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『誰のための戦争だ』  作者: Yukiya


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5-2:初めての拒絶

5-2:初めての拒絶


通信機が、まるで催促するように再び震えた。


『アルファ、状況報告をしろ。なぜ動かない』


男は受信機を耳元へ持っていった。

数秒、沈黙が流れる。

向こう側は、その沈黙そのものに苛立っているようだった。

命令が通ることを前提にできない沈黙。

従うはずの兵士が、従う前に考えている沈黙。

それが彼らにとってどれほど異常なことか、男にはよく分かっていた。


『応答しろ。命令を復唱しろ』


男は低く答えた。


「区域内に多数の民間人を確認。制圧は不可能だ」


その言葉のあと、通信の向こうが一瞬だけ静まった。

ほんの短い空白だった。

だが、その短さの中にも「あり得ない」という気配があった。

アルファが、現場判断で命令に異を唱えた。

それだけで十分に異常だったのだろう。


すぐに別の声が入る。

先ほどよりも強く、冷たい声音だった。


『判断するのはお前じゃない。命令を実行しろ』


男は壁の隙間から、もう一度区域を見た。


建物の陰を移動する影。

こちらへ逃げようとして足を止める母親。

崩れた車の横で身を寄せる老人。

瓦礫のそばで動けずうずくまる小さな影。

あれを見てなお、引き金を引けというのか。

それを“判断するな”と言うのか。

目で見た現実より、上から降りてくる言葉を優先しろと言うのか。


『アルファ、聞こえているか。制圧しろ。抵抗の有無に関わらず、区域を掌握しろ』


男は返さなかった。


通信の奥で空気が荒くなる。

苛立ちが、次第に威圧へ変わっていく。

いつもなら、その変化はどうでもよかった。

声は声でしかなく、怒号は雑音でしかない。

だが今は、その雑音の一つひとつが、人間の命を簡単に切り分ける刃のように思えた。


『命令違反は重大な軍規違反だ。繰り返す、ただちに任務を遂行しろ』


声が増える。


ひとりではない。

司令部か、上官か、別部隊の誰かか。

誰も彼もが同じ言葉を、違う言い方で押しつけてくる。


『お前一人の判断で作戦を遅らせるな』 『敵を逃がす気か』 『民間人に偽装した潜伏兵かもしれない』 『責任が取れるのか』 『従え、アルファ』


責任。


その言葉に、男の胸の奥が鈍く軋んだ。


責任とは何だ。


命令に従って引き起こされる死は、責任ではないのか。

地図の上から見下ろした判断なら、誰も傷つかないのか。

現場で見えるものを、見なかったことにして引き金を引けば、それは「正しい従順」で済まされるのか。

目の前で怯える者たちを誤差として踏み潰すことが、本当に兵士の正しさなのか。


その問いは、もはや頭の中だけのものではなかった。

胸の奥で、熱を持ち始めていた。

長く押し殺してきたものが、ついに言葉の形を取り始めていた。


男の中で、何かがはっきりと形を取り始めていた。


それは怒りだった。


敵兵に向ける怒りではない。

戦場そのものの構造に対する怒り。

正義を掲げながら、最も弱い者から壊していく仕組みに対する怒り。

守るという言葉を使いながら、守られるべき者を最初に切り捨てる論理への怒り。

それを長いあいだ疑問なく受け入れてきた、自分自身への怒りでもあった。


彼は受信機を握り直し、静かに言った。


「……拒否する」


向こう側が凍りつく気配が伝わってきた。


『何だと?』


その声には、怒りより先に純粋な驚愕が混じっていた。

死なない兵士。

どんな命令にも黙って従い、どんな戦場でも結果だけを持ち帰る男。

その男が、いま確かに“拒否”という言葉を口にした。

それが信じられないのだろう。


男はもう一度、今度ははっきりと言う。


「その命令には従わない」


声は大きくなかった。

だが、それまでどんな任務にも迷いなく従ってきた男の言葉としては、十分すぎるほど重かった。

怒鳴る必要などなかった。

この拒絶は、声量ではなく、その静かさによって決定的だった。


通信の向こうで怒号が飛ぶ。


『アルファ! 貴様、自分が何を言っているか分かっているのか!』 『即時任務復帰しろ!』 『命令拒否は反逆行為だ!』 『最終警告だ、従え!』


男は目を閉じなかった。

手も震えなかった。

不思議なことに、その瞬間の彼は今までより静かだった。


従い続けてきた年月が長かったからこそ、拒絶の言葉は重いはずだった。

それは自分の居場所を、自分の手で壊すに等しい。

信頼も、評価も、戦場での立場も、その瞬間から意味を変える。

それでも、口にしてしまえば、もう後戻りはなかった。


彼は初めて、自分の意思で国家の命令に背いた。


その瞬間、彼の中で何かが終わった。

そして同時に、何かが戻ってきた。


兵器のように生きてきた男の中へ、長いあいだ押し殺していた人間らしい痛みが、呼吸のように流れ込み始める。

苦い痛みだった。

鈍く、重く、息苦しい。

だがその痛みは、死んでいたものが戻ってくる感覚にも似ていた。


恐怖もある。

代償も分かっている。

これが何を意味するかも分かっている。

味方から見れば裏切りだ。

ここから先、自分はもう以前と同じ兵士ではいられない。

それでも、それ以上に「このまま従えば自分は本当に終わる」という確信があった。


引き金を引いてしまえば、もう二度と戻れない。

見てしまったものを見なかったことにはできない。

壊してしまったものの顔を、自分の中から完全には消せない。

そのことが、今の彼にははっきり分かっていた。


彼は国家の兵士であることをやめたわけではない。

まだ銃を持っている。

まだ戦場の中にいる。

まだこの街のどこにいても死が届く場所にいる。


それでもこの瞬間、彼はただ命令に従う兵士ではなくなっていた。


一人の人間が、ようやく自分の意思で立ち始めていた。


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