止まったままの夜
深夜二時を過ぎると、ホテルのロビーは急に音の数を減らす。
終電を逃した客が駆け込んでくる時間はとうに過ぎ、酔客の笑い声も、宴会場の残り香みたいに壁の向こうへ沈んでいた。正面玄関の自動ドアが、誰もいないのに時々かすかな軋みを立てるのは、夜風のせいか、機械が古いせいか、青木諒にはもうわからなかった。
カウンターの内側で、諒は宿泊台帳の確認をしていた。
紙のリストと画面上の予約状況を見比べ、チェックイン漏れがないかを確かめる。日付が変わってから到着するはずだった客が一組、まだ来ていない。電話を入れるべきか迷っているうちに、裏口のほうから足音がして、警備担当の男が眠たそうな顔をのぞかせた。
「207号室、また空調がうるさいって」
諒は顔を上げ、わかりました、と答えた。答えながら、紙の端に部屋番号を書きつける。男は小さくあくびを噛み殺し、館内をひとまわりしてきます、と言い残して去っていった。
このくらいの時間になると、客も従業員も、みな少しずつ本音に近い顔をする。昼間のホテルはもっと愛想がよく、整った場所だ。チェックイン客には笑顔があり、宴会の担当者は背筋を伸ばし、フロントには「非日常」の匂いがある。だが夜の二時を過ぎると、そのへんの化粧が剥がれる。眠気と面倒くささと、帰りたい気持ちと、どこにも帰りたくない気持ちとが、ガラス張りのロビーの明るさの中で薄く混ざり合う。
諒は、この時間帯が嫌いではなかった。
好き、と言うほどの積極性はない。ただ、昼よりはましだった。
副支配人、という肩書きは聞こえだけならいくらか立派だが、夜勤に入ればやることの半分は雑務で、残り半分は火消しだった。客室の設備不良、泥酔客の対応、突然の体調不良、予約トラブル、クレーム、鍵の紛失、業者への連絡。問題が起きた時に、誰が最後に判断するのかを曖昧にしないための名前が、その肩書きなのだと諒は思っている。
それでも、ここへ移ってきたばかりの頃は、まだ少しだけ救われた気がした。
前の仕事のことを思い出さなくて済む、というだけで。
ロビー奥のソファで、スーツケースを抱えた若い男が眠っていた。二十代半ばくらいだろうか。ネクタイを緩め、片手にスマートフォンを握ったまま、身体を斜めに沈めている。終電を逃したのか、仕事帰りなのか、それとも恋人と喧嘩でもしたのか。そういうことを想像する癖は昔からあったが、最近はすぐにやめるようになった。他人の人生に短い物語をつけるのは、若い頃ほど楽しい作業ではなくなっていた。
諒はバックヤードから簡易の毛布を一枚持ってきて、男の肩にそっとかけた。男は目を覚まさない。自分が親切な人間だとは思っていない。ただ、眠っている他人を冷房にさらしたまま見過ごすほど、すり減りきってもいなかった。
カウンターへ戻る途中、ガラスに自分の姿が映った。紺のスーツ、名札、少しだけ猫背気味の肩。照明のせいで顔色は平坦に見える。三十八歳という年齢は、若く見える日もあれば、急に老け込んで見える日もある。今夜の自分は、そのどちらでもなかった。ただ、夜のホテルに似合う顔をしている、と思った。
つまり、通り過ぎる場所の顔だ。
ロビーの時計が二時半を指す。諒は207号室の空調対応のために内線で設備担当を呼び出し、その合間に売上速報を確認した。宴会利用は一件、宿泊はまずまず、婚礼はなし。このホテルは駅前にしては中途半端な規模で、豪華でもなければ安っぽくもない。結婚式も法事も送別会も同窓会も受ける。誰かの節目が毎日のように運び込まれ、そのたびに花が飾られ、写真が撮られ、酒が注がれ、翌朝には何事もなかったみたいに片づく。その感じが、諒にはしっくりきていた。
警備担当が戻ってきて、空調の件は一時的に風量を落としただけなので、朝に改めて点検を入れます、と報告した。諒はありがとうと答え、引き継ぎメモに簡潔な文章を残す。朝番のスタッフが読んで困らない程度の情報だけを書く。余計な感想は挟まない。それがこの仕事の礼儀だった。
