12 蒼の放浪者 4
高速エレベーターの中でのスクワットに似た感覚がゼシキを襲う。
地面をよく見れば、いや、よく見なくてもはっきりと分かる。
リーリエの魔術によって発生した土の霧とは異なる、もっと荒々しい地面の隆起によってゼシキは――空を飛んでいる。
「せめて知らせてほしいぞぉ!!」
サムズアップしていた慌てて手を引っ込め、自由落下に入る前に四肢を拡げバランスを取りながらゼシキは夜空に、舞った。
(綺麗だな……)
遥か上空で吹き荒れる風が雲を何処かへと運び、雲一つない満天の星空に打ち上げられる。
空には、二つに重なった大小の月が生み出す巨大な瞳が地表を蛍雪以上に照らし出す。
只の恒星の放つ光の反射だと理解していても、幻想的な光景であることに変わりはない。
宙を舞うゼシキは、眼前に広がる星の海に戦闘中とはいえ、目を奪われる。
(戦闘中でなければ、皆と夜桜と洒落込みたいな、ッと)
空中で身をひるがえしたゼシキは、汚染された巨大なオオカミの背負う石の盾の上に着地し、それらを足掛けに背に上る。
(!! 来るッ)
汚染された巨大なオオカミの背に乗ることに成功したゼシキは、足元の変化にいち早く気付く。
ソレは、一瞬の停止、という変化だった。
飲み込まれた大地から脱出しようと、狂いにさらなる狂いを重ね掛けしたような暴れ具合を見せていた汚染された巨大なオオカミが、怒髪天を超え過ぎた怒りに飲まれた一瞬の思考停止が、体を止めたに過ぎない。
石の盾を足蹴にされたという怒りと、足蹴にされることを許した己が不甲斐無さへの怒りが、拮抗しているに過ぎない。だが、結局のところ外に対する怒りも内に対する怒りも、共に怒りに過ぎない。
強大な力への抑圧は同等の力による抑圧を意味する。
なら、抑圧からの解放の意味するところは何か?
抑圧が共に同じ方向へと向く意味は何か?
「ハハハ、照れるぞ、そんなふうに見つめられたら……ははは……」
石盾を足掛けにするゼシキと、長い顎まで地に埋まり眼だけを向ける汚染された巨大なオオカミの瞳とゼシキの瞳が、交差する。
赤い瞳に映るゼシキと、新緑の緑を湛えた瞳に映るオオカミ。
ゼシキの軽口に対する巨大なオオカミは……
◇ ◇ ◇ ◇
……今度は、あなたですか?
呆れたような思いを『彼、彼女』は、吐露する。
石盾の表面に施された漆喰のこて絵の様な意匠の出っ張りに、足を掛け手を掛け登ろうとしている長い髪の青年を、大きな赤い瞳に移す。
今までの反応とは打って変わった『彼、彼女』の静かな心内とは異なり、体は素直に内に秘めた怒りを、爆発させた。
ヴォォォォォオオオクモオオオオオオッッッ!!
『彼、彼女』の表層意識の作り出す”思い”、とは異なる反応を体は取る。
深層意識の暴走――それが、汚染された存在たる所以であり、汚染理由の一つ。
意志ある存在は、誰しもが表層意識の統制下にない無意識を持ち意識と無意識の二つによって、意識は形作られる。
表層意識の遥か下に沈む無意識に存在する――意識。
集合的無意識の中に存在する個。
無自覚の中の自我。
個における深層心理の意識とでも言うべき精神を……精神性を意志ある者は皆、持っている。 呼び方はいくつもあるが、それらは端的に言えば、意志の力だ。
意志の力は、時として強力な力を個に与える源ともなる。が、何かしらの要因で意志の力が暴走すれば、本来なら表に出てくる筈の無い無意識の意識が現出し、個の中に存在する意識と無意識を隔てる壁を崩壊させ調和を乱し、力ある個を暴走へと導きかねない。
それが、『彼、彼女』の意志と無意識の不一致の結果として、現れる。
ただ、それは結局のところ『彼、彼女』が押し込めている感情の噴出に、他ならない。
つまるところ、これは、『彼、彼女』の意志の表れだ。
――コロス。
今までよりも明確に、単純に『彼、彼女』は、解離性の精神障害を持った患者の様な、意識の切り替えの早さで、ゼシキを睨む。
(お、おお)
明確に宿る個人に向けた殺意に、背筋が凍る。が、既に作戦は動いている。この程度で怯えて動けないようなら、冒険者最高位次席たるペタニウム級になど、なってはいない。
一歩手を石の盾の凹凸に掛け登ろうとした瞬間、「ヴォロスッ!! ヴォロスッ!! ヴロスッスズゥゥゥゥウウウウウウッ!!」っと、口の端から血の混じった泡を飛ばしながら、口内に流れ込む砂も石も木片もお構いなしに、噛み砕いて巨大なオオカミは、口走る。
屋久杉の直径にも匹敵しよかという野太い首が、周囲の土砂をはねのけ礫の降水量を増加させる。
「四秒っ!! 四秒よ、ゼシキッ!!」
汚染された巨大なオオカミが暴れるたびに捲れ上がり失った地面を埋めようと、新たな土を覆いかぶせ続けているリーリエは、先程と変わらぬ態勢を取っている。
ただ、額からは滝のような汗が流れ星明りを微かに照らし、言葉を紡い口からは、軋む音が聞える。
険しく寄る眉根は彼女に余裕がない事を告げ、祈る修道女のように地面に跪いて保持する杖からは、ミシミシと軋む音が微かに響く。
(リーリナッ、頼むわよッ!!)
