第64話 ここで暮らす
本家から、兄と母の予定を合わせられたと返事が届いた。
ヨーゼフが先方と日を決め、馬車の往復を手配した。
訪問日の朝、テレサはクロエの食器を洗ってから餌を入れ、水も新しくした。
食べ終えたクロエがついてこようとするので、犬舎の前でもう一度しゃがむ。
「クロ、今日は待ってて」
鼻先が手の下へ入ってきた。
額から耳の後ろへ撫でると、クロエはその場に座った。
テレサが立ったあとも、耳だけをこちらへ向けている。
「帰ったら来るから」
戸を確かめて御殿へ戻ると、廊下でグレーテに会った。
ヨーゼフは、テレサがカタリーナに同行して留守にすることを、グレーテへ伝えていた。
「グレーテさん。クロの餌と水は済ませました」
「ええ。留守の間の水は、こちらで見ておきます。お戻りになったら、先に声を掛けてください」
「はい」
そのあとの仕事を今ここで聞きかけて、テレサは口を閉じた。
戻る時刻は、まだわからない。
手を洗って居室へ上がると、カタリーナは持参する紙を薄い書類入れへ収めていた。
封を切った一通目と、まだ開いていない二通目、その間へ挟まないように上へ重ねた母の小紙。
書きかけの返書は、机の脇に伏せてある。
カタリーナはそちらに手を伸ばさず、書類入れを閉じた。
「行こう」
テレサは肩の袋を開け、そばに浮いていたどくろんへ向ける。
「袋に入って。私がいいと言うまで、喋らないで」
『了解。発声ヲ停止シマス』
どくろんが収まってから袋の口を整え、テレサは紐を肩へ掛け直した。
玄関では、ヨーゼフが御者との話を終えたところだった。
「お帰りも、こちらの馬車でお戻りいただけます」
「頼む」
カタリーナに続いて乗り込むと、テレサは袋を膝へ移した。
向かいの席で、書類入れも膝に置かれる。
馬車が動きだしたとき、カタリーナの手がその端を押さえた。
角を曲がって揺れが収まっても、手はそこにあった。
――
通された部屋では、椅子から立った男がカタリーナを迎えた。
妹より幾つか年上に見え、背を伸ばした姿勢に、少し硬さがある。
そばにいた婦人は、まずカタリーナの顔を見てから、後ろのテレサへ目を移した。
「使用人見習いのテレサを連れてまいりました」
カタリーナが半歩脇へ寄る。
「テレサ。兄のコンラートと、母のロザリンデだ」
「テレサと申します」
頭を下げると、コンラートは座る前にこちらへ向き直った。
「手紙の件を確かめてくれたそうだな。聞かせてほしい」
「はい」
テレサは、カタリーナの椅子の脇に立った。
ロザリンデも卓を囲む席へ着き、持参した書類入れが開かれるのを待つ。
「兄上。まず、こちらをご覧ください」
カタリーナは一通目を封筒から出した。
折り畳まれた便箋を開き、書かれた文字が兄の側から読めるように向きを変える。
端を持った指が、卓の上をゆっくり滑った。
その隣へ、封を切っていない二通目が置かれる。
「この二通を、使者に託されたのですね」
コンラートは便箋と封書を見比べた。
「ああ。どちらも私が書いて渡したものだ」
「こちらは読みました。もう一通は、まだ封を切っておりません」
「わかった」
カタリーナが一通目の終わりを示すと、コンラートの目がそこへ下がった。
「困ったことがあれば知らせるように、と書いた」
「その言葉は、届いていませんでした」
便箋から手を引き、カタリーナはこちらを見る。
「テレサ。使者から聞いたことを」
「使者から伺ったのは、奥様に本家へお戻りいただくお話でした。こちらの二通は、奥様に渡されていませんでした」
「本家へ戻る話は、私がした。伝えるようにも言った」
コンラートは、開かれた便箋へ目を戻した。
「だが、手紙を渡さなくてよいとは言っていない」
カタリーナは母の小紙も取り出し、ロザリンデへ向けて置いた。
「母上。菓子に添えてくれたのは、この紙か」
ロザリンデは紙の端を指で押さえた。
「ええ。お菓子と一緒に渡して、と頼んだ紙です。届いていなかったことは、ヨーゼフから聞いています」
カタリーナはこちらを見た。
「テレサ。菓子と、この紙のことを」
「お菓子は、奥様が召し上がっていました。こちらのご質問は、伝わっていませんでした」
ロザリンデは小紙を娘の前へ戻す。
「お茶のときに、教えてちょうだいね」
カタリーナがうなずいた。
テレサは二人の顔を見てから、下がるために足を引く。
「では、外でお待ちしています」
「テレサ、待て」
カタリーナの手が、椅子の肘掛けを離れた。
「そのままでいい」
返事をする前に、カタリーナは兄へ向き直る。
「このまま同席させていただけますか」
「お前が望むなら、構わない」
コンラートの返事を聞いてから、カタリーナは母を見た。
「母上も、いいか」
「ええ、私も構いません」
テレサは短く返事をして、カタリーナの椅子の少し後ろへ下がった。
どくろんを入れた袋を肩から下ろし、足元へ置く。
体を起こして、両手を前で重ねた。
「分家を閉じるお考えは、今もおありですか」
カタリーナの声で、目が卓の向こうへ戻る。
「ある」
コンラートはすぐに答えた。
「こちらへ移れば、お前を一人にせずに済む。家のことも、一緒に見られる」
「あの家では、ヨーゼフたちに助けられて暮らしています」
「それは知っている」
そこで言葉を切り、コンラートは椅子に深く座り直した。
