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冬のほころび

 結城(ユウキ)から「少しだけ顔出す?」と連絡が来たのは、十二月の半ばだった。


 土曜の夕方、(リョウ)は部屋で英単語帳を開いていた。

 だが視線は紙の上を滑るばかりで、ほとんど頭に入っていない。ここ数週間ずっとそんな調子だった。(ミオ)といる時でさえ、どこか別の場所へ意識が流れる瞬間がある。奈緒(ナオ)の“変な顔”という、たったそれだけの曖昧な情報が、自分の中でまだ形を変え続けている。


 携帯電話が震えた。


 今、駅前でだらだらしてる

 奈緒もいるけど、

 少しだけ顔出す?


 諒はその文面を見たまま、しばらく動けなかった。

 行くべきではないと、頭ではすぐにわかった。澪と付き合っているのだから、奈緒がいると知っている場所へ、わざわざ顔を出す理由はない。断れば済む。それだけの話だった。


 それでも、携帯を伏せることができなかった。

 何かが起こると思っていたわけではない。そんな都合のいい期待を、少なくとも自分では抱いていないつもりだった。ただ、本当に何もないのかどうか、自分の目で見てしまいたかった。結城の一言を、自分が勝手に大きくしているだけなのか。あるいは、ほんの少しでも、何か引っかかるものがあるのか。


 いま思えば、その時点でもう順番が逆だったのだろう。目の前の関係を大事にするより先に、“別の可能性”の真偽を確かめに行こうとしている。それがどれだけ身勝手か、当時の諒には半分もわかっていなかった。


 諒は少し迷ってから、

 少しだけなら

 と返した。


 あの頃の諒にとって、“もしも”はいつも、現実より少しだけ明るく見えた。

 現実には責任がある。

 相手の気持ちがあり、自分の言葉があり、失った時の重さがある。

 だが“もしも”は、まだ何も背負っていない。

 だからこそ、どこまでも美しく膨らむ。

 その美しさに、諒はもう足を取られ始めていた。


   *


 結城たちは、駅前のファストフード店の二階にいた。

 土曜の夕方で、店内は学生や買い物帰りの家族連れで混んでいる。油の匂いと、トレーの触れ合う音と、どこかの席から漏れる笑い声。


 「お、ほんとに来た」

 結城がそう言って笑う。

 席には男子が二人、女子が二人いた。そのうちのひとりが奈緒だった。

 諒はその場で少しだけ足を止めそうになったが、結城に「座れって」と言われて空いた椅子に腰を下ろした。

 奈緒は思っていたよりずっと普通の顔で、

 「あ、青木くんだ」

 と言った。

 驚きすぎもせず、気まずがりもせず、ただ同級生が来た時の顔だった。

 「こんにちは」

 と諒は答える。

 その声が自分でも少しぎこちないのがわかった。


 特別なことは何も起こらなかった。

 結城が部活の先輩の話をして、男子のひとりが冬期講習の愚痴をこぼし、女子のひとりが駅前の新しい店の話をした。奈緒も普通に笑い、時々会話に入る。諒も相槌くらいは打ったが、自分の声がこの輪の中にあまり馴染んでいない感じがして、飲みかけのコーラの氷ばかりいじっていた。


 奈緒と直接話したのも、ほんの数回だ。

 「模試どうだった?」とか、

 「予備校ってどこ行ってるの?」とか、

 そういう、同級生なら誰とでも交わせる程度の会話。

 なのに諒は、その何でもなさに落ち着かなかった。


 もし本当に何かがあるのなら、もう少し空気が違うはずだ。

 視線が合うとか、言葉が選ばれるとか、そういう印がどこかにあるはずだ。だが実際には、奈緒はただそこにいるだけの女子でしかなかった。それが諒には、拍子抜けでもあり、妙に苦くもあった。


 自分だけが、あの一言を大きくしすぎている。そう認めてしまえば楽になるのかもしれない。けれどゼロだと断定されるのも、どこか惜しかった。


 諒はその短い時間のあいだじゅう、希望と失望のどちらにも振り切れないまま揺れていた。

 四十分ほどして、結城が「そろそろ俺、塾行くわ」と立ち上がった。

 奈緒たちも「あ、じゃあ帰ろうかな」と席を立つ。

 ファストフード店でのだらだらした合流は、それだけで終わった。


 階段を下り、駅前のロータリーで自然に輪がばらける。

 結城が奈緒に

 「じゃ、月曜な」と軽く言う。

 奈緒も

 「うん」と笑って返す。

 それだけのやり取りなのに、諒にはその自然さがひどく眩しく見えた。

 自分が可能性として眺めているだけのものを、結城はいつだって、こうして普通に通り過ぎていく。そのことに、説明しがたいざらつきを覚えた。


     *


 その帰り道、澪からメールが来ていた。


 今日どうだった?