木とは異なる素材で作られたセラミックに似た質感の白い杖が、リーリエの強化された握力で微かな悲鳴を上げる中、リーリエ自身抵抗の激しい巨大なオオカミを拘束する魔術の制御の重さに声ならぬ悲鳴を上げる。
背中に背負った三つの円柱型魔力バッテリー三つの表面に表示されている緑の魔力残量を示すケージは、既に二つが黒く染まっている。
◇ ◇ ◇ ◇
四秒――意識すれば長く、意識しなければ短い時間。
だが、戦いにおける四秒は、十分にして不十分な時間だ。 手の届く範囲の奇襲なら十分。
互いに睨み、相対するには不十分。
意図しない不意の攻撃からの回避ないし防御は、可能。
距離を取った攻撃位置の索敵には、不十分。
撤退を思慮するにも攻撃を判断するには、不十分。
攻撃、防御、回避、命令、判断、どれをこなすにしても、決して余裕のある時間では無い。
食いしばった歯の隙間から、くぐもった声で告げるリーリエに余裕はない。
(照れている場合じゃないな)
石盾の表面の施された装飾の出っ張りに手足を掛け、一足飛びに巨大な背に飛び乗ったゼシキは、張力を最大限まで上げた大弓を両足で踏み締める。
不思議な事にゼシキが石の盾から背に飛び移ると、汚染された巨大なオオカミの怒りの矛先はリーリエへと向いた。
少し先で、魔術を展開しているリーリエを、巨大なオオカミは睨み付けるが、その動きは緩慢で先程までの激しさは身を潜めていた。
諦めた、という訳では無い。
赤い瞳に宿る殺意は、今や石の盾から離れたゼシキでは無く、新たに魔術を発動した人物を見ていた。
(汚染体の癖に、やっぱり感が良いわね。誰を優先すべきか……分かっているじゃない)
うんともすんとも、言わなくなった巨大なオオカミの作り出す不気味な雰囲気の原因は、当然の事ながら歯を食いしばり、杖に悲鳴を上げさせるリーリエだ。
沈んだ巨体を取り囲む土の圧力を上昇させ、土の密度を変化させる術式を起動したのだ。
密度が変化した土は、瞬間的に固まった石膏のように巨体を固めているだけだ。
だが、これはあくまでも魔力がある内だけの出来事に過ぎない。魔力が尽きれば、すぐにでもアレは動き出す。
先程と違って、砂と砂との間に気体を送り込み密度を変化させた事と逆の事を行ったにすぎず、保有魔力が切れ、術を維持できなくなれば、今度こそ巨大なオオカミは容赦なく土砂をばら撒かせ窪地になった大地から、脱出するだろう。
(ゼシキ、頼むわよ。機動力ぐらい奪ってちょうだいッ)
リーリエの口からは内に溜まった熱気を吐き出す様に、熱い吐息が漏れる。
魔力バッテリーのお陰で魔力に余裕はあっても、それらを制御するのは、己が技量に他ならない。
思考は、放出される魔力と術式の制御に手一杯となり、脳は熱を帯び始めた。
僅かな時間の間に、脳の回転力が落ちてゆくのが分かる。それに伴い頭まで漬物石の様な重さに感じ、自然と頭が下がる。
いよいよ本当に敬虔な修道女じみてきた。と苦笑を汗ばむ顔に浮かべるリーリエの向ける視線の先にあるのは、地面では無く、杖を握る手であり、術式シリンダーの上に乗せた親指だ。
〈群レザル群衆〉によって、大地に飲まれた巨体が不気味にもピタリと動かなくなり、一秒、二秒と時が経つ。
その間にも、巨大なオオカミは鼻先まで沈み呼吸すらままならない状態でなお、リーリエを睨み見続けていた。
汚染されて尚、巨大なオオカミは、こと戦いにおいて魔力を行使できる者の厄介さを理解している。
自分自身が魔力を含んでいるとは言え、単純な物理攻撃しか出来ないが故に、だ。
だが、呼吸を阻害されている事は気にしていない。
魔物となった存在に、呼吸といった生理機能の阻害は有効的な手段とは言えないからだ。
本来生物にとって必須ともいえる食事や睡眠といった、幾つかの要素を魔物となった生物は、一定期間なら完全に遮断しても死ぬことは無い。
呼吸であれ、水であれ、食糧であれ、だ。
分かりやすい事例として、肺呼吸を主とする陸上生物を前段階として進化した魔物を水没させた場合、大抵の魔物は十分程度なら完全無呼吸状態でも動き回ることが確認されている。
当然苦しそうではあったがらしいが、それでも十分近くも動けていた、というのは陸上の肺呼吸を当たり前とする通常の生物ではありえない。
また、水と食料を完全に立った場合でも、短いもので十日。長いものに至っては一月も持ったのだ。