三時を回る頃、スマートフォンがポケットの中で短く震えた。
業務用ではなく私物のほうだ。諒は一瞬だけ画面を見る。灯からだった。
――牛乳なかったから、帰りに買ってきて
句点も絵文字もない。諒は「わかった」とだけ返した。すぐに既読がつく。会話はそれで終わる。
夫婦になってから何年も経っているのだから、そんなやり取りは別に珍しくない。そういうものだと言ってしまえば、それまでだった。連絡事項だけを過不足なく伝え合う関係。平穏と言えなくもないし、冷え切っていると言えなくもない。言葉の総量が少ないぶん、喧嘩にもならない。
諒と灯の暮らしは、この数年ずっとそんなふうだった。
帰宅時間のずれも、その静けさを手伝っていた。諒が夜勤明けに帰る頃、灯は出勤前の支度をしているか、休日ならもう起きてコーヒーを淹れている。食事の時間は合わない。テレビを一緒に見ることもほとんどない。互いに不機嫌をぶつける気力もなく、必要なことだけ伝え合い、それで一日が回っていく。
灯は怒らない。泣きわめいたりもしない。諒にとって、それはありがたいことのはずだった。だが実際には、ときどき耐えがたい。怒ってくれたほうがまだ楽なのではないかと思う夜がある。相手の怒りには期限があるが、静かな失望にはそれがない。
それでも灯は、完全に諒を見放したわけではない。夕食を作る日もあるし、クリーニングを出し忘れればついでに持っていく。生活は崩れていない。崩れていないことが、ときどき妙に残酷だった。
諒はポケットのスマートフォンをしまい、再びロビーを見渡した。さっきまで眠っていた若い男が起き上がり、ぼんやりと周囲を見ている。諒は近づいて、よろしければタクシーを呼びましょうか、と声をかけた。男は寝ぼけた顔で笑い、いや、大丈夫です、始発待ちます、と言った。
その言い方が、妙に若かった。
若い、と思った瞬間、諒の胸の奥で小さく何かが軋んだ。若さに対して嫉妬しているわけではない。少なくとも、自分ではそう思っていない。ただ、自分の中のどこかには、まだ時間がこちら側にたくさんある人間を見ると、落ち着かなくなる部分があった。
まだやり直せる、と思っている顔。
まだ取り返しがつく、と思っている声。
自分にもそんな時期が確かにあったはずなのに、そこへ手を伸ばすと、最初に思い出すのは希望より先に、失敗の感触だった。
ホテルの自動ドアが開いて、外の冷たい空気が少しだけロビーに流れ込む。始発前の街はまだ暗く、駅前のコンビニの灯りだけがやけに鮮やかだった。諒は腕時計を見る。三時二十分。朝まではまだ長い。
この時間になると、時々、自分がどこかの途中に立っているような気がした。終わった場所と、始まる場所のあいだ。誰かにとっての通過点であり、自分にとってもまた仮の居場所でしかないところ。ホテルという場所がそうなのか、自分の人生がそうなってしまったのか、その区別はもうあまり意味を持たなかった。
バックヤードの休憩室に戻り、紙コップのコーヒーを淹れる。自販機のボタンは何度押しても同じぬるさの液体しか吐き出さない。諒は壁際の椅子に腰を下ろし、コーヒーをひと口だけ飲んで、すぐにカップを机に置いた。苦みよりも先に、古い紙コップの匂いがした。
机の上に、翌月の宴会予定表が置いてある。企業懇親会、地区の表彰式、大学のゼミ同窓会、還暦祝い。赤字で書き込まれた予約の束をなんとなく眺めていると、人は案外、節目を祝うのが好きなのだと思う。十年、二十年、三十年。誕生日、結婚記念日、退職、卒業、還暦。名前をつけて集まり、過ぎた時間に意味を与える。
諒はそういうものが、少し苦手だった。
自分の過去に、うまく名前をつけられないからかもしれない。
休憩室の蛍光灯は、ロビーよりも白かった。スマートフォンの画面にうっすらと自分の顔が映る。何も通知は来ていない。諒は意味もなくホーム画面を指でなぞり、すぐに消した。ポケットに戻そうとしたとき、ふと灯のことを思う。
