第7話 昨日まで生きていた人
森を抜ける頃には、夕日が山の向こうへ沈みかけていた。
空は赤く染まり、木々の影が長く伸びている。
歩き慣れた獣道へ入ると、ようやく身体の力が抜けた。
ここは知っている森だ。
どこへ足を置けば音がしないか。
どの枝が折れるか。
身体が勝手に覚えている。
夕方の森は、昼より匂いが濃い。温んだ土が冷え始め、葉の裏の湿り気が下りてくる。何百回と歩いた、いつもの時間の匂いだった。
『出口到達』
どくろんが後ろから言う。
テレサは小さく頷いた。
「ありがとう」
それだけだった。
頭の中はまだ整理できない。
前世のこと。
遺跡のこと。
修復装置のこと。
どくろんのこと。
考え始めたら止まらない。
だから今は考えない。
まず家へ帰る。
それだけを決めた。
村が近付く。
正面の道へ出ようとして、足を止めた。
少しだけ考える。
それから、いつもの獣道を外れた。
林の中を進む。
『経路変更』
「うん」
『理由』
「こっちの方が近いから」
嘘ではない。
狩りから帰る時は、こちらを使うことも多い。
村の裏手へ出る。
畑の脇を抜ける。
誰とも会わない。
村の中心からは人の話し声が聞こえた。
普段より少し騒がしい気もする。
けれど、何があったのか、までは分からない。
今日はもう、人に会いに行く気は起きなかった。
家へ向かう。
庭先まで来たところで、足音がした。
草を踏む軽い音。
クロエだった。
家のそばから走り寄ってくる。
尾を振り、テレサの顔へ飛びつく。
べろべろと頬を舐め回した。
「……クロ、待って」
テレサは笑いながら肩を押さえ、襟元へ手を入れる。
怪我はない。
ただし足先も腹も、泥だらけだった。
無事に家へ戻ってはいた。
はぐれたら家へ帰る。
そのしつけが、ちゃんと働いていた。
「よく帰ってきたね」
耳の後ろを撫でる。
クロエは目を細め、しばらく動かなかった。
それから、肩の上のどくろんを見上げる。
鼻をひくつかせ、一歩だけ下がった。
『警戒』
どくろんが言う。
「うん。初めて見るから」
テレサは立ち上がり、クロエの頭を軽く押さえる。
「いい子。敵じゃない」
クロエはもう一度匂いを嗅ぐと、喉の奥で短く鳴いた。
納得したのか、していないのか、はっきりしない。
それでも、噛みつきはしなかった。
テレサは庭の桶を見る。
「中に入れる前に、洗わないと」
種火で湯を温め、水球で足りない分を足す。
いつもの手際だった。
クロエは洗われるのに慣れている。
最初だけ身をよじったあと、じっとして任せた。
泥を落とし、体を拭く。
「よし」
扉は朝閉めたままの姿だった。
鍵を開ける。
クロエが先に中へ入る。
テレサも続く。
見慣れた部屋。
小さな机。
椅子。
棚。
地震で乱れているものもあったが、概ねいつも通り。
「……帰ってきた」
ようやく実感が湧いた。
こもった空気の中に、それでも嗅ぎ慣れた匂いがする。干した肉と、薬草と、火を落とした竈の名残。壁の木目も、床板の軋む場所も、何も変わっていない。
変わったのは、帰ってきた自分の中身の方だ。
弓を外し、壁へ立て掛ける。
服を見る。
泥だらけだった。
袖も破れている。
それなのに。
傷だけが、ほとんど残っていない。
肩へ触れる。
痛みは少しだけ。
腕も普通に動く。
「本当に治ったんだ」
独り言が漏れた。
『修復済』
どくろんが答える。
「うん」
それ以上は聞かなかった。
今は聞きたくなかった。
自分の泥は後回しだ。
棚から水差しを取る。
木の椀へ注ぐ。
一気に飲み干した。
冷たい。
生き返る気がした。
そのまま椅子へ腰を下ろす。
腹が鳴る。
「……お腹すいた」
しばらく何も食べていない。
保存してあった干し肉を取り出す。
硬い。
いつもの味だった。
どくろんが横から見ている。
『栄養摂取』
「そう」
『効率』
「そういう問題じゃない」
少し笑う。
「美味しいから食べるの」
どくろんは数秒止まった。
『理解』
「ほんとに?」
『完全理解』
「その言い方、信用できない」
返事はなかった。
どくろんは部屋を一周してから、棚の上へ降りる。
『待機』
「好きにして」
クロエは足元へ寄り、丸くなった。
テレサはもう一度、その背を撫でる。
静かになる。
窓の外では、夜の虫が鳴き始めていた。
今日は色んなことがありすぎた。
もう何も考えられない。
考えるのは明日でいい。
テレサはそう決めると、ゆっくり目を閉じた。
――
コンコン、と控えめな音が響いた。
テレサは寝台の上で目を開けた。窓の光は、もう朝と呼ぶには高い。あれだけ眠ったのに、身体の芯にまだ重さが残っていた。
「テレサちゃん? 起きてるかい?」
聞き覚えのある声だった。
「……はい」
扉を開けると、近所に住む初老の女性が立っていた。
