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彼女がいた季節

 帰宅した時、(アカリ)はもう起きていた。


 ダイニングのテーブルにノートを広げ、シャープペンシルで何か細かい線を引いている。仕事用ではない、個人のノートだとすぐにわかった。余白の大きい無地の紙の上に、四角や矢印のようなものがいくつも描かれている。展示台か、棚か、照明の位置か。(リョウ)にはそれが何の図なのか、ぱっと見ではわからなかった。


 灯は顔を上げて、おはよう、とも、おかえり、ともつかない声を出した。諒も似たような曖昧さでただいまと返し、コンビニの袋から牛乳を出して冷蔵庫へ入れた。冷たいパックを棚の奥へ押し込みながら、昨夜の結城からのメッセージがまた頭の中に浮かぶ。


 今度、卒業二十周年で学年の同窓会やることになってさ。

 担当あいつ。


 冷蔵庫の扉を閉める音が、朝の台所に少しだけ硬く響いた。

 「高校の同窓会、やるらしい」

 諒は何でもないことみたいに言った。言ってから、その声が思っていたより少し硬かったことに気づく。灯はペンを置き、顔を上げる。

 

 「へえ」

 それだけ言って、少しだけ諒の顔を見る。諒はその視線を受け止めきれず、ダイニングの椅子を引いた。


 少し話せる、とメッセージで送ってきたくせに、灯はすぐには何も言わなかった。諒もまた、自分から切り出す気にはなれなかった。家の中には、朝の乾いた光と、湯を沸かす小さな音だけがあった。


 先に口を開いたのは灯だった。

 「同窓会、行くの」

 責めるような声音ではない。ただ、確認するような言い方だった。諒は冷蔵庫の扉を閉め、少し考えてから、まだわからない、と答えた。それしか答えようがなかった。灯は、そう、と言って、またノートに目を落とした。問い詰めることも、深掘りすることもない。そのかわり、興味がないわけでもない沈黙が、そこに置かれる。


 「そういえば、話って何?」

 灯はペン先を紙につけたまま、少しだけ止まった。何を言うか、というより、いま言うかどうかを考えている間のように見えた。

 「今じゃなくていい」

 と、やがて言う。諒は少し拍子抜けした。もっと何か、すぐに切り出されるのかと思っていたからだ。


 諒は洗面所で手を洗い、顔を上げた鏡の中の自分を見る。夜勤明けの顔。青白く、平たい。二十年前の自分とはもちろん別人だった。それでも時々、ふとした瞬間に、昔とまったく同じ表情をしていると気づくことがある。何かを迷っている時の、少しだけ視線が泳ぐ感じ。決めきれないくせに、まだ別の可能性に未練を持っている顔。その顔を見た瞬間、諒は、昨夜の通知より先に、もっと古いひとつの夏を思い出していた。


     *


 高校二年の七月は、やけに明るかった気がする。

 海風館高校は進学校で、教師たちは七月に入る前から夏期講習の予定表を配り始めるような学校だった。校舎は古く、窓枠のアルミもところどころ白くくすみ、階段の踊り場にはいつも古いワックスの匂いがした。恋愛より模試、文化祭より進路、という顔をした学校だったが、だからこそ、その中でたまたま立ち上がる“それ以外”のものは、やけに強く見えることがあった。


 女子がいないわけではない。

 けれど少ない。

 少ないから、存在に妙な重みが出る。


 男子の間では、女の子の名前は妙に大げさに扱われた。誰が可愛いとか、誰と誰が付き合っているらしいとか、あの子と同じ予備校だとか、そういうどうでもいい話が、受験勉強の合間の酸素みたいに消費される。大半は本気ではないし、次の日には別の話題に上書きされる。それでも、“彼女がいる”という事実だけは、他の何より現実味を持って響いた。


 あの頃の諒は、そういう空気を、どこか醒めたところから見ているつもりだった。自分はそんなことで浮かれるほど単純じゃない。少なくとも、そう思いたかった。


 篠原奈緒(シノハラナオ)を意識し始めたのがいつからなのか、自分でもよくわからない。話したことはほとんどない。同じクラスですらない。けれど二年三組の前を通る時、教室の中に篠原の姿を見つけると、なぜかそれだけで気分が少し変わった。


