第67話 帰ってきた朝
細い小窓から差し込んだ朝の光が、木枠の隅に溜まっていた埃を白く照らし出していた。
テレサは毛布の中で一度だけまばたきをし、ゆっくりと上半身を起こす。
『起床ヲ確認。定刻ヨリ三分前デス』
「……おはよう。顔の真横に浮かないで。びっくりする」
枕元のどくろんを手の甲で軽く押し退ける。
どくろんはふわりと下がり、卓の端でじっと浮いていた。
ベッドから足を下ろすと、床板の冷たさが素足の裏からじんわりと伝わってくる。
昨夜、椅子に掛けておいた見習い用の侍女服に袖を通し、背の紐を手探りで整える。上から白いエプロンを重ね、腰の後ろで蝶結びを作った。指先の感触で結び目が真っ直ぐになっているのを確かめる。
髪を櫛で梳き、黒い革靴の紐を締めると、息が整った。
「よし。まずはクロのところね」
『水ト飼料ノ補給ヲ推奨』
「言われなくても分かってる」
テレサは部屋の閂を静かに外し、廊下へ出た。朝早い館内はまだ薄暗く、物音ひとつない。足音を忍ばせて厨房の脇を抜け、用口の土間から重い通用戸を開けた。
――
外に出た途端、朝の澄んだ冷気が頬を撫でた。
裏庭の隅にある木造りの犬舎へ近づくと、奥の寝藁ががさと擦れる音がした。
テレサは戸の留め具を外して開ける。
焦げ茶の短い毛をしたクロエが、身を低くして小屋から前足を伸ばす。
喉の奥で小さく息を鳴らす。立ち耳が前を向き、太い尾が寝藁を二度、三度と叩いた。
「クロ、おはよう」
テレサが膝をつくと、クロエは鼻先を寄せてきて、テレサの手の甲を軽く押し上げた。
その首元には、昨日初めて着けた真新しい革首輪が巻かれている。中央にはブレンダール分家の小さな標章が留められている。その縁に朝の光が当たっていた。まだ硬さの残る革の縁を指先でなぞってから、テレサは手を離した。
井戸の釣瓶を引き上げ、木桶に満ちた冷たい水を木皿へ注いだ。屋敷の麦と刻み肉で用意してきた餌を深皿に盛る。
テレサは皿を地面に置く。
クロエは耳を伏せ、体を低くしたまま勢いよくがっつき始めた。餌を噛む小気味よい音が、朝の静かな庭に響く。
食べ終えたクロエは、隣の水皿へ顔を突っ込み、ぴちゃぴちゃと音を立てて冷たい水を飲んだ。
テレサは食べ残しのない深皿を脇へ寄せ、水皿へ水を足そうとする。
クロエは舌先で口のまわりをひと舐めし、テレサの膝へ鼻先を預けてきた。
テレサは木桶を下ろし、膝をついたまま手を止めた。
「いい子。今日も待っててね」
硬い頭を軽く撫でると、クロエは耳の先をわずかに後ろへ倒し、静かに鼻を鳴らした。
鼻先が膝から離れてから、テレサは木桶を持ち直す。水皿に水を足して犬舎の中へ置き、空の深皿を拾い上げた。
「入って」
クロエが寝藁へ戻るのを待って戸を閉じ、留め具が掛かったのを指で確かめた。
――
通用戸から土間へ戻り、桶の水で両手を丁寧に洗い流した。続けて顔も洗ってから、厨房の扉を開ける。
中にはすでに薪の燃える匂いと、大鍋から立ち上る白い湯気が満ちていた。竈の前では侍女長のグレーテが長い木べらを持ち、手際よく灰色の煮込みをかき混ぜている。
「おはようございます、グレーテさん」
「おはよう、テレサ。早いですね」
グレーテは鍋から目を離さずに言った。
「裏庭の掃き掃除を済ませなさい。落ち葉が溜まっています。終わったら朝食にします」
「はい、すぐにやります」
「それと、テレサさん」
背後から落ち着いた声が掛かり、テレサは振り返った。
黒い上着をきちんと着た老執事のヨーゼフが、手帳を小脇に抱えていた。
厨房に入ってきたところだった。
「おはようございます、ヨーゼフさん」
「おはようございます。よく眠れましたか」
「はい。よく眠れました」
「それは何よりでございます。奥様の午後のご予定ですが、街の織物問屋まで外出なさいます」
ヨーゼフは手帳に指を添えたまま、言葉を続けた。
「テレサさんには、同行をお願いしたく存じます。買い出しの品書きは、後ほどお渡しいたしましょう」
「はい。準備しておきます」
ヨーゼフは満足そうに小さく頷いた。
「ヨーゼフさん。乗馬を習えますか」
「後日の勤務に合わせて、時間を取れるか相談いたしましょう」
「はい。お願いします」
ヨーゼフは手帳を開いて厨房の奥へ歩いていった。
テレサは用口の脇に立てかけてある竹箒を手に取り、しっかりと柄を握り直す。
箒の竹先が土間を擦り、乾いた音がした。
(……私の居場所は、ちゃんとここにあるんだ)
テレサは裏庭へ続く扉を押し開けた。




