残された分岐
澪と別れてからしばらく、諒は学校の中で少しだけ静かになった。
もともと騒がしい人間ではなかったが、それまで以上に、自分から話しかけることが減った。昼休みも、教室の端で問題集を開いているふりをしている時間が増えた。実際には問題を解いているわけではなく、ただ目の前に何かを置いていないと、周りの音がそのまま胸の内側まで入り込んでくる気がしただけだった。
澪と別れたことは、誰かに知られることもなかったし、大げさにからかわれることもなかった。
それも当然だ。教室にいる連中にとって、隣町の女子校の子との交際と別れは、噂になったとしても数日で消える程度のことだ。
だが諒にとっては、それで十分に世界の形が変わっていた。
帰り道にメールを待つ相手がいない。
休日の予定を考える時に、誰かの都合を頭に入れなくていい。
そんな小さな変化が、一つひとつ遅れて効いてくる。
しかもそれは、単に寂しいだけではなかった。
澪を失ったことそのものより、自分がそれを自分の手で壊したという感覚が、何度も別の角度から戻ってくるのがきつかった。
それでも、諒の中にはまだ、どこか妙な未練が残っていた。
澪とは終わった。では、その先に何か別のものがあるのか。
そんなことを考える資格なんて、本当はないはずなのに。
その未練は、ある夜、結城への短いメールという形を取った。
諒は何度も文面を書き直した。
携帯電話の小さな画面に、
澪と別れた
と打っては消す。
それではあまりに素っ気ない気がする。
かといって、長く説明するのも違う。
言い訳めいて見えるのも嫌だったし、逆に、平気なふりをしすぎるのも嫌だった。
結局、送ったのはごく短い文だった。
牧村さんと別れた
それだけだった。
送信したあとで、諒は自分が何をしているのか少しだけわからなくなった。
結城に伝える必要が、本当にあったのだろうか。
親しい友人なのだから、いずれ話すのは自然だと言えなくもない。
だがその自然さの裏に、もうひとつ別の気持ちがあることを、諒は自分で知っていた。
――結城が知れば、奈緒にも伝わるかもしれない。
そう考えていた。
考えていたことを、認めるのは情けなかった。
自分から奈緒に何か言う勇気はない。
話しかける理由もない。
なのに、間接的には何かが伝わってほしいと期待している。
その中途半端さが、いかにも自分らしくて嫌だった。
結城からの返事はすぐだった。
そっか
大丈夫か?
その二行を見て、諒は少しだけ拍子抜けした。
もっと軽く流されるかと思っていたし、逆に何か探られるのも嫌だと思っていた。
諒は、その“そっか”に少しだけ救われ、同時に少しだけ腹が立った。
もっと何か言ってほしかったのかもしれない。
あるいは、何も言ってほしくなかったのかもしれない。
そういう、自分でも整理のつかない感情ばかりが、その頃の諒の中には増えていた。
諒は少し迷ってから、
まあ
とだけ返した。
そのあと結城は、また今度話そうぜと送ってきた。
諒も、それ以上は返さなかった。
携帯を閉じたあとも、胸の中のざわつきは消えなかった。
自分は今、別れたことを友人に伝えただけなのか。
それとも、その情報がどこか別の場所へ流れていくことを期待しているのか。
答えは明らかだった。
明らかだからこそ、見ないふりをしたかった。
それから数日、諒は結城のクラスの前を通る回数を減らした。
減らしたところで、気にならなくなるわけではない。
むしろ、行かないことで余計に想像が膨らむ。
結城は奈緒に何か話したのだろうか。
奈緒はそれを聞いて、どんな顔をしたのだろう。
今度は“変な顔”ではなく、もう少しはっきりした何かがあるのではないか。
そんなことを考える自分を、諒は内心で軽蔑していた。
それでも考えずにはいられなかった。
やがて我慢しきれず、諒は放課後、久しぶりに結城のクラスへ行った。
二年三組の後ろの扉から顔を出すと、結城はもう帰り支度をしていた。
諒を見るなり、
「お、珍しい」
と笑う。
その言い方に、何も知らないわけではないが、あえて大ごとにしない感じがあった。
諒は教室の中を見ないようにしながら、
「少し話せる?」
と言った。
結城はそれで何となく察したのか、
「じゃあ廊下出るか」
とあっさり答えた。
廊下の窓際で、結城は壁にもたれて紙パックのジュースを開けた。
諒は自分の手元を見たまま、
「この前の……返事、ありがと」
と言う。
結城はジュースをひと口飲んで、
「いや、別に」
と答えた。
それから少しだけ真面目な顔になって、
「つらかった?」
と訊く。
その訊き方に、諒は少しだけ救われる。
結城は昔から軽い男だ。
だが、まったく何も見ていないわけではない。
「まあ」
と諒は答える。
「たぶん、俺が悪かったし」
結城はそこで、ふうん、と小さく頷いた。
悪かったし、という言い方の中にあるものを、どこまで理解したのかはわからない。
ただ、深く詮索しないことだけは、結城なりの気遣いだったのかもしれない。
沈黙が少し落ちる。
その沈黙の中で、諒は自分が本当に聞きたいことを、どう言葉にすればいいのかわからなかった。
奈緒に何か伝わった?