 そして諒は、わざわざそのために、結城直人(ユウキナオト)のところへ行くことがあった。

 結城は二年三組だった。

 海風館の中でも妙に顔が広く、別のクラスのやつとも、上級生とも、たいてい気づけば喋っているような男だった。諒にとっては親しい友人だったが、同時に、少しだけ外側の世界に強い人間でもあった。

 結城直人は、そのへんが昔からうまかった。

 クラスの中心にいることを、頑張って取るのではなく、最初から知っているみたいに振る舞える人間。笑うのも、人をからかうのも、教師に目をつけられない程度にサボるのも、いちいち自然だった。諒にとって結城は、親友と言えば親友だったが、同時に、自分よりずっと先に“人と関わる”ことを身につけている男でもあった。


 「お前また来たの」

 教室の後ろの扉から顔を出した諒を見て、結城は半笑いでそう言った。教室の中には、放課後前のざわつきがまだ残っている。諒は何でもない顔で、

 「ノート返そうと思って」

 と言う。実際、借りていたノートを持ってきてはいた。だがそれだけなら昼休みにでも返せたはずだった。結城は諒の手からノートを受け取ると、

 「ふうん」

 とだけ言った。

 

 その“ふうん”の中に、たぶんいろいろ察している気配があった。けれど結城は、そういうことをいちいち露骨にはしない。しないまま、少しだけ面白がっている。諒は結城と言葉を交わしながら、どうしても教室の中へ視線が流れる。


 窓側の席。

 友達と何か話して、ふっと笑う横顔。

 いま思えば、馬鹿みたいな話だった。話したこともない相手に、見かけることだけで意味が増えていく。けれど十七歳の諒にとっては、それがたしかにひとつの現実だった。


 その結城が、夏祭り行かないか、と言い出したのは七月の終わりだった。河川敷でやる小さな花火大会で、別に大したイベントでもない。諒は最初、断るつもりだった。特に行きたい理由がなかったし、夏休みの補習の課題もまだ終わっていなかった。

 だが結城は、いつもそういう時だけしつこかった。


 「いいから来いよ。勉強なんか明日できるだろ」

 「お前さ、たまには制服以外で外出ろって」

 「俺の従姉妹も友達と来るって。可愛い子いるかもしれないじゃん」


 最後の一言を、結城は半分冗談のつもりで言ったのだろう。諒もその場では、なんだよその理由と笑って受け流した。だが、その夜、机に向かって数学の問題集を開いていても、頭の片隅には花火大会の提灯の光みたいなものが残っていた。


 夏祭りの会場は、想像より人が多かった。

 川沿いの土手に屋台が並び、焼きそばと綿あめと湿った草の匂いが混じっている。浴衣の女の子たちが笑いながら歩き、男たちは必要以上に声を張っている。花火まではまだ時間があるくせに、みんなもう何かが始まっている顔をしていた。


 結城は人波の向こうに向かって片手を上げ、あれ俺の従姉妹、と言った。

 その先にいたのが、牧村澪(マキムラミオ)だった。


 最初に何を見たのか、諒はあとから何度思い返してもよくわからない。

 顔だったのか、髪だったのか、白に近い薄い水色の浴衣だったのか。

 ただ、見た瞬間に、“あ、違う”と思ったことだけは覚えている。

 同じ年頃の女の子なのに、学校で見る女子たちと少し空気が違う。

 それは別に、露骨に大人っぽいとか、飛び抜けて美人だとか、そういう一言では言えない違いだった。

 少しだけよそから来た感じ。

 海風館の校舎や教室の匂いとは違う、別の場所の空気をまとっている感じ。


 結城が、従姉妹の澪、と紹介した。

 澪は少し首を傾けて、諒の名を確認するように呟いた。

 その時の声が、諒には妙に耳に残った。思っていたより低くて、でも柔らかかった。


 「直人くんからいつも聞いてる。真面目なやつだって」

 その一言に、諒は何と返したのだったか。

 いまではもう思い出せない。

 たぶん、そんなことないよ、くらいのつまらない返事をしたのだろう。

 ただ、その時、澪が少し笑った。


 屋台の灯りがその横顔をかすめて、諒はそれだけで、なぜだかわからないまま、心のどこかを持っていかれた気がした。


 花火が始まる前、みんなで川辺に腰を下ろした。

 結城が買ってきた焼き鳥の串を配り、誰かがラムネを開け損ねて騒ぎ、澪の隣にいた女の子が浴衣の裾を気にして座り直す。そういうどうでもいい時間の中で、諒はたぶん、必要以上に澪のことばかり見ていた。