灯はいまごろ、もう眠っているだろうか。休日前の夜なら、リビングで動画でも見ているかもしれない。あるいは講座の課題で、簡単なレイアウト案をノートに描いているかもしれなかった。ここ数ヶ月、彼女が仕事帰りに何度か文房具店の袋を持って帰ってきたことを、諒は知っている。スケッチ用のペン。色見本。小さなカッター。そういうものが、ダイニングの端に増えていた。
知っている。知っているのに、ちゃんと訊いたことはなかった。何を学んでいるのか、どんなことが楽しいのか、どこへ向かおうとしているのか。訊けば答えてくれただろうに、それをしなかったのは、たぶん怖かったからだ。自分だけが止まっているのを、相手の前進によって突きつけられるのが。
コーヒーが冷める。諒はそれを流しに捨て、カウンターへ戻った。ロビーの空気はさっきよりさらに薄くなっている。始発まで、あと一時間半。夜が終わりかけるこの時間帯が、いちばん静かで、いちばん長い。
そしてたいてい、こういう時間に、過去は不意にこちらを向く。
まだその夜は、何も起きていなかった。
少なくとも、諒はそう思っていた。
カウンターの下にしまっていたスマートフォンが、もう一度だけ震えるまでは。
スマートフォンの震えは短く、控えめだった。
だが諒は、それが業務用の端末ではなく私物のほうだと、振動の軽さだけでわかった。
ロビーには誰もいなかった。ソファで始発を待っていた若い男も、いつの間にか姿を消している。諒はカウンターの影に半歩身を引き、画面を見た。灯ではない。結城直人からだった。
結城。
高校時代の同級生で、今も完全に関係が切れているわけではない。年賀状ほどでもない、もっとゆるい距離で、数か月に一度連絡が来るくらいの関係。なのに、今夜のその名前は、暗い水面に急に石を投げ込まれたみたいに、妙に輪郭がはっきりして見えた。
メッセージは短かった。
起きてる?
諒は、仕事中、とだけ返した。既読はすぐについた。
だよな、悪い。
今度、卒業ニ十周年で学年の同窓会やることになってさ
諒はそこで指を止めた。
学年同窓会。卒業二十周年。
言葉としては理解できる。理解できるのに、胸の内側では少し遅れて意味が立ち上がってくる。自分たちの代だ。海風館高校の、二〇〇五年卒の。
さらに、結城から続けてメッセージが来る。
来月第二土曜、駅前のクラウンホテル
出欠まだ最終じゃないけど、お前どうかなと思って
諒は画面を見つめたまま動かなかった。
参加する気はなかった。そもそも、そういう集まりが苦手だった。昔の自分を知っている人間の前に、今の自分を持っていくことに、どうにも抵抗がある。ホテルの宴会場に集まり、二十年ぶりですねと笑い合い、それぞれの仕事や家族の話をする。そんな光景を想像しただけで、胸の奥がざらついた。
行くわけがない。
そう思って、スマートフォンをしまいかけた時だった。
また、短く振動する。
今回、会場まわり澪の会社に頼んでる。担当あいつ
諒はそこで、指を止めた。
画面の明るさが急に強くなった気がした。
ロビーの照明は変わっていない。自動ドアの向こうに見える駅前の暗さもそのままだ。なのに、視界の中でそこだけが不自然に白く立ち上がる。諒は無意識に息を止め、もう一度その文章を読み直した。
会場まわり澪の会社に頼んでる。担当あいつ。
澪。
牧村澪。
結城がそう書いただけで、牧村澪の顔が二十年という時間を飛ばして、ひどく鮮明に思い出された。夏祭りの提灯の下で笑っていた横顔。映画館の暗がりで、ポップコーンをつまむ指先。改札の手前で少しだけ首をかしげる癖。そういう断片のどれもが、妙に古びていなかった。
諒は画面に触れたまま、しばらく動けなかった。
結城からさらにメッセージが来る。
別に気まずいなら無理に来なくていいけど
その一文に、諒はかえって苛立ちに似たものを覚えた。結城には悪気はないのだろう。ただ、その“気まずいなら”という軽さが、諒の中ではもっと重い別のものに触れていた。
