第五部第十四話:傭兵の家路と、宿命の絆
第五部第十四話:傭兵の家路と、宿命の絆
朝の爽やかな光が木漏れ日のように部屋を満たし、聖女ソフィアは久方ぶりの心地よい目覚めを迎えた。
連日の過酷な逃避行と絶望的な戦いの連続で擦り減っていた心身が、ふかふかの羽毛布団の中でじんわりと解きほぐされていく。
ソフィアが両手を伸ばして窓を開け放つと、澄んだ北の冷気とともに、城塞都市ラブルの活気ある喧騒が流れ込んできた。
ふと宿屋の階下を見下ろすと、黒い外套を軽やかに羽織り、朝の通りを歩いていく見慣れた後ろ姿が目に入った――傭兵グレイランスである。
(グレイランス様……? このような朝早くから、一体どちらへ……?)
胸の奥に芽生えた小さな好奇心と胸騒ぎに背中を押され、ソフィアは頭巾を深く被ると、そっと彼の後を追うことにした。
行き交う行商人の馬車や威勢の良い露店が立ち並ぶ雑踏の中を、グレイランスは慣れた身のこなしでするするとすり抜けていく。
対するソフィアは、人混みに押し揉まれ、頭巾を直しながら必死の思いでその後姿を追った。
頭一つ飛び抜けた彼の黒髪と肩幅の広さだけが、混雑する通りでの唯一の目印であった。
やがて彼が足を止めたのは、大通りから一本入った路地の奥にひっそりと佇む、武骨な木造の大建築であった。
看板には剣と酒杯を交差させた荒々しい紋様が刻まれている。
そのまま迷いなく扉を開けて中へ入っていくグレイランス。
「酒場……かしら……?」
ソフィアは恐る恐る重い木製扉を押し開き、中へと足を踏み入れた。
一歩店内へ足を踏み入れるや否や、むせ返るような安酒と汗、肉の焦げる臭気、そして怒号のような歓声がソフィアを襲った。中では屈強な体に刺青を掘り込んだ冒険者や傭兵たちが、派手な衣装を纏った女性たちを膝に侍らせ、朝から宴のごときどんちゃん騒ぎを繰り広げていたのだ。
「いっ……いかがわしい……ッ! このような不潔で破廉恥な場所に、グレイランス様が……っ!」
純粋培養で育ってきた聖女ソフィアは、あられもない光景に白磁の頬を真っ赤に染め、その場にたじろいだ。
「あら、ちょっとアナタ! 見かけない顔ねぇん!」
そこへ突如、身体を妙にクネクネとくねらせ、ド派手な化粧を施した背の高い男が愛想よく話しかけてきた。
「あ……あの、私は……グレイランス様に用があって……」
「まあ! 坊っちゃまはアナタみたいな清楚で可愛らしい子が好みだったのかしらぁ? うちのお店にもとびきり良い子が揃ってるっていうのに! まぁ良いわ! 坊っちゃまなら二階の奥の部屋よ! くれぐれも失礼のないようにねぇん!」
クネクネとした男はそう言うと、プイッと腰を振って奥の厨房へと去っていった。
(坊っちゃま……? お店……? 良い子……!?)
ソフィアの胸の奥から、今までに感じたことのない正体不明のフツフツとした怒りが湧き上がってきた。
(グレイランス様が……このような場所で女性を買っていらっしゃるなんて……! 聖職者として、仲間として、お諌めしなければ……ッ!)
