第5章 命令と良心 5-1:少年の言葉
5-1:少年の言葉
男は崩れた壁の陰から、指定区域を見つめ続けていた。
煙の向こうには、まだ人影が動いている。
ひとつ、ふたつではない。
子どもを抱いた者。
肩を貸して歩く者。
動けず壁際にうずくまる者。
身を縮め、ただ砲火が逸れるのを待っている者。
それらはすべて、彼がこれまで任務の外側に押しやってきた存在だった。
見えても数えないもの。
見ても判断の材料に入れないもの。
そうして切り離してきたはずの人間たちが、今日はやけにはっきりと視界に残っていた。
通信機からは、なおも命令が繰り返されている。
『アルファ、応答しろ。区域C-17を制圧しろ。残存勢力の掃討を優先する』
男は返答しなかった。
沈黙のまま、煙の向こうにいる人影を見つめる。
彼らがどこへ逃げようとしているのか。
どこで足を止めるか。
どこで砲撃に巻き込まれるか。
それが読めてしまう自分の目が、いまはひどく忌々しかった。
見えるから分かる。
分かるから、この命令の先に何があるかを想像できてしまう。
その沈黙のあいだに、背後で小さな気配が動いた。
振り返ると、少年がいつの間にかすぐ近くまで来ていた。
避難民たちのいる地下の入口のそばで、不安げにこちらを見上げている。
その顔は煤に汚れたままだった。
髪も服も、戦火の中を逃げてきた時間に擦り切れている。
だが目だけは、最初に出会ったときと同じように、まっすぐだった。
「……あそこにいる人たちも」
少年は、かすれた声で言った。
その声には怯えが残っていた。
けれど、それ以上に、どうしても確かめなければならないものに触れるような切実さがあった。
「みんな、悪い人なの?」
男の眉が、わずかに動く。
答えは出ているはずだった。
少なくとも、軍の論理ではそうだ。
疑わしきものは排除する。
敵の潜伏を許さない。
抵抗の芽は摘み取る。
そのために多少の巻き込みは仕方がない。
そういう理屈を、彼は何度も聞き、何度も実行してきた。
正しいかどうかを考える前に、そういうものだと飲み込んできた。
飲み込まなければ、自分が立っていられなかったからだ。
だが、目の前の少年に向かって、その言葉をひとつでも口にすることができなかった。
それを口にした瞬間、自分の中でまだかろうじて残っている何かまで死ぬような気がした。
少年はさらに言葉を継いだ。
「生きたいだけでも、だめなの?」
その問いは、あまりにも小さく、あまりにも重かった。
男は視線を逸らせなかった。
生きたいだけ。
それは地下にいる避難民たちにも共通する願いだった。
わずかな水を分け合い、パンの欠片を譲り合い、砲撃が止むたびにまた息をつきながら、どうにか今日を生きようとしている。
彼らは何かを奪おうとしているわけではない。
勝とうとしているわけでもない。
誰かを踏みつけて前へ出ようとしているわけでもない。
ただ、死にたくないだけだ。
明日まで、あるいは次の一時間まで、生き延びたいだけだ。
それなのに、その願いは命令書の上では簡単に切り捨てられる。
敵に紛れた可能性。
掃討上やむを得ない損失。
誤差。
大義のための犠牲。
その一つひとつの言葉が、今の男にはひどく薄っぺらく思えた。
薄っぺらいくせに、その上でどれだけ多くのものが押し潰されてきたのかを、彼は知っている。
言葉は軽い。
だが、その下で死ぬ人間の重さだけは、いつだって本物だった。
少年は、男の返事を待っていた。
責めるためではない。
非難するためでもない。
本当に分からないから聞いているのだ。
なぜ、生きたいだけの人間が追われなければならないのか。
なぜ、守るはずの大人が壊す側にいるのか。
なぜ、自分たちのような者が、いつも最初に逃げなければならないのか。
男は喉の奥で息を詰まらせた。
これまで彼は、考えないことで生き延びてきた。
そうしなければ壊れると思っていた。
事実、そのやり方でここまで生きてきた。
感情を削り、問いを閉ざし、目の前の死を処理として片づけることで、ようやく立っていられた。
だが、今のこの問いから逃げることの方が、もっと深く自分を壊すのではないかと、初めて感じた。
見ないふりをするたびに、自分の中の何かが少しずつ死んでいった。
そのことに、彼はようやく気づき始めていた。
守るべきものは何か。
その答えは、いつの間にか彼の目の前に並べられていた。
命令ではない。
地図でもない。
国境線でも、戦果でもない。
報告書の数字でも、作戦図の矢印でもない。
震えながらも生きようとする子ども。
互いに食べ物を分け合う老人。
母の背中にしがみつく幼子。
名前もないまま砲火から身を隠している人々。
そして、今ここで自分を見上げている一人の少年。
その小さな顔の中に、彼がずっと目を背けてきたものが、ひとつに集まっていた。
守られるべき命。
壊されてはならないもの。
銃を持たない者たちの、ただ生きようとする意思。
男はゆっくりと息を吐いた。
それは迷いを手放すための呼吸だった。
長いあいだ身体に染みついていた、兵士としての反応を静かにほどいていくような呼吸だった。
命令に従うこと。
余計なことを考えないこと。
自分の判断を挟まないこと。
そうして守ってきたはずの“兵士としての正しさ”が、今、音もなく崩れ始めていた。
彼の中で最後まで残っていた「兵士として従うべきだ」という習慣が、少年の一言で静かに断ち切られていく。
守るべきものは、もう分かっていた。
それは理屈ではない。
思想でもない。
戦場の真ん中で、目の前に並んでいる現実そのものだった。
そして男は、その現実から、もう目を逸らせなかった。