 たったそれだけの文だった。なのに諒は、すぐに返信できなかった。ほんとうのことを書けるはずがない。結城に誘われて、奈緒もいる集まりに行っていた、なんて。後ろめたいことではないと言い張ることもできる。けれど、澪に隠したいと思った時点で、それがもう澄んだ行動ではないことくらい、諒にもわかっていた。


 結局、友達と少し会ってたとだけ返した。

 澪からの返事は短かった。


 そっか。じゃあまた明日ね


 その何でもない文面にまで、諒は勝手に棘を感じた。

 相手は何も責めていない。責められている気がするのは、自分が先に曇っているからだとわかっていた。


 それから澪との会話は、少しずつぎこちなくなった。

 喧嘩をするわけではない。嫌いになったわけでもない。ただ、噛み合わない。

 澪が何か話しても、諒の返事が半拍遅れる。諒が取り繕おうとすると、澪はかえって少し黙る。

 そのズレを、見て見ぬふりをしていた。


 十一月までなら、澪からのメールは一日を少し持ち上げる出来事だった。今はその嬉しさの中に、妙な引っかかりが混じる。返信を打ちながら、別のことを考えている。

 会っていても、会話の途切れた瞬間に、奈緒の顔が浮かぶ。自分はこんなにも手にしているのに、まだ別の何かを見てしまう。そのことへの後ろめたさはある。だが後ろめたさがあるからといって、心が止まるわけではなかった。


    *


 十二月のある日、澪と会ったのは、駅前の小さな喫茶店だった。店内には安っぽい銀色の飾りが下がっていて、有線放送から流れる英語の歌が、まだ少し早い冬の空気に浮いていた。

 澪は制服の上にグレーのコートを羽織り、席につくなり、寒い、と言って手をこすった。諒はその仕草を見て一瞬だけ、ちゃんと好きだと思った。


 こういうところだ。

 気取って見える時もあるのに、ふとした拍子に子どもっぽい。そのギャップが、どうしようもなく可愛かった。


 なのに、その日の諒はどこか会話に乗り切れなかった。

 澪は学校の話をした。推薦でもう進路が決まりそうな子がいて、クラスの空気が微妙なこと。女子校の友達関係の面倒くささ。最近、家にいたくなくて、帰りにわざと本屋で時間をつぶすことが増えたこと。


 「なんで?」

 と訊くと、澪はストローをいじりながら、別に大したことじゃないよ、と笑った。


 「うち、ちょっとだけ面倒なだけ」

 「面倒って?」

 「お母さんが、最近ピリピリしてて」

 そこで澪は言葉を切った。


 諒はもう少し訊こうか迷ったが、すぐにやめた。

 家庭の話に踏み込みすぎるのは違う気がしたし、何より、自分にそれをうまく受け止められる気がしなかった。だから、そっか、とだけ返した。


 澪はその返事を聞いて、少しだけつまらなそうな顔をした。たぶん、もっと何か言ってほしかったのだろう。でも諒はその時、それ以上どんな言葉を出せばいいのか思いつかなかった。慰めるのも違う気がするし、軽く流すのも違う。

 正解が見えない時、諒はたいてい黙る。黙っていれば、少なくとも大きく間違えはしない気がするからだ。だがたいていの場合、それは何も受け取っていないのと同じだった。


 沈黙を埋めるように、澪が話題を変える。

 最近見た映画のこと。

 クレープ屋の限定メニューのこと。

 諒も合わせて笑う。


 けれど笑っていても、どこか半歩だけズレている感じが、もう自分でもわかった。

 「最近さ」

 澪は小さな声で言った。

 「青木くん、たまにすごく遠いよね」

 諒はすぐには意味がわからなかった。


 遠い。


 その言葉を頭の中で繰り返してから、ようやく、ああ、と思う。


 「そうかな」

 「うん。話してるのに、別のこと考えてる時ある」


 その指摘に、諒は何も返せなかった。否定できるほど、自分でも自分の中身を把握していなかったからだ。澪は責めているわけではない。ただ、寂しそうだった。

 その寂しさを見てもなお、諒の心は一枚では動かなかった。澪に悪いと思う気持ちと、でも自分だって整理がついていないのだという言い訳めいた気持ちと、その両方が曖昧に混ざる。


 若い頃の諒は、こういう時に自分の未熟さを“誠実に悩んでいること”と勘違いしがちだった。

 本当はただ、目の前の相手より、自分の中で膨らんでいる“可能性”のほうに気を取られていただけなのに。


 店を出たあとの帰り道、澪は前より少しだけ口数が少なかった。駅へ向かう商店街のイルミネーションが、まだ十二月の半ばなのにやけに眩しい。諒はその明かりの下で、どうにか雰囲気を戻そうとして、来月公開の映画の話をしたり、模試の愚痴をこぼしたりした。