ソフィアは握りこぶしを握り締め、堂々とした足取りで軋む木造階段を上がり、二階奥の重厚な扉をドンドンと強くノックした。
「ああ? 誰だー?」
中から不機嫌そうな声が響き、扉がガチャリと開いた。
そこに立っていたのは、上着を脱ぎ捨ててくつろいだ様子のグレイランスであった。
「この不埒者ッ! このような場所で女性をお買いになるとは、何事ですかッ!?」
ソフィアは真っ赤になった顔で、眉を吊り上げて堂々と叫んだ。
「お、おい落ち着けッ! ここは俺ん家だッ! 女なんて買ったりするわけねぇだろ!」
グレイランスは面食らったように手を振った。
「誤魔化しは効きませんよ!」
ソフィアは即座に天王力による『看破の術』を瞳に宿し、彼の眼光と心の揺らぎを観察した。
――しかし、術が映し出したのは透明なまでの誠実さであり、グレイランスの言葉に一切の嘘偽りがないことが証明されてしまった。
「な……ッ!?」
「朝からなんだか騒がしいな、グレイランス」
動揺するソフィアの背後から、重厚で落ち着いた男性の声と、気品ある女性の足音が近づいてきた。
部屋の奥から姿を現したのは、堂々たる体躯に数々の戦傷を刻んだ渋い熟練の剣士と、優美な笑みを湛えた気品あふれる婦人であった。
「久しぶりだな! 親父! お袋!」
「お……お母様……!?」
あまりの予想外の展開に、ソフィアは金縛りに遭ったように目を丸くした。
「初めまして、可愛らしいお嬢さん。ワシはグレイランスの父、アレスレイン。そしてこちらは妻のエリザベートだ。息子がいつも世話になっているようだね」
アレスレインは豊かな髭を蓄えた顔に親しみやすい笑みを浮かべ、胸に手を当てて恭しく挨拶をした。
「し、失礼いたしました……! 私は聖女ソフィアと申します。ご子息のグレイランス様には、幾度となく命を救われてまいりました……」
ソフィアは顔から火が出るほどの恥ずかしさに耐えながら、深々と頭を下げた。
「なんのなんの! あの無鉄砲な息子が、まさかこれほど美しい運命の相手を見つけて連れてくるとは……いやはや重畳、実に重畳でございますな!」
アレスレインが豪快に笑い飛ばす。
「親父ッ! くだらん冗談を言ってソフィア様を困らせるなッ!」
グレイランスが慌てて顔を真っ赤にして割り込み、父親の言葉を遮った。
「ゴホン……それより親父、例の件だ。魔王族の討伐軍を大至急組織してほしい。大神殿からせしめてきた報酬は、山ほど用意してある。頼むぞ!」
「ああ、提示された依頼料は文句のつけようもないほど申し分ない。うちには腕に覚えのある命知らずな冒険者どもが山ほど揃っているからな。任せておけ」
アレスレインは力強く頷き、グレイランスと固い握手を交わした。
「グレイランス……絶対に無理はしないでね」
母親のエリザベートが愛おしそうにグレイランスの体を優しく抱きしめ、それからソフィアの方へと向き直った。
彼女はそっとソフィアの細く繊細な両手を包み込むように握りしめた。
「グレイランスは不器用な子ですが……どうかよろしくお願いしますね、聖女様」
その温かい手と柔らかな眼差しに、ソフィアの胸が温かいもので満たされた。
「……はいッ! 私がお守りいたします!」
この酒場は、アレスレインが経営する巨大な冒険者ギルド『傭兵天国』のラブル支店であった。
彼の率いるギルドのネットワークは、今や大陸中に広がっていたのだ。
ギルドを後にし、爽やかな朝日が差し込む街の回廊を二人で並んで歩く帰り道。
「……あそこがグレイランス様のご実家であるなら、最初からそう言ってくださればよろしかったのに……」
ソフィアはまだ少し赤みが残る頬を隠すように、頭巾の端を引っ張りながら小声で不満を漏らした。
「言う暇がなかったんだよ。それに……あんな荒くれた実家、自慢できたもんじゃないだろ」
グレイランスは気まずそうに頭の後ろを掻きながら、溜息をついた。
「……運命の相手、かぁ……」
ソフィアがぽつりと呟いた言葉。その響きに、彼女自身の胸がキュッと締め付けられ、耳たぶまで熱くなっていくのが分かった。
「おいおい! あの親父は適当なことばかり言う口軽オヤジなんだ! 変な冗談だと思って、気にしないでくれよな!」
慌てて前を歩きながら言い訳をするグレイランスの背中。
その少し不器用で、けれど誰よりも温かく頼もしい背中を見つめながら、ソフィアはクスッと可憐に微笑んだ。
「うふふ、いいじゃありませんか。素敵なご両親様でしたわ」
和やかな二人の空気。
しかし、二人が見上げる南の空の彼方には、漆黒の暗雲が重く垂れ込めていた。
冒険者ギルドによる討伐軍の結成、そして人間の底力――。
世界の運命を賭けた魔王族との最終決戦の刻は、すぐそこまで迫っていた。




