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『誰のための戦争だ』  作者: Yukiya


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1-3:感情を捨てた理由

1-3:感情を捨てた理由


男は崩れた建物の影に身を潜め、次の移動のタイミングを測っていた。


周囲では断続的に銃声が響いている。

遠くで爆発が起き、そのたびに地面がわずかに揺れた。

壁の亀裂から細かな砂がこぼれ落ち、風に乗った灰が頬をかすめる。

だが、その程度の震動では彼の呼吸は乱れない。

脈拍も、視線も、引き金にかかった指先も、静かなままだった。


かつては違った。


最初の戦場では、音そのものが恐怖だった。

砲声が鳴るたびに肩が跳ね、瓦礫の中に転がる身体を見れば胃の奥がひっくり返った。

泣き声を聞けば足が止まった。

助けを求める目を見れば、自分が何のためにここにいるのか分からなくなった。


人が死ぬことに、ちゃんと痛みを感じていた。

自分の手が誰かの生死に触れることに、耐えきれない重さを覚えていた。


だが、そういう人間は長く持たない。


戦場は、優しさに報いない。

迷う者を生かしはしない。

何かを守ろうと手を伸ばした瞬間、その手ごと撃ち抜かれることがある。

誰かを助けようとして身を屈めた一秒が、そのまま自分の死に変わることもある。

ためらいは美徳ではない。

ただの遅れだ。

そして遅れは、容赦なく命取りになる。


男にも、守れなかったものがあった。


それが誰だったのか、彼はもうはっきりと思い出さないようにしていた。

仲間だったのか。

民間人だったのか。

あるいは、自分自身の中にまだ残っていた、何か柔らかなものだったのか。

記憶は曖昧になっている。

いや、曖昧にしたのだ。

輪郭を失わせ、名前を削り、痛みを薄め、そうしなければ前へ進めなかった。


ただ、ひとつだけ確かなことがある。


そのとき彼は、助けたいと思った。

本気で、心の底から、目の前の何かを失いたくないと思った。


そして、その思いは何ひとつ救わなかった。


伸ばした手は届かなかった。

叫びは爆音に呑まれた。

守ると決めたものは、彼の目の前であまりにも簡単に壊れた。

その脆さが信じられなかった。

人の命が、意志よりも、祈りよりも、ほんの一片の破片や一発の弾丸の方に簡単に負けることが、どうしても受け入れられなかった。


その日、彼は理解した。


考えるから苦しい。

感じるから迷う。

守ろうとするから、失ったときに壊れる。


ならば、最初から捨ててしまえばいい。


彼は少しずつ、自分の内側から切り離していった。


怒りを捨てた。

悲しみを捨てた。

期待を捨てた。

誰かを信じることを捨てた。

「人を救う」という綺麗な言葉を捨てた。

「正義」という曖昧な旗印も捨てた。


国のため。

平和のため。

未来のため。

そうした言葉を口にする者は、後方にいくらでもいた。

地図を広げ、境界線を引き、作戦の意味を語る者たち。

けれど前線で死ぬ者たちは、そんな言葉に守られてはいなかった。

理想は砲弾を逸らさない。

祈りは血を止めない。

大義は、壊れた家を元に戻してはくれない。


結局のところ、戦場にあるのは現実だけだ。


撃つか、撃たれるか。

進むか、止まるか。

生きるか、死ぬか。


その単純な選別の中で意味を探すこと自体が、彼には無駄に思えた。

意味を信じたところで、瓦礫の下敷きになった人間は戻らない。

祈ったところで、砲弾の軌道は変わらない。

正義を掲げたところで、焼け落ちた家は元には戻らない。


男はそれを知りすぎていた。


だから彼にとって戦場とは、何かを守る場所ではなかった。

正しさを証明する場所でもない。

誰かの涙に答える場所でもない。


ただ任務を終える場所だ。


与えられた目標を処理し、生き延びるか、あるいは処理しきった上で死ぬか。

それだけの場所。

それだけの場所だと思い込むことで、ようやく自分を保ってきた。


それでいいはずだった。


誰かを救う必要はない。

誰かのために泣く必要もない。

何も信じず、何も背負わず、ただ命令に従う。

そうしていれば、自分は壊れない。

少なくとも、そう思っていた。


通信機に再び声が入る。


『アルファ隊員、応答しろ。目標区域まで残り二ブロックだ。速やかに前進せよ』


男は現実に引き戻されるように、一度だけ瞬きをした。


「了解」


短く答え、壁から背を離す。


ライフルを構え直し、崩壊した市街地のさらに奥へ足を踏み入れる。

炎と煙の向こうに、新たな任務が待っている。

そこにどんな人間がいようと、彼には関係ない。

少なくとも、今まではそのはずだった。


このときの彼はまだ知らない。


この先の瓦礫の陰で、自分が捨てたはずのものを思い出させる一人の少年と出会うことを。

そしてその出会いが、任務だけで組み上げられていた彼の世界を、静かに、しかし決定的に壊していくことを。


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