第2章 瓦礫の中の少年 2-1:気配
2-1:気配
男は崩れた市街地を、一定の速度で進んでいた。
足元には砕けたレンガ、ねじ曲がった鉄骨、焼け焦げた家具の破片が散乱している。
どこを踏めば音が響き、どこを避ければ足場が崩れるのか。
どの瓦礫が見た目より軽く、どのコンクリート片が荷重で沈むのか。
そうしたことを、彼はほとんど無意識のうちに見抜いていた。
歩くというより、戦場の表面を読むように進んでいる。
煙の匂いはさらに濃くなっていた。
通りの奥では、半壊した建物の内部からまだ火がくすぶっている。
風が吹くたび、灰が舞い上がり、視界の端を薄く曇らせた。
燃えきれなかった木材の臭い。
濡れた灰の臭い。
金属が熱を持ったあとの、鈍い匂い。
街はまだ燃えているというより、壊された記憶をじわじわと煙に変えて吐き出しているようだった。
通信機は、今のところ沈黙している。
それがかえって、この一帯の静けさを際立たせていた。
静かすぎる。
砲声が遠のいたわけではない。
銃撃が止んだわけでもない。
街全体を覆う破壊の気配は変わらずそこにある。
それでも、この一角だけが妙に音を失っていた。
不自然な空白。
何かが息を潜めている場所だけが持つ沈黙だった。
人が隠れるには都合がいい。
待ち伏せにも向いている。
男は歩調をわずかに落とし、視線を左右へ滑らせた。
壊れた壁。
傾いた街灯。
道路脇に横倒しになった配送車。
その下に生まれた濃い影。
さらに先、崩れた建物の入口は暗く口を開けている。
二階部分は一部が落ち、瓦礫の山を作っていた。
窓枠は外れ、室内の空洞だけが黒く覗いている。
人がいるなら、あの陰だ。
撃つなら、あの角度。
逃げるなら、右手の半壊した壁まで三歩。
思考は言葉にならず、ただ配置だけが脳内に組み上がっていく。
そのときだった。
かすかな音がした。
ほんの小さな、石片が転がるような音。
空耳と言われればそれまでの、頼りない気配。
だが男の身体は、思考より先に反応していた。
彼は即座に身を低くし、銃口を音のした方向へ向ける。
引き金にかかった指には、一切の迷いがなかった。
瓦礫の陰。
崩れた壁と折れた梁の間。
人ひとりがかろうじて身を潜められるだけの隙間。
暗がりの奥は見えない。
だが見えないこと自体が危険だった。
男は呼吸を殺す。
敵か。
残党兵か。
あるいは囮か。
わざと音を立て、こちらの位置を探る手口もある。
単独で動く兵は少ない。
もし罠なら、すでに別方向から照準を合わせられている可能性もある。
彼の視線は周囲の死角をなぞり、逃げ道と射線を同時に計算する。
右へ飛べば半壊した壁が遮蔽になる。
左は開けすぎていて危険。
前進は不明。
後退は一手遅れる。
撃つなら、相手が動いた瞬間。
迷う時間はない。
もう一度、音がした。
今度は石の擦れる音ではなく、押し殺した息遣いのようにも聞こえた。
生きたものの気配だった。
男は低い声で告げる。
「出てこい」
返事はない。
銃口は微動だにしない。
わずかな動きでも見逃さないよう、視神経が研ぎ澄まされていく。
この沈黙は、戦場では何より危険な時間だった。
出るか、撃つか。
生き残る側は、いつも先に決めた方だった。
瓦礫の隙間に、影が揺れた。
男の指先が、さらにわずかに引き金へ力をかける。
その一瞬、彼の中で判断が走る。
体格は小さい。
武装の影は見えない。
だが断定は早い。
小柄な兵士もいる。
爆薬を抱えた子どもが使われた戦場を、彼は知っていた。
子どもであることは、無害の証明にならない。
むしろ、その思い込みこそが命取りになる場所を、いくつも見てきた。
だから、ためらう理由はないはずだった。
ないはずなのに――
男は、撃たなかった。
そのわずかな停止は、彼自身にとっても異物だった。
引き金を引くべき距離。
撃って当然の間合い。
それなのに、指先だけが命令に従わない。
瓦礫の奥にいる何かは、まだ姿を見せない。
空気は張りつめたまま動かない。
それでも、男の中で何かがほんのわずかに引っかかっていた。
戦場では、その一瞬が命を分ける。
そして彼は、これまで一度も持たなかったはずのその“間”を、今ここで初めて持ってしまっていた。