 彼女は話し上手というほどではなかった。

 むしろ、場の中心で騒ぐタイプではない。

 けれど、誰かの話を聞いて小さく笑う時とか、自分の知らない店の名前をあっさり出す時とか、そういう断片がいちいち諒の目には新しく映った。


 隣町の女子校。

 その情報だけで、すでに少し特別だった。

 諒たちの学校とは違う校則。違う帰り道。違う教室。違う文化祭。違う友達関係。

 自分が毎日通っている世界の外側に、こんなふうに別の青春が本当に存在しているのだと、澪を見るたびに思った。


 花火が上がり始めると、会話は少し途切れた。

 川の上に大きな音が開き、遅れて胸の奥まで振動が届く。

 誰かがうわ、と声を上げ、誰かが携帯電話をかざす。


 諒は花火よりも、澪が見上げる横顔のほうを見ていた。

 その時の自分を思い出すと、少し馬鹿みたいだと思う。

 でも本当に、そうだったのだ。

 彼女が隣にいるだけで、今までとは違う夏の中に自分がいる気がした。

 受験校の男子の一人ではなく、ちゃんと何かが始まりうる側の人間になれた気がした。


 花火の最後の連発が終わり、人の流れがいっせいに動き出す。

 結城が、じゃあ駅まで歩くか、と声を上げた。

 河川敷から商店街へ戻る道は人で詰まっていて、自然と列がばらけた。諒はいつの間にか、澪の少し後ろを歩いていた。屋台で買ったかき氷を片手に持った彼女が、振り返りもせずに言う。


 「青木くん、静かだよね」

 諒は一瞬、自分に話しかけられたとわからなかった。

 「え?」と間抜けな返事をして、ようやく、ああ、と短く笑う。

 「そうかな」

 「そうだよ。直人くんの友達ってもっと、うるさい人ばっかりかと思ってた」

 その言い方が、諒には少し嬉しかった。

 褒められているのかどうかも微妙な一言だったのに、なぜか嬉しかった。

 澪はそこで、今度はちゃんとこちらを見て笑った。

 「でも、そういう人のほうが話しやすい」

 たぶん、その瞬間だったのだと思う。

 諒が、ただ綺麗な子に見とれていただけの段階から、彼女を“自分に向いているかもしれないもの”として意識し始めたのは。


 家に帰ってからも、しばらく眠れなかった。

 花火の音ではなく、澪の声のほうが頭に残っていた。

 話しやすい。

 たったそれだけの言葉を、諒は何度も思い返した。

 自分がその日、何を話したのかろくに覚えていないくせに、彼女の言った一言だけは、ひどく都合よく胸の中に残った。


 今思えば、その時点ですでに始まっていたのかもしれない。

 目の前の相手そのものより、そこに開きかけている意味のほうを大きく見てしまう癖が。

 けれど十七歳の諒にとっては、そんなことはどうでもよかった。

 ただひとつ確かなのは、あの夜を境に、夏休みの残りの日々が少しだけ明るくなったことだった。

 そして、その明るさの中で、諒は、澪と付き合うことになる。


 最初に連絡先を聞いたのがどちらだったのか、諒はもう覚えていない。

 たぶん結城が間に入ったのだろうし、あるいは澪のほうが、じゃあ今度文化祭の時にでも、と自然に言ったのかもしれない。記憶はいつも、都合のいい場面だけを残して、それ以外を曖昧にする。確かなのは、花火大会のあと数日してから、諒の携帯電話に、見慣れないアドレスから短いメールが届いたことだけだった。


 この前はありがとう。牧村です。夏期講習って大変?


