#11 降臨の儀
山頂まであとわずか。
ミレイア山の山頂につづく道は、まるで世界から色が抜け落ちたように、視界に映る全てが白く塗りつぶされていた。
空も。岩肌も。降り積もる雪が何もかもを覆い、その白の中で、ただ一つだけ異質な影が、二人を見下ろしている。
細長い角。雪煙を反射して誇らしげに揺れる銀のたてがみ。
鹿のようにしなやかな四肢と、巨大な獣の爪。
裂けた口元から漏れる白い吐息が静かな威圧感を放つ。
「……っ」
山そのものが敵意を持ってこちらを見ているような感覚を覚え、フラウィアは思わず息を呑んだ。
隣でアルノが短く言う。
「走れますか」
問いではなく、確認だった。
「はい」
アルノは魔物から目を逸らさない。
「なら、進みます」
◾️
少し遡って、ミレイア山へ足を踏み入れたその日のこと。
二人の隠密行動はすぐに破綻した。何のことはない、ただ、魔物が多すぎた。
二人は巡礼路を避け、山腹内部を通る古い坑道へ進路を変えていた。
かつての巡礼者が壁面に彫った、風化した祈りの文字を横目に進む。
坑道は湿った獣臭が充満し、道幅は狭く、逃げ場もない。
ただ大勢の敵を一度に相手にするよりはいくらかマシだった。
先頭を歩くアルノは一度も歩調を緩めなかった。
魔物が現れれば、急所へまっさきに短剣を突き立てる。
狭い通路に油を撒き、火を投げる。
崩れかけた支柱を蹴り倒し、落石で通路ごと押し潰す。
荷箱を転がし、足を取らせ、そのまま首を断つ。
そこにある全てを使って道を切り開いていた。
フラウィアはその背へぴったりと張り付くように進む。
アルノの背中越しに血飛沫、断末魔を浴びた。
何度も死を間近に感じた。
それでも、こちらを振り返らないその背中への信頼は揺るがなかった。
「右へ」
「はい」
「足元」
「っ……」
短い指示だけが飛ぶ。
時には荷を捨てる判断をする。
フラウィアも通路封鎖の補助をする。
気付けば、二人は言葉を交わさずとも動けるようになっていた。
◾️
坑道を抜けた二人に吹雪が覆い被さった。
山肌へ張り付くような細い道。その下には、霧に覆われた谷底。
そして、その山の上方。
銀のたてがみを風に揺らす魔物が立っていた。
美しい。
フラウィアはそう思ってしまった。
雄大な自然の景色に畏怖と敬意を抱かずにはいられないように。
ほんのわずかな気の緩み、その瞬間。
魔物の角は輝き、遅れて、轟音が届く──猛り狂う雷光であった。
アルノは反射的にフラウィアと魔物の間に割って入り、剣を構えていた。
雷が剣へ叩きつけられ、火花が雪原へ散る。
「──っ!」
アルノ自身、今の一撃を防げるとは思っていなかった。
だが、魔物の角の向きや視線、そのわずかな重心の揺れが、アルノに一瞬だけ先を読ませていた。
フラウィアの全身が粟立ったのは、雷光がすっかり通り過ぎてから。
黒焦げの炭人形となるはずだったフラウィアの未来をアルノが変えた。
「進め!」
アルノが叫ぶ。
「ですが──」
「行け!」
フラウィアは唇を噛み、前方へ駆け出した。
魔物はそれを追おうとするが、だが同時に、吠え猛るアルノが大きく踏み込んだ。
剣閃。銀のたてがみが散る。
魔物は首を逸らし、アルノが放つ一撃を紙一重で避けた。
角が振り抜かれ、空気が裂ける。
アルノは身を沈め、避ける。
この魔物の攻撃を一度でも受ければ全てが終わる。
かわすと同時に力を込めるが、アルノの剣もまた届かない。
互いに互いを殺せないまま、膠着が続く。
吹雪。
吐息。
足音。
その時、フラウィアのいた斜面から乾いた破砕音が響く。
フラウィアは魔物から距離を取り、山頂へ続く斜面を駆け上がっていた。
アルノの目だけがわずかに動く。
最初は風音のように思ったものが、次第に大きくなる。
それから、山そのものが唸りをあげた。
──雪崩。
「アルノさん!」
耳に届く声。この雪崩は、何のために。
魔物もまた、この場の異変に気付く。
だが互いに目を離せない。
先に動けば死ぬ。
ほんのわずかに、魔物の立つ位置の方が高かった。
雪崩が迫り、魔物が飛ぶ。
それよりも僅かに先駆けて、アルノは剣を投げていた。
回転しながら放たれた剣が、飛び上がった魔物の胴へ深々と突き刺さる。甲高い悲鳴が場の空気を揺らした。
空中で体勢を崩した魔物は、そのまま白濁の奔流へ呑み込まれ、アルノもまた雪崩へ巻き込まれる。
とっさに鉤付き縄を投げると、岩へ引っ掛かった縄が軋み、全身が激しく振られた。
白と、轟音。
