第68話 揺れる背中と浮くどくろ
小さな厩の外に、鞍を載せた馬が立っていた。
乗馬を習いたいと相談したのは先日のことだ。今日は朝の仕事のあとに時間を空けてもらえたので、テレサは狩人服に着替えてきた。
馬の頭のそばには手綱を持った使用人が一人いて、少し離れてヨーゼフが待っている。
「朝のお仕事は、お済みでございますか」
「はい」
「では、こちらへどうぞ」
テレサは歩き出しかけて、足元のクロエを見た。
「クロ、こっち」
馬から離れたところへ連れていき、地面を指す。
「ここで待ってて」
クロエが腰を下ろした。立ち耳の片方が馬のほうを向き、それからテレサへ戻る。
少し歩いて振り返ると、クロエは座ったまま、こちらを見ていた。
どくろんもテレサについてきて、馬から間を空けた横の位置に浮く。
「お願いします」
手綱を持つ使用人に頭を下げると、馬の首の横を示された。
「まず、ここに触ってみてください」
テレサは手を伸ばした。
掌の下で毛が寝て、温かさが伝わってくる。
馬の耳がこちらへ向き、やがて前へ戻った。
「よろしく」
すぐそばで、馬が息を吐いた。
踏み台は、壁や道具から離れたところに置かれている。
テレサはまわりを一度見てから台へ上がった。馬の頭のそばには使用人がついたままで、台の脇へヨーゼフが来る。
「腕をお貸しいたします」
差し出された前腕へ手を掛け、反対の手を鞍に添えた。
教わったとおりに左足を鐙へ入れ、体を持ち上げる。
右脚を馬の向こうへ回したところで、目だけが先に地面を探した。
踏み台の横にいたはずのヨーゼフが、ずいぶん下にいる。
鞍へそっと腰を下ろし、借りた腕を離すと、肩が持ち上がった。
膝を寄せてしまう。靴の底に当たる鐙が、ひどく細く感じられた。
「まず、顔を上げてください」
「はい」
馬の耳の向こうへ視線を移す。
下を向かなくなると、今度は脚の間で動く胴が気になった。馬が息を吐いたぶんだけ、膝に触れていた張りが緩む。
テレサはその隙間を埋めるように力を入れかけた。
「膝を、少し緩めてみましょう」
言われたとおりにすると、鞍へ預けた腰の重さが急にはっきりした。
すぐ締め直したくなり、かわりに指が革を握り込む。
「手は、ここを持っていていいですか」
「はい。今は、そのままで大丈夫です」
テレサは鞍の前へ添えた手を見て、一度うなずいた。
ヨーゼフが踏み台を脇へ寄せ、馬の通るところを空ける。
「少し歩きますね」
「はい」
手綱を持つ使用人が、馬の頭の横で足を踏み出した。
腰が下から押し上げられる。
足を踏ん張ったつもりなのに、肩だけが後ろへ残った。上体を戻すと、もう次の揺れが来る。
馬車の揺れには慣れたが、あれには両足を置ける床があった。
鞍をつかみ直すと、指に革の縁が食い込んだ。
「息を吐いてみてください」
口を少し開いて、細く息を出す。
息を吐く間にも鞍は動いた。手の力を少し緩めると、腰がそのあとを追っていく。
そこで、膝がまた固くなる。
『ますたー、肩ガ上ガッテイマス』
どくろんは馬の通るところから外れて、横についてきている。
「……あとで」
そこから先を言おうとして、鞍の揺れに息を取られた。
視界の端で、どくろんが滑らかに進む。あちらには、一歩ごとの上下がない。
テレサは前へ目を戻し、次の足音を待った。
思っていたより早く音がして、腰が動く。その次は息を止めずにいられたが、指はまだ革を離せなかった。
ほどなく使用人が歩みを緩め、馬を止めた。
テレサの体には、まだ次の一歩が来るような感じが残っている。
動かない鞍を見下ろすと、息が一つ長く出た。
「降りてみましょうか」
「はい」
使用人が馬の頭のそばで手綱を保ち、ヨーゼフが横へ来てくれた。
声を掛けてもらいながら、両足を鐙から抜く。
鞍に片手を残して右脚を向こうから回すと、ヨーゼフの手が腕を支えた。
馬の脇へ体を下ろす間、靴の先で地面を探した。
土が靴底を受け止める。
両足へ体重を移し、膝を緩めて立った。今度は自分が動くのをやめれば、足の下も止まっていた。
支えてもらっていた腕をそっと引き、ヨーゼフへ頭を下げる。
そのまま馬の首へ手を戻すと、さっきと同じ温かさがあった。
「ありがとうございました」
手綱を持つ使用人に声を掛けると、会釈が返る。
その人が馬を引いて離れてから、テレサはクロエの待つほうへ歩いた。
足を進めるたび、靴底が自分で選んだ土を踏む。
座っているクロエの頭は、ずっと下にあった。
「クロ、お待たせ」
クロエが立ち上がり、こちらへ向けて尾を動かした。
テレサはその前で足を止め、それから横に浮くどくろんを見る。
「さっきのことだけど」
『何デスカ』
「肩のこと、言われても返せなかった」
『返答ハ求メテイマセン』
「返したいねん、こっちは」
鞍を握っていた手を、ゆっくり開いて閉じる。
「自分で浮いとるから分からんやろけど、こっちは座っとるところが動くんや。肩を下げようとしても、次の一歩が来るんやで」
『私モ、ますたーニ合ワセテ移動シテイマシタ』
「自分で、やろ」
手のひらを上へ向けても、どくろんはその少し上で止まっていた。
テレサが手を下げると、クロエの鼻が触れる。
指の間を嗅がれて、テレサは口を閉じた。
クロエは親指の付け根まで嗅いでから、手の下へ頭を入れてくる。
耳の後ろへ指を回すと、クロエの首がわずかに傾いた。
テレサはしゃがみかけ、腿の内側の張りに途中で止まる。
少しゆっくり膝を折り直し、踵を土につけた。
ヨーゼフの靴が、少し離れたところで止まった。
「次のお仕事までは、時間がございます。少しお休みなさいますか」
テレサは顔を上げる。
「はい。ここで、少し」
ヨーゼフがうなずいたので、クロエのほうへ目を戻した。
クロエも座り直し、手が止まると耳を一つ動かす。
テレサはそちらへ指をずらした。
革首輪の上に沿って撫でると、クロエがあごを少し上げる。標章のあるあたりを避けて、首の横を掻いてやった。
土につけた靴底は動かなかった。
どくろんもテレサの顔の高さまで下がって、横に浮いている。
片耳の後ろを掻き終えて手を止めると、クロエがもう一方の耳を寄せた。
テレサは小さく息を漏らし、指の場所を変えた。




