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もしもの入口

 結城(ユウキ)がその話をしたのは、放課後の渡り廊下だった。


 十一月に入って、海風館高校の空気は急に乾いていた。窓を閉め切った教室には暖房の気配が混じり、廊下の先には夕方の青白い光がたまっている。三年生の空気が重くなり始め、二年もそろそろ受験の話を他人事では済ませられなくなる時期だった。なのに結城は、そういう季節の切り替わりに妙に鈍感な顔で、購買のカレーパンを片手に立っていた。


 「そういえばさ」


 何でもない話の続きをするみたいな調子だった。

 諒は鞄の中に英語のノートをしまいながら、何、と気のない返事をした。


 「篠原(シノハラ)

 その名前を聞いた瞬間、諒の手はほんの少しだけ止まった。

 だが結城はたぶん気づいていない。


 「お前に彼女できたって聞いて、ちょっと変な顔してたぞ」

 (リョウ)は、え、と言った。

 それは聞き返したというより、ただ音が漏れただけに近かった。


 結城はカレーパンを齧り、別に大した意味もなさそうな口調で続ける。


 「いや、たまたま話しててさ。青木(アオキ)、俺の従姉妹と付き合ってるらしいよって言ったら、へえって。なんか、ちょっと間があった」

 諒はそれ以上何も言えなかった。言えないまま、どういう顔してたの、と訊くべきか迷った。

 でも、その問いを口にした瞬間に、自分の中の何かが露骨になる気がして、飲み込んだ。

 結城はそこでようやく、諒の反応が少しおかしいことに気づいたのか、面白がるように片眉を上げた。

 

 「なに。まだ篠原のこと気にしてたの」

 諒はすぐに否定した。

 「別に」

 驚くほど早く口から出たその一言が、自分でも少し不自然だった。

 結城は、ふうん、とだけ言った。


 それ以上追及はしてこない。追及されないことに、諒はほっとすると同時に、少しだけ苛立ちも覚えた。結城は昔からそうだった。人の心のいちばん柔らかいところを、わざとか偶然かわからない手つきで一度触れて、それ以上は責任を取らない。


 廊下の窓の向こうで、校庭を走るサッカー部の掛け声が聞こえた。

 諒は鞄を持ち直し、じゃあ帰るわ、と言った。

 結城はうん、と答え、残りのカレーパンを口に押し込んだ。


 その日、諒は家に帰るまでに、篠原奈緒(ナオ)の顔を何度思い出したかわからなかった。

 図書室で本を探していた横顔。

 文化祭準備の日、段ボールを抱えて階段を下りていった後ろ姿。

 朝の昇降口で、友達と並んで笑っていた時の少し上がる口元。

 断片だけならいくつもある。だが、実際に何を話したのかはほとんど覚えていない。というより、ほとんど話していないのだ。ただ見ていただけの相手。見ているうちに、勝手に意味が大きくなっていった相手。