 それだけの文面だった。

 絵文字も、過剰な馴れ馴れしさもない。

 なのに、その一通を見た瞬間の胸の鳴り方を、諒はいまでも思い出せる。机の上に開きっぱなしだった英語の問題集が、急に別の世界のものになった。たった数行のメールが、自分の生活の水面に石を落とすみたいに、そこから先の見え方を変えてしまうことがあるのだと、その時初めて知った。


 諒は返信を書くのに、十分近くかかった。

 大変、と書くと愚痴っぽい気がする。

 別に、と書くと感じが悪い。

 句点をつけるかどうか、絵文字は入れないほうがいいのか、そんなことまで迷った。結局、まあまあ大変。でもそっちは? という、可もなく不可もない一文を送った。送ってから、もっと気の利いたことを書けばよかったと後悔した。


 だが澪は、そんなことを気にする様子もなく、普通に返してきた。

 それからしばらく、二人はぽつぽつと連絡をするようになった。


 毎日ではない。

 長文でもない。

 何時に起きたとか、今日の補習が眠かったとか、隣町の駅前にできた新しいクレープ屋がどうとか、そういうどうでもいい話ばかりだった。どうでもいいのに、諒にはそのひとつひとつが輝いていた。学校が終わって帰宅すると、まず携帯を確認する癖がついた。着信がなければ少し落胆し、夜になってから短い文面が届くと、その日が急に意味を持つ。


 九月のはじめ、結城が廊下で言った。

 「で、あれ結局どうなの」

 諒が何のことかわからずにいると、結城は少しだけ呆れた顔をする。

 「牧村。付き合ってんの?」

 諒はそこで初めて、自分がどういう場所に立っているのかを意識した。

 付き合う。

 その言葉はずっと他人のものみたいだった。

 クラスの誰かと誰か、部活の先輩、予備校で知り合ったやつ。そういう話は現実に存在しても、自分がその中に入ることは、なんとなく想定していなかった。

 「いや、まだそういうのじゃ」

 と諒が言うと、結城は肩をすくめた。

 「“そういうの”って何だよ」

 と、少し呆れたように言う。

 「はっきりすればいいのに。中途半端なの、いちばん面倒じゃん」

 その言い方が腹立たしいくらい自然だった。結城にとっては、人と人の距離が縮まっていくことは、諒ほど大ごとではないのだろう。曖昧なまま置いておくほうが、むしろ不自然なくらいのことなのだ。

 そういうところが昔から癪に障るのだと、諒は思いながらも、その“中途半端”という言葉だけは、妙にあとへ残った。


 結城は、はっきりすればいいのに、と軽く言った。

 簡単そうに。

 そういうところが癪に障るのだと、諒は思いながらも、その言葉の通りにした。


 場所は、学校帰りに乗り換えで使う駅の改札前だった。

 澪のほうが少し早く来ていて、改札脇の柱にもたれていた。制服の上からカーディガンを羽織り、鞄の持ち手を両手で握っている。諒はその姿を見た瞬間、急に何を言うつもりだったか忘れた。


 覚えているのは、秋の入口の風が、夏より少し乾いていたこと。

 電車が来るたび、ホームから人が吐き出され、また吸い込まれていったこと。

 澪が、今日なんか顔こわいよ、と笑ったこと。

 たぶん諒は、ものすごくぎこちない言い方をしたのだろう。

 好き、とか、付き合ってほしい、とか、そういう言葉を、途中でつかえながら並べたはずだ。

 澪は最初きょとんとして、それから少し笑い、でもちゃんと真面目な顔になって、小さくうなずいた。

 「うん。私も、そうだと思ってた」

 その一言だけで、諒はたぶん、何日か地面から数センチ浮いていた。

 

 彼女がいる、という事実は、それ自体がひとつの景色だった。

 誰かに言いふらしたいわけではない。

 自慢したいのとも少し違う。

 ただ、世界の見え方が変わる。朝、制服に袖を通す時も、学校へ向かう電車に乗る時も、自分は昨日までと同じ人間ではない気がした。実際には何ひとつ変わっていない。成績も、顔も、教室の机の位置も、そのままだ。なのに、見えないところにだけ、確かな差が生まれている感じがあった。


 海風館高校の男子たちは、恋愛の話になると妙に子どもっぽく騒いだ。

 けれど本当に彼女がいるやつには、逆に少し遠慮が混じった。からかいはする。冷やかしもする。だがそこには、「そっち側に行ったやつ」への半歩ぶんの距離がある。

 諒は、その距離が嫌いではなかった。

 いや、正直に言えば、かなり嬉しかった。

 結城はいつも通り、へえ、ちゃんと言えたんだ、と笑った。

 他の友人たちも、マジかよとか、写真ないのとか、どこの学校だよとか、好き勝手に騒いだ。諒は表面上、うるさいなと笑っていたが、内心ではその騒ぎすら誇らしかった。澪と付き合っている、ということが、自分を少しだけ教室の風景から前へ押し出してくれる気がした。