そんなふうに聞けるはずがない。
聞いた瞬間に、自分の中身があまりに露骨になる。
けれど結城は、そういう時に妙に勘がいい。
「奈緒のこと、まだ気にしてる?」
紙パックを持ったまま、何でもない調子でそう言った。
諒はすぐに答えられなかった。
否定すれば嘘になる。
肯定すれば、それはそれで惨めだった。
「……まだっていうか」
とだけ諒が言うと、結城は少しだけ苦笑した。
「お前、ほんとそういうとこあるよな」
と言う。
「手放しきれてないのに、ちゃんと取りにいくわけでもない」
その言葉はきつかった。
きつかったが、反論しにくい正しさもあった。
諒は何も返さず、校庭のほうを見た。冬の午後の光は薄く、サッカー部の掛け声が遠くから聞こえる。
「別に、奈緒に何か言ったわけじゃないよ」
と結城は続ける。
「ていうか、そういう話するのも変だし」
諒はその一言に、少しだけ胸の奥が沈むのを感じた。
やはりそうかと思う自分と、少しでも何かが起きていてほしかった自分と、その両方がいた。
「そっか」
とだけ言うと、結城は一度諒の顔を見て、それから視線をそらした。
たぶん、これ以上は言わないほうがいいと思ったのだろう。
諒はその沈黙に助けられる一方で、同時にもう終わっているのだとも感じた。
自分が結城へ澪との別れを伝えたことで、何か別の未来が動き出すかもしれない。そんな期待は、結局どこにも行かなかった。
*
結城と篠原が近いらしい、という噂を最初に聞いたのは、一月の終わりだった。
噂というほどはっきりしたものでもない。
同じ予備校の帰りに一緒だったとか、冬期講習のあとで何人かで駅前にいた時、最後まで二人だけ残っていたとか、そういう断片が教室の片隅で雑にやり取りされているだけだ。
ふつうなら、諒だって真面目に受け取らなかっただろう。
けれどその名前の並びだけは、諒の耳にひどく鮮明に届いた。
結城直人。
篠原奈緒。
その二つの名前が、急に同じ線の上に置かれる。
それだけで、胸の内側に何かざらついたものが広がった。
まさか、と思う気持ちはあった。
でも同時に、やっぱり、という感覚もあった。
結城ならあり得る。
あいつは昔からそういう男だ。
諒が入口の前で立ち尽くしているような場所を、結城はためらいもなく普通に通り過ぎる。
それができる男だと、ずっと知っていた。
だから諒は、その話を結城本人に確かめることができなかった。
聞いてしまったら現実になる気がしたし、現実になった時に、自分がどんな顔をするのか想像したくなかった。
ところが答えは、本人たちではなく、あまりに普通の形でやってきた。
二月の初め、放課後の廊下で、江端真理が何でもない調子で言ったのだ。
「ねえ、結城と篠原って付き合ってるんだって」
教室の入り口近くで、数人が立ったまま雑談している流れだった。
誰かがへえ、と言い、別の誰かがマジで、と笑った。
その程度の反応。
たったそれだけのやり取りなのに、諒には、その場の音が少し遠くなる感じがした。
付き合っている。
その言葉が、澪と出会った頃とはまったく別の重さで胸に落ちる。
結城と奈緒が。
諒は、自分がどんな顔をしていたのかわからない。
たぶん無表情だったのだろう。
その場で何かを言った記憶もない。ただ、足元の感覚だけが妙に薄かった。
*
結城は数日後、自分からその話をした。
「そういえばさ」
と、澪のことを話した時と同じくらいの軽さで切り出したのだ。
「篠原と付き合うことになった」
諒は、へえ、とだけ返した。
それ以上の反応をすると何かが壊れそうで、ほかに言葉が出てこなかった。