気まずい、のではない。
そんな単純な話ではない。
諒はようやく、へえとだけ返した。
自分でも驚くほど冷たい返事だった。だが結城は気にした様子もなく、
向こうはお前来るか知らないと思う。まあ、来るなら普通に来いよ
と続けた。
普通に来いよ、という言葉が、諒には少し可笑しかった。
普通に。
そんなことができるなら、二十年近く同じ場所に引っかかってはいない。
諒はメッセージを閉じた。
すぐには返事をしない。返せなかったと言ったほうが正しい。画面を消してもなお、文字だけがしばらく頭の中に焼きついていた。
澪がいる。
いや、正確には同窓会に“いる”のではない。
仕事で会場に入るだけだ。受付か、パネルの設営か、映像の確認か、そういう裏方の仕事だろう。結城が幹事として頼み、たまたま担当が澪だった。ただそれだけのことだ。偶然といえば偶然だが、運命めいたものではない。
諒は頭の中でそう整理した。
整理したつもりだった。
だが、心のほうはまったく納得していなかった。
澪がいる。
その事実だけが、静かなロビーの真ん中に、場違いな色を差したみたいに残る。
諒はカウンターの下からミネラルウォーターを取り出し、半分ほど一気に飲んだ。冷たさが喉を通っていく感覚だけが現実だった。だが飲み終えても、胸の奥のざわつきは引かなかった。
なぜ、いまさら。
そんな言い方はおかしいとわかっている。澪にだって仕事があり、生活があり、たまたまその現場がここだっただけだ。諒の人生と無関係に、彼女は彼女の時間を生きてきた。その当たり前のことが、妙に腹立たしかった。
――彼女の時間は、ちゃんと先へ進んでいる。
そう思った瞬間、諒は自分の考えの幼さに気づき、すぐに打ち消した。
何を勝手なことを。
澪がどう生きてきたかなんて、自分は何も知らない。結婚したのかもしれないし、離婚したのかもしれない。幸せなのか、不幸なのか、そんなことすら知らない。なのに、彼女の人生まで、自分の後悔の材料みたいに見ている。
そこまで考えて、諒はふと、自分が何にいちばん動揺しているのかがわかった気がした。
会えることではない。
再会そのものでもない。
澪が、まだ現実の世界に存在していることだった。
記憶の中でだけ輝いている少女ではなく、結城から仕事を請けて、会場に入り、名札やパネルや映像の進行を確認する、大人の女として。
その事実が、諒には思いがけず堪えた。
もし彼女が、完全に過去の中だけの存在なら、もっと自由に美化していられたのかもしれない。
あの頃いちばん可愛かった子。
自分の青春を完成させてくれたはずの恋人。
そういう言い方で、ずっと胸の中にしまっておけたのかもしれない。
だが実際には、彼女は仕事の現場に来る。
自分が知らない二十年を連れて。
記憶ではなく現実として立ち現れる。
それは、諒が勝手に保存してきた“あの頃”を、壊す力を持っていた。
フロントベルが小さく鳴った。
新しい宿泊客ではなく、朝刊の搬入だった。諒は業者から受け取った束を棚にしまいながら、自分の手元がおかしいほど落ち着いていることに気づく。指先は震えていない。声も平静だ。こういう時ほど、身体のほうが先に職業の仮面をかぶる。
それでも、内側では何かがずっと揺れていた。
バックヤードに戻ると、設備担当から207号室の空調についてメモが入っていた。諒はそれを確認し、朝番への申し送りに追記する。文字はいつもどおり整っている。整っていることが、自分でも少し滑稽だった。
今回、会場まわり澪の会社に頼んでる。担当あいつ。
結城の文面が、何度も頭の中に戻ってくる。
昔からあいつは、こういう時に限って余計な説明をしない。だからこそ一言が深く刺さるのだと、諒は高校時代から知っていた。
結城。
その名前を思うと、別の記憶も一緒に持ち上がる。
結城はいつも中心にいた。
