第20話 だれかのせんじょう
「なあシュン、大尉殿が俺らになんか用だったんか?」
大尉殿を私が見送り、おそらくそのあと別の機体の影ででも大尉殿と出会ったのであろうキース。
顔に書いてある文字といえば、腹も膨れていい気分……といったところか。
「まあ、少し今日についてご指導いただいたんだ」
「ほん、なんつってたんだ?」
「後で話す。それよりも今は機体を洗うのに集中した方がいいんじゃないか?私のをみての通り、なかなかこいつは手強いぞ」
あえて、激トビくんについては語らない。私が愛機を洗い終わるまでは私と同じ経験をしてもらう。
理由は言わずもがな。
飯の恨みは重い。
それに……あの煙草を吸わないまま気軽に使われるのも何か違う。
「まっ、俺は俺のテクニックで手早く終わらせるよ。シュンこそ、飯が食えるうちにさっさと終わらせろよ」
「洗浄の先達にたいした口の利きようだ。手本を見せてやるよ」
私のバケツの中には既に激トビくんが注がれており、クリスマスカラーな容器も既にキースの機体の位置からは見えない所に置いた。
つまり、キースが使うのは私とは違う通常の洗剤。
ふっ……勝敗は、勝負が始まる前に決まっているのだよ。
……まあ、今回は別に勝負という訳では無いが。
「くっそ、なんだこりゃ。全然落ちねぇじゃねえか!」
塗料の厄介さに気づき、悲鳴をあげるキースを横目に作業を続ける。
バケツの中から少なくも粘り強かったあの泡が切れる頃には、翼の生えたカエルは当然美しい尾翼と共に姿を現し、尾翼の次に洗い始めた胴体前方もその大部分が黒金色を取り戻している。
「なあ、シュン。お前だけ明らかに進みが早すぎやしないか?」
「……気のせいじゃないか?」
バケツの中の赤く染った水を少し離れた水場に持っていき中身を入れ替える。
あえて洗剤は水を入れる時に注いでいない。
2.5Lほど入っている激トビくんを持って行ってはその存在がばれてしまうからだ。
機体の横に戻ってきたら車輪の影で激トビくんを注ぐ。
スポンジをもってかき混ぜ、再度翼の上へ登る。
グリフォンは同じ胴体でも前方から後方にかけて低くなっていく傾向がある。
よって洗うのも前から順なのだ。
そうしなければ、せっかくきれいにしたところに塗料が滴ってくることになる。
ある程度美しさを取り戻していた胴体は早々に終わらせ、主翼に取り掛かる。まずは兵装を取り付ける上部パイロンの突起から。
こんなところにもしっかりと塗料は粘着するのだから機体動作に支障をきたさなかったことが驚きだ。
……あれを試すのは、明日整備が終わってからの方がいいかもしれない。
私は撫でる程度の強さで汚れが取れるため、わりと大まかな動きで洗浄が進む。
パイロンは複雑な突起部が多いため時間もかかったが、主翼、胴体などの平面部はそうでもない。
サクッと主翼上面が終わり反対側に取り掛かる。
キースが水を交換しに行ったようなのでちらっと進捗を見てみると、垂直尾翼が1枚ようやく終わるかどうかといった所だった。
大尉殿が来てくれなければあのペースで全てをやらないといけなかったと思うと恐ろしい。
激落ちくんと大尉殿には常に最敬礼をするべきだなこれは。
右主翼もあらかた終わり、機体から降りると翼の下から塗料と洗剤を含んだ液体が滴っている。
床に波紋を作ったそれらも、また後で片づけなければならない。
視線を少し上へ上げれば、翼の裏から少しだけ、汚れが消えている。
滴る洗剤がつたるときに汚れを浮かし、重力がきれいに流してくれているのだろう。
スポンジを翼の裏にあて、こする。
スポンジの隙間から、泡が顔へ滴ってくる。袖の中もびしょぬれだ。
こいつは、飯の前に風呂に行かないと、食堂のおばちゃんに叱られてしまいそうだ。