 その人が、自分に彼女ができたと聞いて、変な顔をした。

 それが何を意味するのか、諒にはまったくわからなかった。

 驚いただけかもしれない。

 誰にでもある表情の間かもしれない。

 結城が面白がって少し誇張しただけかもしれない。

 そう頭ではわかっているのに、心のほうはまるで別の速さで動き出していた。


 ――もし、少しでも何かあったのだとしたら。

 その仮定には、具体的な未来がない。


 篠原と付き合いたいとか、今からどうにかなりたいとか、そういう現実味のある話ではなかった。

 ただ、自分が手にしているものとは別に、もうひとつの可能性が本当に存在したのだとしたら。

 そして自分は、その入口に気づかないまま通り過ぎてしまったのだとしたら。

 諒の胸の中で膨らみ始めたのは、恋よりもっと曖昧で、もっと厄介なものだった。

 それは、失うにはまだ早いかもしれない可能性への執着に近かった。


 翌日、諒は結城のクラスへ行かなかった。

 行けば奈緒の姿を探してしまう。探したところで何も変わらない。そう思ったからだ。

 だが行かなかったところで、頭の中から消えるわけではない。二年三組の前を通るたび、つい教室の中へ目が流れる。


 篠原奈緒は友達と話していた。

 それだけだ。

 それだけなのに、自分のことが話題になった可能性を考えずにはいられない。


 数日後、渡り廊下で結城に呼び止められた。

 「おい」

 振り向くと、結城は片手に紙パックのカフェオレを持っていた。

 冬が近づくと、海風館の渡り廊下は急に冷える。窓の隙間から入る風で、制服の袖口のあたりだけ温度が違った。


 「この前の、気にしてる?」

 と結城が言う。

 諒は一瞬だけ、何のことかわからないふりをしようかと思った。

 だが結城の顔を見ると、それは無理だった。


 「別に」

 と諒は答える。

 その速さが、自分でも少し不自然だった。結城はそれを聞いて、少しだけ笑った。


 「そういう返しの時って、だいたい別にじゃないよな」と言う。

 諒は返す言葉がなく、手すりの向こうの校庭を見た。

 夕方の光はもう冬に近く、空の色が早く薄くなる。


 「いや、別に大した意味ないと思うけど」と結城は続ける。

 「奈緒って、わりとわかりやすいリアクションするし」


 わりとわかりやすいリアクション。

 その軽い言い方が、諒には少し腹立たしかった。

 だが同時に、結城にとっては本当にその程度なのだろうとも思う。

 見たままを言っただけ。

 その一言が、諒の中でどれほど長く尾を引くかまでは、想像していない。


 「まあいいけど」

 と諒が言うと、結城は

 「ふうん」

 とだけ返した。


 少し沈黙が落ちる。

 結城は紙パックのストローを噛みながら、諒の横顔をちらりと見る。


 「お前、(ミオ)とは順調なんだろ」

 と、ごく自然に話題を戻した。

 諒はそこで、余計に何も言えなくなった。


 順調。

 そう言われればそうなのだろう。

 付き合っている。

 たまに会う。

 メールも続いている。

 澪はちゃんと諒の恋人なのだ。

 なのに、その順調さの中で、奈緒という名前のついた“別の何か”がまだ消えていない。

 それが、自分でも少し気持ち悪かった。


 「うん」

 とだけ諒が答えると、結城は

 「ならそれでいいじゃん」

 と笑った。


 それでいいじゃん。

 そんなに簡単なら苦労しない。

 諒はその言葉に何も返さず、渡り廊下の先へ歩き出した。

 結城もそれ以上追いかけてはこない。

 そういう距離の取り方ができるのも、結城らしかった。


     *


 その夜、澪からメールが来た。

 今度の日曜、映画どうする? 新しく始まったの、ちょっと観たい

 いつもの諒なら、それだけで十分に嬉しかったはずだった。

 澪から先に誘ってくることは、たまにしかない。諒はまずその事実に浮かれ、それから上映時間を調べ、待ち合わせの駅を決め、帰りにどこで何を食べるかまで考えただろう。

 だがその日は、画面を見た瞬間に、少しだけ違う感情が混じった。


 嬉しい。

 それは確かにある。

 でも同時に、どこかが落ち着かない。

 諒は返信の文面を打っては消し、打っては消した。

 日曜なら行けるよ、と素直に返せばいいのに、なぜか少し間を置きたくなった。

 自分でも理由はわからない。

 ただ、すぐに飛びついてしまうと、いま胸の中に広がっている“別の感触”が、急に見えなくなる気がした。


 結局、返信したのは三十分ほど経ってからだった。

 たぶん大丈夫。時間わかったら教えて

 送ってから、諒は自分の文面の冷たさに気づいた。

 たぶん、なんて必要なかった。

 大丈夫、とだけ言えばよかった。

 時間わかったら教えて、も、どこか人任せな響きがある。


 案の定、澪からの返事は少しだけ素っ気なかった。

 わかった。じゃあまた送るね

 それだけの短い文面を見て、諒は小さく息をついた。


 どうしてこんなふうになるのだろうと思う。

 澪に不満があるわけではない。

 むしろ、好きなのだ。会えば嬉しいし、隣にいると落ち着かないほど満たされる。

 なのに、篠原奈緒の“変な顔”という、たったそれだけの曖昧な情報が、自分の中のどこかを簡単に揺らしてしまう。


 諒は携帯を閉じ、机の上の数学の参考書を開いた。

 ページの上では数式が整然と並んでいる。正しい手順を踏めば、答えはひとつに決まる。

 その明快さが羨ましかった。

 恋愛も、人生も、こんなふうに解ければいいのにと、その時の諒は本気で思った。

 いま思えば、その時点でもう間違っていたのだろう。

 正解がひとつあると思っている時、人は目の前にあるものを簡単に軽く扱う。


     *


 日曜の映画館で、澪は少しだけ不機嫌だった。

 理由ははっきりしない。

 待ち合わせに遅れたわけではないし、映画も彼女が観たがっていたものだ。なのに、ポップコーンを買う時も、売店の前でどちらの味にするかを決める時も、どこか言葉が少ない。


 諒が「何かあった?」と訊くと、澪は少し考えるような顔をしてから、「別に」と言った。

 その“別に”の響きを、諒は前にも何度か聞いたことがある。

 本当は別に何もないわけではない。

 でもうまく言葉にできない時、澪はそう言う。

 

 映画が始まれば、彼女はちゃんとスクリーンに集中した。

 笑うところでは笑い、最後には少しだけ目を赤くしていた。

 けれど終わって明るくなった館内で、諒が「面白かったね」と言っても、澪は「うん」としか返さなかった。


 駅へ向かう途中、諒は妙に神経を使った。

 何がいけなかったのか考える。返信が遅かったことかもしれない。文面が冷たかったのかもしれない。あるいは、そんなこととはまったく関係なく、彼女には彼女の気分があるだけかもしれない。

