#06 出立
中央大聖堂の鐘が最後の音を落とし、城下町から人の気配が薄れ始めた頃。
事情を知る僅かな者だけに見送られ、白い外套を羽織ったフラウィアは、石畳を静かに進むアルノの背を追っていた。
昼間であれば賑わう大通りも、今は静まり返っている。
わずかに窓明かりの残る家々を横目に、二人は最低限の言葉だけを交わしながら街の外れへ向かった。
フラウィアはどこかで、聖女として魔物の勢力圏へ向かうのだから、もっと厳かで、大勢の祈りに包まれるものを想像していた。
けれど実際は、夜陰に紛れて城を抜け出すような出立だった。
やがて石畳の道は終わり、二人は街道を外れる。
踏み固められた土の道、さらに進めば、それすら曖昧になっていく。
「こちらです」
アルノは迷いなく林道へ入っていった。
道はそのまま深い森へ入り、いつの間にか山の斜面となる。
城下町のそばに横たわる、魔物からの要衝となる山脈の尾根だった。
木々は深く、月明かりは枝葉に遮られている。
足元には露を含んだ草が絡みつき、慣れない斜面がじわじわと体力を奪っていく。
フラウィアは息を切らしながら必死についていった。
不意に足がもつれかける。
「あっ……!」
「休みますか」
「いえ……! だ、大丈夫です……!」
情けない声を出したくなくて、彼女は慌てて首を振った。
アルノはそんなフラウィアを決して急かさず、一定の速度で歩き続ける。
振り返っても城下町の灯りはとうに見えなくなり、周囲を囲むのは闇と森ばかりになっていた。
やがてアルノが立ち止まる。
「この辺りなら、もう関係者に見られることもないでしょう」
「……はい?」
フラウィアは肩で息をしながら、アルノを見た。
それまで足を動かすことに夢中で、なかなか頭がはたらかない。
アルノの言葉を上手く咀嚼しきれないでいると。
「着替えましょう。今の服ではこの山を越えることはできません」
「えっ」
フラウィアは目を丸くして、それから思わず自分の服装を見下ろす。
大聖堂が用意してくれた巡礼装束。
白を基調とした厚手の外套に、丈夫な刺繍入りの長衣、靴は上質かつ丈夫な革製。
「あの……一応、これは大聖堂の方々が用意してくださったものなのですが……」
「物自体は良いものですし、意図はわかります」
アルノは淡々と言った。
「防護性も高いですし、見栄えもいい。聖女として巡礼するなら正しい装いでしょう」
そこで一度言葉を切る。
「ですが、今回の行程には向いていません。重すぎますし、動きづらい。保温性も過剰です。何より、音が出る」
「音……?」
「布擦れです。夜の山では意外と響きます」
言いながら、アルノは背負っていた袋を下ろした。
「これを」
差し出されたのは、簡素な旅装だった。
目立たない色の上着、動きやすそうな細身のズボン。
使い込まれているが頑丈そうな外套、そして、軽い編み上げ靴。
「えっと、これを、私に?」
「そのために持ってきました」
フラウィアは戸惑いながら装備を受け取る。
そのまま少し離れた木陰で着替えを済ませ、戻ってきた。
「……どうでしょう」
「問題なさそうです」
短い返答だった。
それから歩き始めてすぐ、フラウィアは目を輝かせる。
「……確かに、動きやすいです!」
「でしょうね」
アルノはそれだけ言った。
◾️
それから数日。
二人は山中を進み続けた。
夜露に濡れ、岩場を越え、浅い川を渡る。
火を焚けない夜もあった。
フラウィアは毎日くたくたになっていたが、それでもどうにか食らいついた。
そして三日目の夕刻。
木々が不自然に途切れた場所へ出る。
空気が変わっていた。
鳥の声は消え、風だけが、静かに草を揺らしている。
「ここから先が、魔物の勢力圏との境界です」
アルノの声に、フラウィアは無意識に息を呑んだ。
さらに少し進んだ先に、村があった。
崩れた柵、焼け落ちた家屋、人の気配を失って久しい広場。
廃村だった。
「魔物の侵攻を止めきれず、前線が下がったのです」
フラウィアは静かに周囲を見回した。
誰もいない。
それなのに、つい最近まで誰かが暮らしていた気配だけが残っている。
「……アルノさんは、この場所を知っているのですか?」
「この付近で戦闘があった時、戦没者の遺品回収を担当しました」
「そう、ですか……」
フラウィアはそっと胸元で祈りを組んだ。
短い祈り、名も知らない人々へ向けた、せめてもの弔いだった。
一方でアルノは、村外れの崩れた建物へ向かっていた。
瓦礫をどかし、床板を外す。
その下から布に包まれた荷物を引っ張り出した。
「下見も兼ねて、少し前にここへ来たんです。その時に補給物資を隠しておきました」
「え……?」
フラウィアは目を瞬かせた。
「こ、ここまで、三日かかりましたよね……?」
「そうですね」
「それを往復で……? 計算が合わなくないですか?」
アルノは荷物の中身を確認しながら答える。
「その時は一人でしたから」
フラウィアは言葉を失った。
責めるような口調ではまったくなくて、だからこそ余計に、胸に刺さった。
「……私、本当にミレイア山にたどり着けるんでしょうか」
アルノは荷物をまとめ終えると、静かに立ち上がった。
「引き摺ってでもたどり着かせますよ」
そして当然のように言う。
「そういう任務ですから」
フラウィアは少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「……はあい」
不安が消えたわけではなかった。
この先の道すじで何が待っているのかも分からない。
けれど、もう旅は始まっていた。
フラウィアは冷えた夜風を吸い込み、静かな廃村の空を見上げた。