結城は、たぶん諒の内側で何が起きているのか、半分もわかっていなかったのだろう。
あるいは、少しは気づいていても、それを真正面から扱う気はなかったのかもしれない。
ただ少し照れくさそうに笑って、
「まあ、なんか流れで」
と言った。
流れで。
その一言が、諒にはひどく残酷に聞こえた。
自分が何ヶ月も勝手に意味を膨らませ、ひとつの分岐みたいに見ていたものを、結城は“流れ”と呼ぶ。
その差が、諒にはたまらなかった。
「そうなんだ」
と諒が言うと、結城はあっさり頷いた。
「うん。まあ、まだそんな大したもんじゃないけど」
「ふうん」
「ていうか、お前、意外と驚かないな」
そこで諒は、初めて結城の顔をまっすぐ見た。
結城は本当に、ちょっと不思議そうにしているだけだった。つまり、本当に気づいていないのだ。
自分が、諒に向かって、篠原が“変な顔をした”と伝えたこと。その何でもない一言が、諒の中でどれほど長く尾を引いていたかを。
「別に」
とだけ言って、諒は残りのパンを食べた。
口の中が妙に乾いていて、味がしなかった。
*
帰り道、諒はひとりで駅まで歩いた。冬の空気は乾いていて、吐く息が白い。踏切の警報音が遠くで鳴っている。いつも通る道なのに、景色が少しだけずれて見えた。
結城と奈緒が付き合う。
それは別に、誰かを裏切るようなことではない。諒は奈緒に何も告げていないし、約束もしていない。相手の気持ちを確かめたこともない。つまり、失ったと言えるような何かは、最初からひとつも持っていなかった。
頭では、そのくらいわかっている。
それなのに、痛かった。痛い理由を、自分でもうまく説明できなかった。
失恋ではない。嫉妬だけでもない。
もっと曖昧で、もっと深いところを刺されている感じがした。
しばらくして諒は、ようやくその正体に近い言葉を見つける。
自分が“可能性”としてしか持てなかったものを、結城は“現実”として手に入れた のだと。
しかもそれは、結城が努力して奪ったというより、ただ普通に誰かと近づいて、普通に付き合うことになっただけのように見える。
その“普通さ”が、諒にはこたえた。
自分が人生の分岐点みたいに大げさに見ていたものを、他人は案外、もっと軽やかに通り過ぎていく。
そのことを認めるのが、ひどく苦しかった。
その夜、机に向かっていても問題集の字はほとんど頭に入ってこなかった。
もしあの時、澪と付き合っていなかったら。
もし結城の一言にもっと早く向き合っていたら。
もし自分にもう少し勇気があったら。
“もし”はいくらでも浮かぶ。
だが、そのどれもに実体はない。ないからこそ、いくらでも都合よく光る。
諒はその夜、自分の中で何かがはっきり形を取るのを感じた。
澪を失ったこと。
篠原と何もなかったこと。
結城がその先へ進んでいったこと。
それらがひとつに束ねられて、
「自分は人生の大事な分岐を、自分の選択で取り逃がした」
という感覚に変わっていく。
それはまだ、十七歳の諒には言葉になっていなかった。
ただ胸の奥に、硬い塊みたいなものとして沈んでいく。
のちに何度も思い返し、何度も意味を与え直し、そのたび少しずつ美化されていく“原型”が、たぶんその夜できたのだ。
後悔は、出来事そのもので決まるのではない。
あとからそこにどんな物語を与えるかで、いくらでも形を変える。諒はまだ、そのことを知らなかった。
ただ、その冬の終わり、窓の外の冷えた街を見ながら、ぼんやりと思ったのだ。
あの時、自分はたぶん、人生でいちばん大きいものを取り逃がしたのかもしれない と。