 にもかかわらず、諒の中では別の思考が、まったく別のところを走っていた。


 ――篠原は、本当にそんな顔をしたのだろうか。

 ――結城は、どんなふうにその話をしたのだろう。

 ――もし自分に彼女がいなかったら、何か違ったのだろうか。


 目の前に澪がいる。

 澪と映画を観て、歩いている。

 それなのに諒の心のどこかは、いまここではない“入口”のほうに向いていた。


 駅の改札前で別れる時、澪がふいに言った。

 「今日、なんか変だったよ」

 諒は思わず顔を上げた。


 澪は責めるでもなく、ただ少し疲れたような目でこちらを見ている。

 「そう?」

 「うん。なんか、ここにいない感じ」

 その言葉に、諒は何も返せなかった。

 図星だったから、というより、自分でも自分のズレ方をまだうまく理解していなかったからだ。


 澪は、じゃあね、と言って改札を抜けた。

 振り返らなかった。

 諒はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥に小さな不安が落ちるのを感じた。

 それでもまだ、この時の諒は思っていた。

 少し気をつければ戻れる。

 ちゃんとすれば大丈夫だ。

 澪との関係も、篠原へのひっかかりも、どちらも自分の中で整理できると。


 若い頃の過信というのは、たいていそういう形をしている。

 取り返しがつかなくなる直前まで、自分だけはまだ間に合うと思っているのだ。


 それからしばらくのあいだ、諒は篠原奈緒を見かけるたびに、以前よりもはっきり意識するようになった。


 朝の昇降口。

 昼休みの廊下。

 図書室の返却カウンターの前。


 それまでも彼女は同じ場所にいたはずなのに、結城のあの一言を聞いてからは、見え方が少し変わった。視界の端に入るたび、そこに“意味”がつきまとうようになった。

 もちろん、篠原の態度が劇的に変わるわけではない。

 目が合えば、会釈するか、しないか、それくらいだ。

 笑いかけられるわけでも、話しかけられるわけでもない。

 諒が勝手に、わずかな表情の揺れや、視線の止まり方に意味を読み込んでいるだけだった。


 だが人は、一度意味があると思い込んだものを、なかなか元の“ただの出来事”には戻せない。

 篠原が友達と話している時、少しだけ諒のほうを見た。

 それだけで、胸の内側にざわつきが立つ。

 廊下ですれ違った時、相手がほんの少し歩幅を乱した。

 それだけで、何か言葉にならない余白を感じてしまう。


 あとから思えば、ひどく身勝手な見方だった。

 相手は何ひとつ約束していない。

 何かを期待させるようなこともしていない。

 なのに諒は、自分の中に生まれた“別ルートの可能性”を、彼女の沈黙に勝手に預けていった。


 その一方で、澪との関係は、目に見えるほど壊れているわけではなかった。

 メールは続いていたし、会えば笑うこともあった。

 だが諒の側のどこかが、少しずつ、確実に散っていた。

 以前なら澪からの連絡は一日を持ち上げる出来事だったのに、今はその嬉しさの中に、妙な引っかかりが混じる。

 返信を打ちながら、別のことを考えている。

 会っていても、会話の途切れた瞬間に、なぜか篠原の顔が浮かぶ。


 自分はこんなにも手にしているのに、まだ別の何かを見てしまう。

 そのことへの後ろめたさはある。

 だが後ろめたさがあるからといって、心が止まるわけではなかった。


     *


 十二月に入ると、教室の空気はいよいよ落ち着かなくなった。

 冬期講習の案内、進路面談、模試の返却。

 三年生の張り詰めた空気が廊下にまで滲み、二年もなんとなく浮ついたままではいられない。

 なのに諒の心は、そういう“ちゃんとしなければいけない時期”にかぎって、別のほうへ揺れやすくなっていた。


 篠原奈緒は、相変わらず少し離れた場所にいる。

 話しかけたことはない。

 話しかける勇気も、理由もない。

 それでも、一度意味を持ってしまった存在は、なかなかただの風景には戻らなかった。


 昼休み、教室の窓から中庭を見下ろした時、たまたま篠原が結城と話しているのが見えた。

 二人は何か普通の話をしているだけに見える。

 結城が笑い、篠原もそれにつられて少し笑う。

 たったそれだけの光景なのに、諒は説明しがたいざらつきを覚えた。


 自分は何を気にしているのだろう。

 結城は昔から誰とでも話す。

 篠原だって同じ学年なのだから、廊下で立ち話くらいするだろう。

 それはわかっている。

 わかっているのに、その“普通さ”が妙に腹立たしかった。


 もしかしたら、自分が大げさに意味を背負わせているものを、他人はもっと軽く通り過ぎていけるのかもしれない。

 そのことに対する苛立ちだったのかもしれなかった。

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