 澪は合わせて笑ったが、その笑い方に前のような柔らかさが戻りきらないのを、諒は感じていた。


 改札前で別れるとき、澪は珍しく、少しだけためらってから言った。

 「ねえ。私たち、ちゃんと付き合ってるよね」

 諒は、その問いの重さを一瞬で測りきれなかった。


 付き合っている。もちろんそうだ。

 そう答える以外にないはずなのに、なぜか言葉が遅れた。


 「……うん」

 「そっか」

 澪は笑おうとした。

 けれど笑いきれず、視線を少しだけそらした。

 その横顔を見た瞬間、諒の胸のどこかが冷えた。

 ああ、いま自分は、何か大事なところで間違えているのかもしれない、と、ぼんやり感じた。

 だがその感覚も、決定打にはならなかった。

 まだ戻れる。

 まだ取り返せる。

 まだ、自分がちゃんとすれば大丈夫だ。

 そう思いたかったし、実際にそう思っていた。

 だから諒は、その場で澪を引き止めて、何を不安にさせたのか聞くこともしなかった。

 ごめん、と明確に言うこともしなかった。

 ただ次会う時にちゃんとしていればいい、と思った。

 いつでも少し先の自分に解決を先送りする癖は、その頃からもう始まっていた。


     *


 クリスマスの少し前、澪から


 会いたい


 と連絡が来た。

 それは、今までの澪にしては珍しくはっきりした言葉だった。諒はその一文を見た時、胸の奥が少し痛んだ。ここでちゃんと向き合えば、まだ戻れるのかもしれない。

 そう思った。

 けれど、思っただけだった。


 待ち合わせたのは、澪の学校から少し離れた駅前だった。

 冬の夕方は暗くなるのが早く、商店街の飾りだけがやけに明るい。澪はマフラーに顔を半分埋めていて、諒を見ると少しだけ安心したように笑った。その笑顔を見て、諒は苦しくなった。いまの自分は、その安心にちゃんと応えられていない。それがわかっていたからだ。


 ふたりは駅前の通りを少し歩き、人気のない公園のベンチに腰を下ろした。しばらくのあいだ、どちらも本題を切り出せなかった。風が冷たく、遠くで電車の音がした。


 やがて澪が、静かに言った。

 「最近、変だよね」

 諒は何も言えなかった。

 その一言を否定できるほど、自分の中身がまっすぐではなかった。


 「私、何かした?」

 「してない」

 「じゃあ、なんで」


 諒は視線を落としたまま、

 「……わからない」

 と答えた。


 その言葉が、いちばん正直だったのかもしれない。けれど、その正直さは、澪にとっては何の助けにもならなかった。


 澪はしばらく黙っていた。

 泣きそうでも、怒っているふうでもない。

 ただ、諒の答えをそのまま受け取ろうとしているようだった。


 「ねえ」

 少しして、澪が言った。

 「私といるの、もう前みたいに楽しくない?」

 諒はすぐに否定した。

 「そんなことない」

 だがその言葉は、自分でも驚くほど頼りなかった。

 楽しくないわけではない。

 好きじゃなくなったわけでもない。

 でも、目の前の澪だけを見ていられない自分が、もう確かにいた。

 その沈黙が、澪には十分だったのだろう。

 「そっか」

 澪は小さくそう言った。

 そこで諒は、ようやく何か言わなければと思った。

 違うとか、ごめんとか、少し待ってほしいとか。

 けれど、どの言葉も遅すぎる気がして、喉の奥で止まった。

 澪は、責めるような顔をしなかった。

 それが余計に痛かった。


 「青木くん、たぶんずっと、別のこと考えてる」


 その言い方は、怒りではなく確認だった。

 澪はきっと、もっと前から気づいていたのだ。

 諒がここにいても、どこか別の場所を見ていることに。

 諒は、うまく否定できなかった。

 否定できないことが、そのまま答えになった。


 澪は立ち上がり、ベンチの前に落ちていた枯葉を少しだけ靴で避けた。

 それから諒のほうを見て、静かに言った。

 「私、ちゃんと好きだったよ」

 その一言が、諒の胸に深く落ちた。

 過去形なのだと気づいた瞬間、何かが遅れて壊れる音がした。

 「……ごめん」

 諒がようやくそう言うと、澪は少しだけ笑った。

 その笑いはやさしくもなく、冷たくもなかった。

 ただ、どこか疲れていた。

 「うん。さよなら」

 それだけ言って、澪は駅のほうへ歩いていった。

 振り返らなかった。

 諒は追いかけることもできず、その背中が人混みに紛れて見えなくなるまで立ち尽くしていた。


     *


 その夜、諒はほとんど眠れなかった。澪と別れた、という実感がなかなか身体に入ってこない。

 大きな喧嘩をしたわけではない。どちらかがひどいことを言ったわけでもない。ただ、自分が目の前にいなかったことで、関係が終わった。


 もしあの時、結城の一言をそのまま流せていたら。

 もし奈緒の反応に意味を見なければ。

 もし澪の寂しさにもっと早く気づけていたら。


 そんな“もし”が、夜のあいだじゅういくつも浮かんだ。けれど、その一方で諒の中には、まだ消えないものもあった。“別の可能性”が、完全に閉じたわけではないという感覚。

 そんなことを考えてしまう自分を、最低だと思いながらも止められない。

 澪を失った痛みと、まだどこかに残る“もしも”への執着。

 その両方を抱えたまま、諒は朝を迎える。


 その冬の終わり、結城と奈緒は付き合い始めることになる。


 諒が可能性として眺めていただけのものを、結城は現実の出来事として手に入れる。

 その時、諒の中で何かが決定的にねじれることを、まだこの頃の彼は知らなかった。


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