#10 野営地で見た夢
私の古い記憶は、いつも光とともにありました。
大聖堂の天井から差し込む、白く眩しい光。
幾重にも重なる聖歌隊の歌声。
磨かれた床に反射する燭台のともしび。
幼い私は、その全てが好きでした。
物心ついた頃には、私は既に大聖堂で暮らしていました。
大聖堂には日々、多くの人が訪れます。
ただ静かに祈りを捧げに来る人。家族の無事を願う人。怪我をした兵士様。魔物に村を襲われ、拠り所を求める人。
私は祈りに訪れた人々を礼拝堂へ案内したり、聖務官の方々の手伝いをしたり、そんな日々の中で育ちました。
中でもよく見ていたのは、司祭様の姿でした。
「──リナ・フェルネ。あなたの言葉は、我々が責任を持って届けましょう」
「──ああ、司祭様……感謝いたします」
また別の日には、
「──ネヴィル・ロスタ。あなたはもう少し酒を控えた方が良いのではないか?」
「──いやあ、その……へへへ」
大聖堂には、様々な人が来ます。
ある日、私は礼拝堂にいた司祭様へ尋ねました。
「司祭様」
「ああ、フラウィア。どうしました?」
「大聖堂へ来る方々の名前は、どうして長いのですか?」
司祭様は少しだけ目を丸くしました。
「……長い?」
「リナさんはフェルネという名前が続きますし、ネヴィルさんにはロスタという名前が続きます。ですが私の名前は、ただの『フラウィア』です。私の名前には、皆さんのような”続き”はないのですか?」
私の質問に、司祭様は、小さく笑いました。
「ああ、家名のことですか。よく気付きましたね」
「かめい?」
「家の名前と書いて、家名。同じ家で暮らす人々は、ああして家の名前を共有するのです」
司祭様は少し考えるようにしてから、続けます。
「たとえば、フェルネという家名を持つ方はリナさんだけではありません。ロイドという男性もいたでしょう。覚えていますか?」
「はい。ロイドさんも、たまにいらっしゃいます」
「二人は夫婦。家族なのですよ」
「かぞく」
「フェルネという家の、リナとロイドというわけです」
司祭様は静かな声で続けます。
「同じ名前を掲げ、絆を持ってこの世界を生きているのです」
私は少し考えてから、また尋ねました。
「夫婦になると、家名が持てるということですか?」
「いいえ。たとえばリナさんは、ロイドさんと結婚する前は、セレスという家名を持っていました」
「せれす」
「そして二人の子供は、まだ誰とも結婚していませんが、リナさんやロイドさんと同じく、フェルネという家名を持っています」
司祭様は、私の目線に合わせるように少し屈みました。
「家名というのは、自分がどういった家や血縁の連なりに属しているかを確かめ、外に示すものなのです」
私はしばらく考えました。
司祭様の話を聞いて急に寂しさを覚え、不安になってしまったのです。
「それじゃあ、私には……家族がいないということでしょうか? 家名が、無いというのは」
けれど司祭様は落ち着いて、穏やかに微笑みました。
「特定の家族を持たないという意味では。しかし、それは私も同じですよ」
「え?」
「大聖堂で暮らす者は、誰一人として家名を持ちません。名、しか持たないのです」
私は思わず司祭様を見上げました。
「どうしてですか?」
司祭様は私の肩に手を添えて、ゆっくりと礼拝堂のステンドグラスに向かせました。
薄く波打つような、色とりどりのガラスを組み合わせて描かれた、大きな姿。
「大聖堂は神の家であり、神は名を持ちません」
司祭様は、ゆっくりと言葉を続けます。
「生まれも家も異なる我らが、人の世より集い、家名を捨てることで、神に仕える者となるのです」
幼い私には、まだ少し難しい話でした。
礼拝堂には、柔らかな光が差し込んでいました。
「家名を持つ者は、まず自らの家族へ第一に寄り添います」
「第一に」
「ええ。ですが我らは家名を持ちません」
そう言う司祭様は、静かに祈りを捧げる時の、優しい目をしていました。
「主の御許にて、博愛と献身の心をもって、優劣をつけず、万民へ寄り添うのです。真にそれができるのは、家名を持たない我々だけ」
私は、その時はまだ、全てを理解できたわけではありませんでした。
それは司祭様にもわかっていたのだと思います。司祭様は微笑んで言いました。
「少しずつ分かっていけばよいのですよ」
◾️
それから何年もかけて、私は大聖堂で様々なことを教わりました。
祈り。文字。歴史。
魔力核と呼ばれる鉱石の浄化。
いつしか私を「聖女様」と呼ぶ人が増えていきました。
魔物による被害が広がるにつれ、大聖堂へ運び込まれる魔力核の数も年々増えていきました。
冷たい器の中で濁っていく光。
そこに残された恐怖や後悔。
浄化を終える頃には、呼吸が苦しくなっていることもありました。
ある日、一人の聖務官の方が私の元へやってきました。
「聖女様。あなたは、ここから逃げるべきです」
私は驚きました。
その方は、誰よりも大聖堂でのお仕事に励んでいる方でしたから。
「逃げる、とは?」
「あなたは、この国を救うための儀式に、使われようとしている」
苦しそうな顔でした。
「古の儀式です。聖女の身を神々へ捧げ、その身へ神を降ろし、その力で魔を祓う」
震える声でした。
「ですが、その代償として、聖女の命と魂は失われる!本当かどうかも分からない儀式のために、あなたは生贄にされようとしているのです!」
やがて騒ぎを聞きつけた他の聖務官の方々が駆けつけ、その方は取り押さえられてしまいました。
床に倒され、打ち付けた顔からは血が流れてしまっているのが見えました。
私は何もできず、ただその方が連れていかれる様子を見ていることしかできませんでした。
その日の夕べ。司祭様のお部屋に呼ばれました。
暖かな紅茶と、王国を取り巻く状況と、大聖堂に伝わる「降臨の儀」。
薄暗い灯りの中で見る司祭様の顔は、ひどく険しく、どこか疲れの色を感じさせるものでした。
そこで、ようやく私は理解しました。
司祭様も。
聖務官の方々も。
皆、苦しんでいたのだと。
誰も彼も、ひどく疲れていると、その時分かったのです。
誰かに死を求めることを、喜んでできる人などいません。
それでも、万民のために。
誰かが考えなければならない。
誰かが言わなければならない。
誰かが、やらなければならない。
私はこの人たちほど、苦しみ抜いたでしょうか?
私はこの人たちほど、身を投げ打ってきたでしょうか?
私にしかできないことがあり、まだそれを私が果たしていないのならば。
家名を持たぬ者は、博愛と献身をもって、人々へ寄り添う。
私はかつて礼拝堂で教わった言葉と、あの時の司祭様の顔を思い出していました。