こちらの顔を見るなり、大きく目を見開く。
「よかった……!」
女性は胸へ手を当て、大きく息を吐いた。
「生きてたんだねぇ……!」
思わず肩へ手を伸ばされる。
その手は、少し震えていた。
ようやく安心したのだと伝わってきて、テレサは少しだけ戸惑う。誰かに、こんなふうに安否を案じられることに、慣れていなかった。
「すみません……ご心配をおかけしました」
「心配なんてもんじゃないよ」
女性は苦笑しながら目元を拭った。
「あの日から三日も見つからなくてね。みんな、もう駄目かと思ってたんだから」
「……三日?」
「あれ、覚えてないのかい?」
テレサは静かに首を振る。
三日。あの遺跡で眠っていたのは、一晩ではなかったのか。
足元で、クロエが顔を上げた。
じっとこちらを見ている。
尾は振らない。
ただ、待っていた、とでも言うように。
テレサは屈んで、その頭を撫でた。
「……待たせたね」
クロエは目を細め、短い吐息を鼻から漏らした。
「地震のあと、村中で探したんだけど見つからなくてねぇ」
そこで女性は言葉を切り、少し表情を曇らせた。
「それに……トーマさんも亡くなってしまってね」
息が、止まる。
「……」
「かわいそうに。地震で、ってことらしいよ」
頭の中が真っ白になる。
前日まで生きていた人。
自分を追い掛けてきた人。
地割れの縁から、手を伸ばしてくれた人。
その人が、もういない。
「……そう、ですか」
それしか返せなかった。
女性は無理に励ますこともせず、小さく頷く。
「ゆっくり休みな。みんな、あんたが無事だって知ったら安心するよ」
そう言い残し、静かに帰っていった。
扉が閉まる。
部屋は再び静寂に包まれた。
テレサはしばらく、その場から動けなかった。
クロエが、足に体を寄せてくる。その温かさで、ようやく息を吐けた。
窓の外では、村の朝が続いている。鶏が鳴き、誰かが荷を運び、遠くで槌の音が響く。その変わらなさが、今日はひどく遠かった。
三日。
その間に、トーマは死んだ。
少し前まで生きていた人が、もういない。
それだけは理解できる。
けれど、それ以上は頭の中で上手く形にならなかった。
地震で亡くなった?
あのとき、トーマは——
続きは途中で途切れ、形にならないまま沈む。
『ますたー』
棚の陰から、どくろんがひょこりと姿を現す。
『外、行キマスカ?』
「……うん」
家の中で考えていても、答えは出ない。
テレサは弓を壁に掛けたまま、小刀だけを腰へ差した。
クロエは扉のそばで立ち上がりかける。
「クロ。今日は留守番」
クロエは一度だけ低く鳴くと、元の場所へ戻って丸くなった。
どくろんは何も言わず、ふわりと後ろについてくる。
外へ出ると、朝の空気は澄んでいた。
見慣れた村だった。
けれど、少し歩くだけで地震の傷跡が目につく。
崩れた石垣。折れた柵。傾いた物置。屋根から落ちた瓦が、道の脇へ寄せて積んである。片付けは始まっているが、終わりはまだ遠いらしい。
村人たちは皆、修復作業に追われていた。
「あっ!」
誰かがこちらへ気付く。
「テレサちゃんだ!」
その声に、周囲が一斉に振り向いた。
「生きてたのか!」
「よかった……!」
「本当に無事だったんだねぇ」
手を止めた村人たちが、口々に声を掛けてくる。テレサは何度も頭を下げた。
「ありがとうございます」
その一言しか出てこない。
皆の顔には安堵が浮かんでいる。
それでも、その奥には拭えない疲れと悲しみが残っていた。三日のあいだ、この人たちは壊れた家を直しながら、行方不明の子どもを探し、死んだ人を送っていたのだ。
自然と、足は村の中を進んでいく。
壊れた景色。
静かな空気。
そして、どこへ行っても感じる喪失感。
(トーマさん……)
最後に見た姿が脳裏をよぎる。
シリルと言い争い。
平手打ちをして。
自分に気付き。
追い掛けてきた。
最後は、地割れの縁から手を伸ばしてくれた。
あの必死の形相も、掠れた声も、「ごめんなさい」も、全部覚えている。
そこから先、あの人がどうなったのかだけを、自分は知らない。
(シリル……)
その名前だけが、胸の奥に引っ掛かる。
理由は分からない。
けれど、どうしても忘れられなかった。
考え事をしながら歩いているうちに、人通りは少なくなっていた。
村外れへ続く細い道。
家々の間を抜ける風だけが、静かに吹き抜ける。
金槌の音も、人の声も、ここまでは届かない。
「――生きていらっしゃいましたか」
穏やかな男の声だった。
テレサの背筋が強張る。
ゆっくりと、振り返る。
そこには、あの日と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた男が立っていた。
シリルだった。




