き締まった手が差し込まれた。

「おい、死にたくなきゃ出て来な!」


強引に馬車の中から引きずり下ろされ、冷たい泥の上に放り出された聖女。

もしそのまま馬車の中に留まっていれば、次の瞬間には上から降り注いだ人狼の爪によって八つ裂きにされていたはずであった。

うずくまる聖女の頭上を、風を切る重厚な羽音が掠める。

助け出したのは、使い込まれた黒革の鎧と、深い傷跡が刻まれた漆黒のマントを羽織った一人の男――黒衣の傭兵(冒険者)であった。

その精悍な顔つきには野生の鋭い洞察力が宿り、身の丈ほどもある無骨な長剣を背中から抜き放っていた。

「グアァァッ!」

一頭の人狼が牙を剥き、頭上から傭兵の首筋へ飛びかかる。

――ズバァァァンッ!!

「ちっ、鬱陶しい獣どもだ」

傭兵は振り向きざま、両手で握りしめた長剣を完璧な軌道で振り抜いた。

一閃。

肉と骨を断ち切る重苦しい手応えとともに、飛びかかった人狼の胴体が真っ二つに裂け、大量の返り血が空中に舞った。

「キャッ……!?」

頭を抱えてうずくまる聖女の純白の聖衣が、真新しく温かい真っ赤な飛沫でドロドロに染まっていく。

「オオオオンッ!」

仲間の死に激昂した残る三頭の人狼が、左右と正面から同時に襲いかかる。

しかし、男の足さばきは獣の速度すら凌駕していた。

地を蹴り、回転運動の遠心力を乗せた凄まじい一撃が左の首を飛ばし、返しの刃で右の胸を深く穿つ! 最後に残った一頭の眉間へ、柄頭を力任せに叩き込んで脳漿を砕くと、長剣を鋭く一閃して血を払った。

戦闘開始から、わずか数十秒。

圧倒的な肉弾戦の末に、道筋を埋め尽くしていた脅威は完全に沈黙した。


荒い息を吐く傭兵は、剣を鞘へと納めようとした。

その時、街道の先から激しい馬蹄の音が響き渡り、遅れてやってきた後続の騎士団の一隊が姿を現した。

目の前に広がる凄惨な死体の山と、返り血に染まった聖女の姿を目にした騎士たちは、即座に剣を抜き放ち、傭兵を取り囲んだ。

「貴様ぁッ! なにやつだッ!? 聖女様に何をしたッ!」

隊長らしき男が怒号を上げ、殺気立った刃を男の喉元へ突きつける。

「おいおい……落ち着けって。俺はただ、襲われてたところを……」

傭兵は呆れたように手を挙げ、トラブルを避けるために剣を納めようとした。

「お待ちください! この方は……この方が私を……っ」

泥に塗れた聖女が必死に立ち上がり、命の恩人である傭兵を庇おうと手を広げた。

しかし、過酷な恐怖と激しいショックに耐えかね、言葉の途中で糸が切れたようにその場に崩れ落ちてしまった。

「おいおいおいッ!? そこで気絶すんなって、一番困るタイミングだぞ!」

傭兵は慌てて手を伸ばし、倒れ込む聖女の華奢な体を抱き止めた。

だが、その瞬間――周囲に転がっていた惨絶な「人狼の死体」から不気味な妖気が抜け、瞬く間に「元のみすぼらしい農夫たちの死体」へと姿を変えてしまったのだ。

騎士たちの目には、ただの不審な黒衣の傭兵が、農夫たちを無差別に殺戮し、気を失った聖女を力ずくで押し倒しているようにしか映らなかった。

「……無抵抗の村人を惨殺し、聖女様を暴行しようとした不届き者めッ! ひっ捕えよッ!!」

「おいおい……! マジかよ、話を聞けって!」

抗弁の言葉も虚しく、気絶した聖女は騎士たちに引っこ抜かれるように奪い取られ、傭兵の身には重厚な捕縛用の鉄鎖が巻きつけられた。

冤罪と破滅の匂いを孕んだまま、黒衣の傭兵はこの先の街道にそびえる神殿の要塞砦へと連行されていくのだった。

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