そろそろ身体も慣れてきたのか、上を洗うときよりも早く機体下部は輝きを取り戻していく。
「さて、そろそろ仕上げと行こうか」
機体下部を洗浄し終わり、激トビくんの役割もここまで。
長いホースを取り出したなら、これまた上から順に水をぶっかけ、洗剤を洗い流していく。
虹色の波紋を広げ、何だかんだ諸所に残っていた汚れもすべて綺麗に落ちていく。
だが、まだだ。
吸水性に全振りしたふき取り専用の大型のタオルを取り出し、丁寧に機体にあててゆく。
光を反射していた水気を失った狗鷲は漆のような黒、いわゆる漆黒を取り戻してゆく。
どこまでも深い、引きずり込まれそうな美しい黒だ。
いや既に引きずりこまれていたか。
とにかく、これで私の洗浄は終わった。
「それじゃあキース、私は飯食って来るよ」
キースはまだ、先と反対側の主翼を洗っている。
「早すぎんだろ……シュン、ついに本物の悪魔と契約したんじゃないだろうな」
「そんなわけないだろ。契約しているとしたらキース、お前だ」
絶対何か隠しているだろ、と目が語っているが私はあえて語らない。
「ま、ともかくじゃあな」
「……あぁ、また明日」
再び機体の洗浄に戻るキースを置いて、あらかじめ用意した着替えを抱えて私はひとまずシャワー室へと向かう。
汗と、塗料と、疲れ、それら全てを私自身から洗い流す。
自身についた塗料に関しては激トビくんを使うわけにもいかず、少々落とすのに苦労した。
隊服にもついているが……明日考えよう。
シャワーだからか、完全にさっぱりというわけにはいかなかった。
睡眠か、それともソラか。食事時を過ぎて人もまばらになった食堂を前に、さっさと並べられた食い物の下へ向かう。
訓練挟んで六時間以上ぶりの食事だ。
空腹と言う名の最大の視覚補正が働いている今、どの食べ物も旨そうに見えてしょうがない。
「ちょっとあんた、大尉殿の言ってた佐々木隼少尉かい?」
突然横から、大柄な女が話しかけてくる。
しかし、彼女に見覚えがないわけではない。
「えっと、確か食堂に勤めてらっしゃる……」
「わたしは調理師のロビン。大尉殿から伝言をいただいてね」
やはりか。鍋物や数量限定メニューなどをいただく時に厨房で見る事がある。
「今日の飯はわいのおごりや。ってね」
ロビンさんが指を差した方を見れば、だれも掛けていない席に手をつけられていないどんぶりらしき食事が一杯。
「詳細はメモを食事の横に置いていったよ。それじゃあわたしはあんたが来たらあんたの食事が置いてあることを伝えてくれって言われただけだから、これで失礼するよ」
「あ、ありがとうございます」
大尉殿が、食事まで?
これはこれでありがたすぎて怖いくらいだ。
どんぶりの中にはまだ温かい親子丼が入っている。傍には箸とレンゲとメモ。
メモの中には……
『やあ、佐々木少尉。これ読んどるってことは、自分の機体の掃除が終わったみたいやな。この親子丼はそのお祝いと次の仕事への活動資金でもある。あの話は別にいつかしてくれればそれでええ。さっさとこれ食べて、マルセイユ少尉を手伝ってきーや』
……まったく、大尉殿には敵わないな。
いつもの数百倍うまい飯を深く味わう間もなくかき込み、格納庫へと走る。
身体はエネルギーを得てか軽いが、かき込みすぎて親子丼が腹の中でダンスしているのがわかる。
少々痛い。
「お?なんだシュン。戻ってきたのか?」
「いや……まあちょっとな」
キースはまだ、胴体を洗浄している。
「キース、これ使ってみろよ……トブぞ?」
「……なるほど。そう言う魔法か。そんなこったろうと思ったよ」
その後私も手伝いながら、大尉殿から聞いたうちの片方の話をした。
煙草もなしにあの話は少し違う気がする。
そうして我々はそれぞれの愛機に美しい漆黒を取り戻させ、せんじょうを終わらせた。