自分より少し先に女の子としゃべり、自分より少し軽やかに人の輪に入り、自分がためらうことを、まるでためらわずにやってのける男だった。悪人ではない。むしろ親切なほうだ。だから余計に厄介だった。諒にとって結城は、劣等感の対象というには近すぎて、親友というには眩しすぎる存在だった。
澪を紹介したのも結城だった。
篠原奈緒の“反応”を伝えたのも、結城だった。
どちらも諒にとって大きな意味を持ったのに、結城自身はそれを、若い日の軽い会話のひとつとしてしか覚えていないかもしれない。
そういうことが、人生にはある。
誰かにとっては何でもない一言が、別の誰かのその後を、長く歪める。
四時を少し回った。
夜はもう底を打っているはずなのに、外はまだ暗かった。始発前の街には、いつも少しだけ世界の裏側みたいな感じがある。コンビニの前で煙草を吸っている男。段ボールを積んだ配送トラック。遠くで鳴る救急車の音。どれも日常の一部なのに、朝になればなかったことみたいに薄まっていく。
諒はスマートフォンをもう一度開いた。結城とのトーク画面をしばらく見つめたあと、ようやく短く打つ。
まだ行くかわからない
送信してから、その言葉が思った以上に本音だと気づいた。
行かない、とも言い切れない。
行く、と決める勇気もない。
結城からの返事はすぐだった。
まあ、そうだろうな
でも来たら面白いと思うよ。みんなそれぞれ変わってるし、変わってないし
変わってるし、変わってない。
妙な言い方だと諒は思った。だが、いまの自分にはその曖昧さがいちばん近い気もした。人は二十年も経てば当然変わる。けれど、変わりきれない部分も残る。諒のように、それに足を取られ続ける人間もいる。
スマートフォンをしまった時、休憩室の壁時計が四時十五分を指していた。
あと二時間もすれば、朝番が来る。灯から頼まれた牛乳を買って帰り、少し眠って、起きたらまた夜勤だ。生活は続く。何も起きていない顔をして、明日も明後日も続いていく。
そのはずだった。
諒はロビーへ戻り、誰もいない宴会場のほうを一瞬だけ見た。
来月、このホテルではない別のホテルの、どこか似たような宴会場に、自分たちの学年が集まるのだろう。名札をつけた大人たちが、二十年分の顔を持って、互いを見つけ合う。そこに澪もいる。正確には“いる”のではなく、仕事をしている。受付の導線を見ているのか、写真パネルを調整しているのか、プロジェクターの映像を確認しているのかはわからない。だが、確かに同じ空間にいる。
諒はその情景を頭の中で想像し、すぐにやめた。
想像した先にあるのが、再会でも会話でもなく、ただ一つの問いだとわかっていたからだ。
――もし会ったら、自分は何を確認したいのだろう。
澪が幸せかどうか。
自分のことをどう覚えているか。
あの時別れなければ何かが違ったのか。
それとも、自分がいまだにそこから動けずにいることを、ようやく終わらせたいのか。
答えは出ない。
出ないまま、夜は少しずつ薄くなっていく。
五時前、ロビーのガラスがわずかに白み始めた頃、諒はふいに、行くかもしれない、と思った。
決意ではない。
希望でもない。
ただ、逃げないで一度見ておくべき何かが、そこにあるような気がした。
それが何なのか、自分でもまだ言葉にできなかった。
始発の時間が近づくにつれて、ホテルの前を歩く人が少しずつ増えていく。コンビニの袋を提げた学生、出張帰りらしい男、イヤホンをつけた若い女。みんなそれぞれの朝へ向かって歩いていく。諒はフロントに立ったまま、その流れをぼんやり眺めた。
自分だけが、二十年前へ向かう扉の前に立たされたような気がしていた。
その朝、夜勤明けで家へ帰る途中、諒は灯に頼まれた牛乳を買った。
コンビニの冷蔵棚の前で手を伸ばした時、不意にスマートフォンがまた震えた。
今度は灯からだった。
帰ったら少し話せる?
短いその一文を見て、諒は牛乳パックの冷たさを指先に感じたまま、しばらく動かなかった。




