#13 帰還
静まり返った神殿の中に、ひとつの遺体が横たわっている。
崩れた柱の隙間から差し込む薄い光が、その身体を鈍く照らす。
フラウィアの、雪崩で潰れていたはずの身体には、ひとつの傷も見当たらなかった。
血が付着し裂けた衣だけが、そこに確かに損傷があったことを示していた。
アルノはしばらくその場に立ち尽くしてから、やがて静かに歩み寄る。
膝をつき、フラウィアの手を取った。
冷たかった。
脈は無い。
手を離せば、その手は少しの抗いも見せずに重力に従うのだろうと思われた。
あれほど濃密だった気配は、もうどこにも残っていない。
フラウィアは去ったのだと、アルノは理解した。
ここまで、いくつの山を越えた。いくつ谷を抜けた。
泥の中を進み、崖を登り、魔物の気配を避けながら。
不慣れな旅を、それでも彼女は歩き続けた。
現実を知り、恐怖を知り、それでもなお、自分で進むことを選び続けた。
山頂での戦いなど、もはやフラウィアに命を救われたようなものだった。
戦友だった。
アルノは目を閉じた。
短く、息を吐き、ゆっくりとフラウィアの手を置いて、それから静かに立ち上がった。
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持ち込んでいた厚布を広げる。
遺体を包むために、この旅の初めから用意されたものだった。
フラウィアの身体を丁寧に包み、紐で固定し、大型の遺体袋へ収める。
背面装備へ固定具を噛ませ、荷重を調整する。
歩行時に揺れぬよう、腰側も補強する。
何度も繰り返してきた作業だった。
アルノは荷を背負い、崩れた神殿を後にした。
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ミレイア山の山頂の外気は、異様な静寂でアルノを迎えた。
魔物の気配が無い。
吹き抜ける風の音だけが、雪煙を巻き上げていた。
天蓋のような黒雲が消え、吸い込まれるような青がこちらを見下ろす。雪原が光を返し、アルノは思わず目を細めた。
山を下り始める。
往路で使った巡礼の坑道を逆走する。
崩落地点。魔物の死骸。
即席で塞いだ通路。
すべてを確認しながら、アルノは止まることなく進んだ。
細い岩場も。
谷底へ渡した綱も。
雪に埋もれた斜面も。
往路で難所だとフラウィアへ説明した場所を、アルノは次々と踏破していく。
あの時よりも荷重が増えていたが、それでも歩みは速かった。
迷いも、躊躇いも無い。
護衛も、歩幅を合わせる必要も、休息の確認も要らない。
必要ないものだったから。
単独行。
本来、アルノの任務とはこういうものだった。
とても身軽だった。
とても自由だった。
一歩を踏み出す。
二歩目で、歩みが自然と緩んだ。
アルノはそれに気づかず、そのまま歩き続けた。
野営も最低限だった。火は焚かない。
湯を作る必要も無い。
誰かのために足を止める理由が、もう無かった。
往路の半分にも満たない時間で、アルノは本国へ帰還した。
◾️
静かな夜だった。
人目を避け、指定されていた中央大聖堂裏口へ向かう。
薄暗い搬入口の前で足を止める。
「戦没者遺品返還部のアルノです」
短い沈黙があって、やがて内側から扉が開いた。
現れたのは、司祭長エドヴァルだった。
「……入れ」
小部屋には小さな灯りだけが置かれていた。
アルノは背面の装備を降ろし、遺体袋を静かに安置すると、固定具を外して袋を開いた。
フラウィアの顔が現れる。
まるで眠っているようだった。
エドヴァルはわずかに息を呑んだ。
それから静かに目を閉じ、小さく首を垂れる。
長い沈黙があり、やがてエドヴァルは一度だけ天を仰いだ。
「聖女フラウィアは以後、聖人に列するものとなる」
アルノは答えなかった。
エドヴァルもそれ以上何も言わなかった。
薄暗い部屋には、灯火の揺れる音だけが残る。
アルノは遺体と返還物の確認を始めた。
各種携行品。損傷した衣。
その最中、右手の内側に何かが挟まっていることに気づく。
小さな花片だった。
白く、わずかに青みを帯びた。柔らかな色。
見覚えは無かった。
少なくとも、山頂へ至るまでの旅路で見たものではなかった。
当然、「梱包」の際にも。
アルノはしばらくそれを見つめていた。
だが考えたところで、答えが出るわけでもない。
返還物のひとつとして、静かにエドヴァルへ差し出す。
エドヴァルはそれを見て、ほんのわずかに目を開いた。
それから何も言わず、ただ静かに受け取った。