 澪と会うのは、月に何度もというほどではなかった。

 学校が違う。住んでいる場所も少し離れている。互いに補習や模試もある。だから、たまに駅で待ち合わせをして映画を見たり、書店を覗いたり、ファストフード店で長くしゃべったりするくらいだった。それでも、諒には十分すぎるほどだった。


 映画館の暗い通路を並んで歩くこと。

 澪がポップコーンの塩味とキャラメル味で少し迷うこと。

 帰りの電車で、どっちが先に降りるかというだけの短いやり取り。

 そういう、他人から見れば何でもないことが、諒にはどうしようもなく幸福に思えた。


 澪は付き合ってみると、花火大会の夜より少しだけ気まぐれだった。

 機嫌のよい日はよくしゃべるし、笑う。

 けれど、時々急に返事が遅くなったり、会っている時も少し上の空になることがある。

 諒がどうしたのと訊いても、別に、としか言わない。

 その別に、の向こう側に何があるのか、諒にはわからなかったし、わかろうとするより先に、また機嫌が戻ることを期待していた。


 大人っぽい子にはそういう陰があるのだ、くらいに勝手に思っていた。

 いま思えば、そうではなかったのかもしれない。

 ただ、彼女自身もまだうまく言葉にできない何かを抱えていただけで、諒はそれを自分に都合のいい“深さ”へ変えて見ていたのかもしれない。


 彼女は繊細なのだと。

 彼女が不安定なのではなく、自分の知らない深さを持っているのだと。

 そう解釈したほうが、ずっと都合がよかったからかもしれない。


 十月の文化祭に、澪は友達と一緒に来た。

 海風館の文化祭など、実際には大したものではない。模擬店も少ないし、出し物は内輪っぽい。なのに澪が来るというだけで、諒には学校の見え方が変わった。いつもは古びて見える廊下も、妙に明るく見える。クラスの飾り付けも、そんなに悪くない気がする。


 澪が校門をくぐってくるのを見た時、諒は胸の奥で密かに思った。

 ああ、自分の世界に彼女が来てくれた と。

 それは後から考えると、かなり勝手な感動だった。


 海風館は諒の世界で、澪の女子校は澪の世界。

 その二つの世界がほんの少し交わることに、諒は必要以上の意味を見ていた。

 たぶんこの頃にはもう、始まっていたのだ。

 彼女との時間そのもの以上に、彼女がいることで完成するはずの自分の青春を、諒が大きくしすぎることが。


 それでも、澪と付き合っていた日々が嘘だったわけではない。

 帰り道、駅のホームで手をつないだこと。

 駅のホームで並んで電車を待つこと。

 改札を出たあと、別れ際に何度も振り返ったこと。

 映画のあと、感想を言い合いながら歩くこと。

 はじめて少し長くキスをした夜、諒がうまく息を継げなくて、澪に笑われたこと。

 そういう具体的な体温は、たしかにあった。

 だからこそ、その時間の中に、まだ別の影が残っていたことを、諒は認めたくなかった。


 篠原奈緒。

 同じ学校の別クラス。話したことはほとんどない。

 それでも、図書室で見かけるたび、廊下ですれ違うたび、文化祭の準備でたまたま同じフロアにいるたびに、諒の中には小さなざわつきが起きた。


 もう澪と付き合っている。

 その事実は変わらない。

 なのに、篠原を見かけると、心のどこかで“まだ別の何かがあるかもしれない”という感覚が、完全には消えていなかった。


 それは恋だったのかと、あとになって考えても諒にはよくわからない。

 好き、というには何も知らない。

 憧れ、というには輪郭がぼんやりしすぎている。

 ただ、自分の学校の、自分の生活圏の中にある“別のルートの象徴”として、篠原奈緒はずっとそこにいた。


 そして諒は、澪といることの幸福と、その別ルートの影とを、同時に抱えたまま秋を過ごしていく。

 もちろん、その両方を持ったままでいられるほど、若さは器用ではなかった。

 

 結城が例のことを言い出すのは、もう少し先のことだった。


 ――篠原、お前に彼女ができたって聞いて、ちょっと変な顔してたぞ。


 そのたった一言が、諒の中で、どれほど大きな音を立てることになるのか。

 その時の諒は、まだ知らなかった。

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