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『誰のための戦争だ』  作者: Yukiya


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第7章 誰のための戦争だ 7-1:ここから先へ行け

7-1:ここから先へ行け


通路の奥で銃声が重なり始めた。


乾いた連射音が壁に反響し、崩れた鉄骨の隙間から細かな粉塵が降ってくる。

音はどんどん近づいていた。

壁を削る破片の音、崩れかけた支柱の軋み、足音と怒号が混ざり合い、通路そのものがひとつの狭い死へ変わっていく。

避難民たちは最後の力を振り絞るように出口へ向かっていたが、その動きは遅い。

老人は息を切らし、母親たちは子どもを抱え、怪我人は壁に手をつかなければ立っていられない。

子どもたちの足は短く、小さな段差ひとつで列が乱れる。

このままでは追いつかれる。

それはもう疑いようがなかった。


男は足を止め、振り返った。


視線の先に、少年がいた。


他の者たちが前へ進もうとしているのに、その少年だけが通路の中ほどで立ち尽くしている。

薄暗い中でも、その目に浮かぶ感情ははっきり見えた。

恐怖。

不安。

そして、それ以上に強い拒絶。

分かってしまっているからこそ、動けない目だった。

自分がここで残されるのではなく、この男がここに残ろうとしていることを、もう感じ取ってしまっている目だった。


「行け」


男は短く言った。


少年は首を振る。


「いやだ」


かすれた声だった。

だがその一言には、これまでのどの言葉よりも強い意志がこもっていた。

命令に従いたくないという子どもの反抗ではない。

失いたくないものにしがみつこうとする、裸の本能だった。


「行け」


男はもう一度言う。


今度は命令として、ではなく、必死に押し出すような声だった。

その声には焦りがあった。

時間がないことを知っている者の焦り。

そして、目の前の少年にだけはこの現実を受け入れてほしくないと願う者の、どうしようもない切迫があった。


少年の目に涙が浮かぶ。


「一緒に来てよ」


その言葉に、男の胸の奥が静かに痛んだ。


自分も行けるなら、その方がいいに決まっている。

今すぐこの少年の背を押し、自分もその後を追い、誰一人欠けることなくこの通路を抜けられるなら、どれほどいいだろう。

この子どもに、別れの言葉など残さずに済むなら。

もう誰も置いていかずに済むなら。

だが現実はそうではない。

誰かが残らなければ、この群れは途中で潰される。

その役目を果たせるのは、自分しかいない。


少年はさらに一歩、こちらへ近づいた。


「置いていかないで」


その言葉は、戦場の音よりも深く男に届いた。


砲声よりも。

命令よりも。

これまで見てきたどんな死の気配よりも、その一言は彼の内側に重く落ちた。

置いていかないで。

それはこの少年だけの言葉ではないように思えた。

助けを求めながら消えていった者たちの声。

守れなかったものの残響。

そうしたものが一瞬だけ、その短い言葉に重なった。


彼はゆっくりと、少年の前にしゃがみ込んだ。


今までの彼ならしなかった動きだった。

視線の高さを合わせることも、相手の顔を真正面から見ることも、必要のないこととして切り捨ててきた。

戦場では、そんな時間は弱さだと思っていた。

だが今は違う。

この瞬間だけは、銃も地形も命令も、何もかも後ろへ退いていた。


少年の顔は涙と煤で汚れていた。

頬はやせ、唇は乾き、目の縁は赤くなっている。

それでも、その目は最後まで男を見ていた。

最初に出会ったときと同じように、まっすぐに。

助けを求める目でもあり、信じようとする目でもあり、どうか裏切らないでほしいと願う目でもあった。


男は、そこで初めて柔らかい表情を見せた。


笑ったというほどではない。

ほんのわずかに口元の力が抜け、張りつめていたものが一瞬だけ和らいだだけだった。

だがそれは、ここまでずっと鋼のように固かった彼の顔に浮かんだ、初めての人間らしい表情だった。

誰かに向けてではなく、誰かのために自分をほどく表情だった。


彼は少年の肩に手を置く。


その手は大きく、硬く、戦場で何度も命を奪ってきた手だった。

引き金を引き、瓦礫を越え、死の中を進んできた手。

だが今、その手はただ一人の子どもを前へ送り出すためだけにあった。

壊すためではなく、つなぐためにそこにある手だった。


「生きろ」


男はそれだけを言った。


少年の唇が震える。

何か言い返そうとしたのかもしれない。

いやだ、と。

一緒に来て、と。

置いていかないで、と。

きっといくつもの言葉が喉元まで込み上げたのだろう。

だがそれは、最後まで言葉にはならなかった。

泣きたいのに泣けない子どものように、少年はただ息を詰めた。


男は続ける。


「ここで見たことを、忘れるな」


低い声だった。

静かだった。

だが、その中には確かな願いが込められていた。

命令ではない。

遺言とも少し違う。

もっと切実で、もっと人間らしい願いだった。


自分の代わりに未来を生きてほしい。

この理不尽を見た者として、踏み潰される側の痛みを知る者として、生き続けてほしい。

自分はここで終わるかもしれない。

それでも、この戦場で消えていいものと、消してはいけないものがあるのなら、それは目の前のこの少年の命だった。

自分がここで失ってもいいものがあるとすれば、それは自分の方だった。


男はゆっくり立ち上がる。


立ち上がるという動作が、そのまま別れの形になっていく。

少年はそのことを分かっている。

だからこそ、なおも立ち尽くしている。

足が動かない。

行かなければならないと分かっているのに、行ってしまえば本当に終わってしまうことも分かっている。


「前へ行け」


今度の声に、少年はようやく動いた。


涙をこらえながら。

何度も振り返りそうになりながら。

それでも前へ向かって走り出す。

避難民たちの群れの中へ吸い込まれていくその小さな背中は、頼りなく、今にも折れてしまいそうだった。

けれど同時に、確かに前へ進んでいた。

自分が託されたものの重さをまだ理解しきれないまま、それでも懸命に。


男はその背中を数秒だけ見つめていた。


ほんの短い時間だった。

だがその数秒の中に、これまで自分が守れなかったものの影と、ようやく守れるかもしれない未来の気配が、静かに重なっていた。


やがて、その姿が瓦礫の陰へ消える。


男は静かに息を吐き、振り返った。


通路の奥では銃声がさらに近づいている。

粉塵が舞い、頭上の鉄骨が悲鳴のような音を立てる。

戦争が、こちらへ口を開けて迫ってきていた。


だがもう迷いはなかった。


自分が何を選ぶのか。

何を守るのか。

どこで立ち止まるのか。


そのすべては、もう決まっていた。


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