これらの魔物の死体を検分した結果、魔力の枯渇が顕著に表れており、一説には生物自体が元々生存に必要な要素を作り出す術式を生来持っているという説と、魔力の中にその系統の術式が存在している、と言う説が学者たちの間での主流となっている。が、冒険者や直接魔物と対峙する者からしてみれば、魔力量の多い魔物ほど呼吸系統や生理機能の阻害といった類の攻撃は有効ではない、という事実こそが重要だ。
無呼吸に近い状態でリーリエを睨み、気を取られている内に巨大なオオカミの背に上ったゼシキは、準備を整える。
少し足を開き踏ん張れる体勢を取り両足の踵で大弓を踏み締め、背中から幅、長さ、直径、共に二メートルと少しある大弓と比べても大きい、と感じる矢を取り出した。
矢は白く、表面に電気回路の基盤のような線が四本走り、その線に沿って金色の光の粒が時折、脈打つように走る。
ゼシキは、矢の中に装入済みの試作型一テラの魔力バッテリーを確認する様に、矢羽根の辺りを指で軽く数度弾き一瞬祈る様に目を瞑った。
(……頼むぞ)
失敗すれば後は無い、そんなが祈らせたのだろう。
短い祈りの後、ゼシキは……
「ふぅッ!!」
短い呼吸と共に、足の力に腰の力、肩の力に腕の力と総動員し、大地に矢を射るかのように弦を引き絞る。
その姿は、体育の背筋測定のようにも見える。
こめかみには青筋が浮かび、如何に弦に掛かる張力が強いかを窺わせた。
踏みつける様に両足で保持する大弓からは、巨木が倒壊するようなミシミシとした、嫌な音を短い間に激しく響かせる。
揃えた両手の間に一・二メートル程の矢を番える。
「……これで終わりだ」
静かに、汚染された巨大なオオカミに言うというよりは、自らに対しての一言のようにも聞き取れる一言を言うと、ゼシキは、弦を握る両手を離す。
矢じりと巨大なオオカミの背の距離は五センチ数と無い。 矢は轟音も衝撃も伴わず即座に目標へ到達する。
ゼシキの足元で、薄皮一枚ではあるが濃密な魔力の膜と、一本・大金貨十枚という平民所得の数十年分にもなる金額で販売されている特殊な素材と工程を踏み作成された、ギルド・ナガツキ製・固定術式内包型・魔力充填地着脱式・魔道機【矢型】(内包術式〈収束誘導点〉)の先端の矢じりとが接触し、激しい発光現象が起こる。
それらは、一瞬の出来事だった。
瞬きする間もなく、矢羽根が長い毛と厚い皮の下に潜り込む。
群青の毛に覆われた皮膚には、剣の柄ほどもある穴が空くも、血が吹き上がる気配はない。
それどころか、空いた穴からあふれ出たのは――光だ。
魔力同士が激しく接触したことを意味する七色の輝き。否、実際には七色と認識しているのは人の目だが、人が認識可能な色は、おおよそ五色。あとは言い伝えと想像による認識に過ぎない。
ただ、穴から立ち昇る光の柱には、あらゆる波長の光が溢れ出し美しいコントラストを描いているが、常人がそれを認識することは難しいだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
長く伸びた口が地面の下に埋まり酸素を絶たれたが、問題はない。
体が動かない事には、腹立たしいがそれも、問題はない。
今もこうして、体を動かそうと抵抗を続ける限り、目の前の術者の顔色は、悪くなる一方だ。
回転の鈍る頭でそう判断する『彼、彼女』は、背の上に乗る煩わしかった人間が、石の盾から離れた途端に興味を失くし、抱いた怒りも憎しみも自らの自由を奪っている目の前の人間に向ける。
その時だった。背中に何かが刺さったと感じたのは、痛みは無く衝撃も少ない。だが、紛れもなく何かが刺さったのだ。そう気が付いた時には『彼、彼女』の半身は動かなくなっていた。
どれ程力を入れても下半身は反応する事は無い。クラゲのように地面の下で掛かる圧力に、ただ、押し潰されるがままに従っている。
そんな異常事態に、流石の『彼、彼女』の汚染された思考も異常だと気が付いた。
焦りともとれる感情の渦が、渦巻いたことで『彼、彼女』は、再び意識の焦点を取り戻す。
だが、それは、体の手綱を自らが握るという事に他ならず、一時の正常に近い状態に身を置くことに他ならない。
一・二メートルもの長さの矢が根元まで埋まる。
それが意味する事など多くは無い。
都合よく狂った状態に戻れればよいのだが、生物はそんなに都合よく出来ていない。
だからこそ『彼、彼女』は、一時でも正常になった証を立てるのだ。




