#09 野営地での会話
木々の間を抜けていく風が、アルノとフラウィアの頬を撫でる。
森の、湿った土の匂いに混じる獣臭と、どこか重たさを覚える気配。
ミレイア山へ近づくにつれ、空気そのものが少しずつ張り詰めていく。
アルノは鉈で低木を払いながら進み、その背後では、フラウィアが切り開かれた道を辿っている。
以前であれば彼女は、枝に外套を引っ掛け、斜面を登るたび息を切らしていた。
それが今では、足場の悪い岩場でも重心を崩さず、荷を背負ったまま一定の速度で歩き続けている。
肉付きの良かった脚には硬さが生まれ、
やわらかな頬は以前より幾分鋭く見えた。
「アルノさん」
アルノの背後から声が飛ぶ。
アルノが足を止めると、フラウィアは周囲を見回しながら言った。
「この先の、右の方向から変な感じがします」
「魔物ですか」
「おそらく。数は多くなさそうですが、少し嫌な感じです」
アルノは視線を巡らせる。
木々の密度。
斜面の傾き。
風向きと、そこに運ばれてくる様々な香り。
そして短く頷いた。
「迂回しましょう」
フラウィアは小さく安堵したように息を吐いた。
旅を続けるうちに、魔物の気配を察知する感覚が彼女の中で徐々に鋭くなっていた。
それはアルノには無い感覚だった。
フラウィア自身も最初は半信半疑だったものの、実際にその感覚によって危険を回避できたことは、一度や二度ではない。
今ではアルノでさえ、彼女の言葉を判断材料の一つとして扱っていた。
「さて、ここから今回の旅における難所の一つです」
斜面を登りながら、アルノが言う。
フラウィアは少し呆れたように笑った。
「難所じゃない場所なんてありましたっけ?」
「そうかもしれません」
アルノがわずかに笑った。
その表情を見て、フラウィアもつられるように笑う。
二人は再び山中を進み始めた。
◾️
その日は、崩れた岩壁の陰を野営地とした。
風雨を避けることができ、辺りからも姿が見えにくい。
アルノが周囲の安全確認をしている間に、
フラウィアは携行燃料を取り出して小さな器へ火を灯した。
湯気が立たない程度に、ほんのりと温める。
「どうぞ」
差し出された金属の杯を受け取り、アルノは「ありがとうございます」と軽く頷く。
いつからか、野営時の飲み物を用意するのはフラウィアの役割になっていた。
フラウィア自身も杯を両手で包み込み、熱を取り込むように息を吐く。
「はぁ……」
冷え切った身体に、わずかな温かさが染みていく。
夜の山で煙や熱は目立つ。
だから温かい飲み物を作るにも工夫が必要だった。
それから簡易的な寝床を整え、フラウィアは毛布へ横になる。
視線の先では、アルノが地図を広げ、黙々とルート確認をしていた。
その姿も、もう見慣れたものだった。
「アルノさん」
フラウィアが呼びかけると、アルノは地図から顔を上げた。
「ミレイア山まで、もうすぐですね?」
「はい。既に麓付近まで来ています」
「ようやく」
「ええ」
短いやり取りだったが、その言葉の重みは旅の始まりとは違っていた。
フラウィアは少し黙り込み、それから口を開く。
「……アルノさんは」
そう言ったところで、言葉が途切れる。
呼びかけられたアルノは、急かさずにただ続きを待った。
「……この任務が終わった後のことを、なにか考えていますか?」
つぶやくようなフラウィアの問い。
夜風が木々を揺らした。
アルノはすぐには言葉を返さなかった。
それから少しして。
「きっと──また別の戦場へ向かうと思います」
アルノは言った。
その言葉を受け取ったフラウィアは、目を細めて笑った。
「ふふ。面白いものですね」
「面白がるところが…?」
「いえ、アルノさんの答えが。ほとんど予想した通りでしたから。ああ、でも……『きっと』だけ、予想と違いましたね」
くすくすと笑うフラウィアに、困惑しながらアルノは首を傾げた。
「何があるかはわかりませんから。この任務のように、急な話が来ることもあります」
「あはは……それは、そうかもしれませんね」
二人は静かに笑った。
少しして、フラウィアが再び口を開く。
「大聖堂の、応接室」
懐かしむような声。
「あそこで初めてお会いした日のことを思い出しました。あの時、アルノさんは聞きましたよね。この任務について承知しているのか、と」
「はい」
「そして私は言いましたね。聖女としてできることをするだけだと」
フラウィアは天井代わりの岩壁を見上げる。
「本心でした。本当に、やるつもりでした」
何かを打ち明けようとしているのか。
そんな気配を感じて、アルノは居住まいを正し、体をフラウィアの方へ向けた。
「今にして思えば、私には見えていないことの方が多かったのだとわかります。
ミレイア山までの距離を、よく分かっていなかったように…私は降臨の儀を果たすということを、分かっているつもりで、よく分からないまま始めていたのです」
ゆっくりと、なぞるようにフラウィアは言葉を繋ぐ。
アルノはじっとフラウィアを見つめ、フラウィアはそんな彼の様子に気づき、小さく笑った。
「ここまで来て、ようやく怖くなったのかもしれません」
沈黙があり、しばらくしてから、アルノはゆっくりと口をひらく。
「おかしなことではないと思います。あなたに、命を使い切らせようとしているのですから」
その言葉を受け取ったフラウィアは、「そこはもう、納得しているんです」と首を横に振る。
それはアルノの予想とは異なる反応だった。
フラウィアは寝床に横たわったまま、アルノを見ている。
「この任務が終わった後に何をしよう。──そんな話を、アルノさんと共有できないことが、ちょっとだけ寂しくなったのです」
夜の闇へ溶けていくような声だった。
「こういう気持ちになることを、私は分かっていませんでした」
アルノは静かに、その言葉を聞いていた。
それから、やめたくなりましたか、といつかのような言葉をかけようとして。
「やめる気はありませんよ?」
先にフラウィアが答えた。
「それは、聖女としての責任感から?」
意図を伺うアルノに、フラウィアは「いいえ」と断言する。
「寂しさを分かった上で、私が決めました。それだけです」
そう言って、フラウィアは笑った。
「降臨の儀の後の世界について、ひとつ、言えることがあります」
静かにアルノが口を開く。
フラウィアは、アルノが何かを語ろうとする空気を察した。
そして言葉の続きを待った。
「私は、回収した遺品の持ち主を、全て覚えています。これは、私がそうしたいと思ったことです。だから私は、あなたの名前も忘れずにいるつもりです。フラウィア」
アルノとフラウィアはじっと視線を合わせている。
「降臨の儀の後の世界には、あなたとの旅を覚えて生きることにした人間がいます」
それから二人は、取り止めもない話をした。
城下町の食事のこと。
昔読んだ本のこと。
途中で見た景色のこと。
やがてフラウィアの声は少しずつ途切れがちになり、
静かにその意識を沈ませていった。