呼吸もできなかったが、それでもアルノは無理やり雪面から這い出た。
◾️
「フラウィア!」
返事はなくとも、呼び続ける。
アルノは雪を掻き分け、斜面を駆け上がる。
やがて。
倒木に縛り付けられるように身を固定した、フラウィアを見つけた。
「アルノさん……」
その声に、近づいたアルノは息を呑む。
雪と岩と土砂に半ば押し潰された下半身が見えた。
アルノは目を見開く。
フラウィアは苦く笑った。
「すみません、無理やり……雪崩を……。これしか、思いつきませんでしたので……」
白い息が漏れる。
「でも、アルノさんのことを、信じていましたよ」
フラウィアは続ける。
「ねえ、アルノさん……。わたし、頑張ったので」
震える声。
「神殿まで、おぶっていってくれませんか……。歩くのは、少し難しそうで……」
アルノは静かに頷いた。
その様子を見て、フラウィアは少し安心したように笑う。
「降臨の儀のために……、体力を残しておきたいんです」
◾️
ほどなくして山頂へと辿り着いた。
崩れた柱、砕けた石畳。
雪に埋もれた石柱の表面には、巡礼者が残した札がのぞく。
かつて信仰を集め、また人々が誇らしげに眺めた神殿は見る影もなかった。
神殿の奥。
割れた天蓋から白い光が降り注ぐ大広間で、アルノはフラウィアを降ろした。
「私にできることはありますか」
アルノは語りかける。
フラウィアはじっとアルノの目を見て、小さく息を吸った。
「……何があっても、私を止めずに、最後まで見ていてください」
壊れた体を引きずるように、フラウィアが一歩を踏み出す。
本来なら、まともに動ける傷ではなかった。
二歩、三歩。
白い衣が風に揺れ、それに呼応するかのようにフラウィアが舞う。
ゆっくりと祈りの言葉が紡がれる。
するとフラウィアの足元では、壊れた石畳の紋様が青白く灯り始めた。
「天の御座に在りしものよ」
静かな声。
「地に満ちる災いを祓い給え」
フラウィアの袖が揺れる。
石畳に灯った光は宙に流れ、遅れてフラウィアを追いかける。
光が指先に灯り、指先の通った軌跡が空中へと残り続けた。
「御身へ捧げます」
「この身を」
「この声を」
「この祈りを」
神殿の中の空気が震える。
フラウィアの体から溢れ出した魔力が、嵐のように渦巻き始めていた。
恐怖。
郷愁。
後悔。
悲しみ。
慈悲。
敬意。
友愛。
アルノの頬を魔力の奔流が撫でる。
無数の感情が飛来し、それから、多くの影を幻視した。
鎧の兵士、子供を抱いた女。杖で体を支える老人。
フラウィアのまわりに、取り憑くように、それとも支えるように、多くの人影が。
やがてフラウィアの声が揺らぎ始める。
「どうか」
「どうか」
「どうかどうかどうか」
舞が乱れる。
祈りだったものが、少しずつ崩れていく。
「聞こえていますか」
「フラウィアです」
「わたしです」
「いやだ」
「こわい」
「ちゃんと返して」
「返して」
「返して」
光が膨れ上がる。
フラウィアの瞳から涙が溢れていた。
「でも」
「でも、だめ」
「だめなんです」
「みんな」
「みんな苦しいから」
「だから」
「だからだから、だから」
声が軋む。
喉が裂ける。咳と、血。
笑っているとも、泣いているともつかない表情。
「どうぞ」
囁き。
「持っていってください」
静寂。
次の瞬間。
絶叫。
「だからッ!! ちゃんと終わらせてください!!」
「寒いのも!! 痛いのも!! 怖いのも!!」
「帰れないのも!!」
「忘れられるのも!!」
「全部ッ!!」
「全部終わらせてください!!」
光。
また強い光。
静まり、凍った空間を溶かすほどの熱を帯びた光。
「わたしがあげますから!!」
「だから!!」
「だからだからだからだから――」
それ以降、言葉は崩れた。
意味を失った音だけが世界を満たす。
笑い声。
泣き声。
祈り。
呪詛。
全てが混ざる。
「みみみみみみみ」
「かえして」
「さむい」
「あああああ」
「どうぞ」
「わたしを」
「どうぞ」
「おなかがすいた」
「こわい」
「ひかりを」
「どうぞ」
「どうぞ」
「どうぞ──」
何かが切れる音がした。
それが何だったのか、アルノにはわからない。
辺りに満ちた光が収束する。
ばらばらだった何かが、辻褄が、一つへ集まっていく。
アルノは、全てを見届けた。
戦友だった。
敬意を抱かずにはいられなかった。
何度でも引き戻したくなる背中だった。
閃光。
世界が白く染まる。
降臨の儀は果たされた。
ここから、アルノの仕事が始まる。