「夫を亡くした妹を、あのまま一人にしておきたくなかった。分家のことを任せきりにできないとも思った。今も、まとめる方がよいという考えはある」
カタリーナは卓にある一通目へ目を落とした。
「あの家では、夫を亡くしたあとも暮らしが続いています。閉じるというお話は、その暮らしまで終わらせてよいと言われたように聞こえました」
浮いた便箋の折り目に指を添える。
「残してある物も、ただ片づける荷物にされるようで。何を言われても、その話の続きだと思って聞いていました」
廊下を歩く足音が扉の前を通り過ぎ、遠ざかっていった。
「もう兄ではないと、突き放しました」
「聞いた」
コンラートの声は低かった。
「手紙にも返事がなく、何も頼みたくないのだと受け取った」
「頼めば、本家へ戻ることになると思っていました」
「困れば言え、という言葉もか」
「先に、帰ってくるようにというお話を聞いておりましたから」
コンラートは唇を閉じた。
開かれた手紙には、自分の方へ向いた文字が並んでいる。
テレサには、向こう側からそこを読むことはできなかった。
「帰る場所を、先に決めていたな」
しばらくして、コンラートが言った。
「お前がどうしているか聞く前に、こちらへ来ればよいと話した」
カタリーナの指が、折り目から離れる。
「はい」
「順を違えた」
便箋の隣にある封書には、誰も手を伸ばさなかった。
テレサは前で重ねていた手をほどき、もう一度重ねた。
「兄ではないと申し上げたことは、取り消させてください」
カタリーナが顔を上げる。
「あれは、言葉が過ぎました。戻りたくないということを、あの言葉でお返ししました」
「わかった」
コンラートは一度うなずいた。
それを見てから、カタリーナは続ける。
「これからも、あの家で暮らすつもりでおります」
「そこは、まだ考えが違うな」
「はい」
同じ返事でも、今度は紙へ目を伏せなかった。
コンラートは卓の縁に置いていた手を引いた。
「今、家のことは誰と話している」
「ヨーゼフです。家の中の段取りや、見習いを雇うことは任せています」
「お前が決めることもあるだろう」
「はい。書状への返事は自分で書きます。家の費用は、ヨーゼフの報告を聞き、出納の控えも見て使い道を決めております」
カタリーナは、指先で書類入れの口を整えた。
「決めずに置いておいても、片づけてはくれません」
「そうだろうな」
「ええ」
答えた口元が、わずかに動いた。
テレサは朝の居室を思い出した。
ヨーゼフに頼んだ馬車でここへ来て、書きかけの返書は、机に残してある。
「息をつく暇はあるのか」
コンラートが聞いた。
「はい。テレサと狩りに出ています。獲物のある日は、帰ってからの食事も楽しみです」
ロザリンデの口元が緩んだ。
コンラートも口を開きかけたが、言葉を足さずにうなずいた。
カタリーナは、その顔を見ていた。
「兄上」
呼ばれたコンラートが目を合わせる。
「一度、あの家へいらしていただけませんか」
「訪ねてよいのか」
「そこでどう暮らしているか、ご覧いただきたいのです。ヨーゼフからの報告をお読みになるだけでは、わからないこともあると思います」
カタリーナは兄から目を離さず、返事を待っている。
「そうだな」
コンラートが言った。
「閉じる話を持っていく前に、一度訪ねよう」
カタリーナの肩が、椅子の背へ触れた。
「お待ちしています」
「こちらの用事を見て、日を知らせる。留守に行っても仕方がないからな」
「用事を確かめて、お返事します。お話しする時間も取っておきます」
「それなら、ゆっくり聞ける」
コンラートは卓に目を落とし、一通目をカタリーナの側へ少し戻した。
カタリーナは便箋を元の折り目で畳み、切った封筒へ収める。
二通目の封はそのままにして、二つを書類入れへ戻した。
母の小紙だけが、まだ卓に残っていた。
扉が叩かれ、コンラートが応じると、茶器を載せた盆が運ばれてきた。
ロザリンデは小紙を手元へ寄せ、皿を置く場所を空けた。
使用人が三人の前に茶碗と取り皿を置き、茶を注いだ。
細長い焼き菓子には、表面に薄く蜜が引いてある。
隣に並んだ丸い菓子には、小さく砕いた木の実が混じっていた。
「では、今度はこちらを聞かせて」
ロザリンデが、小紙の端に指を置いた。
「今も、昔と同じお菓子が好き? それとも、別のものがいいかしら」
「昔のものも好きだ。別のものも食べる」
カタリーナはそう答え、蜜のついた方へ手を伸ばした。
自分の皿へ取り、端をひと口かじる。
母はその間、次の問いを重ねなかった。
カタリーナが飲み込んでから、茶碗を手に取る。
「これには、お茶が欲しい」
「甘いものね」
「でも、好きだ。甘いのも」
ロザリンデは自分の皿にも、同じ菓子を取った。
「一度も返されなかったから、嫌いになったのではないと思っていたの。でも、あなたの口から聞きたかったわ」
「返そうとは思わなかった。食べたかったから」
言ってから、カタリーナはもうひと口食べた。
その食べ方を見て、ロザリンデが声を出して笑った。
「そう。それなら、送ってよかった」
ロザリンデは蜜の菓子をひと口かじり、茶を飲んだ。
カタリーナも茶碗を持ち上げたが、少しだけ口をつけて戻す。
母は丸い方の皿も娘へ寄せた。
「こちらは、どうかしら」
蜜の菓子を食べ終えたカタリーナが、今度は丸い方を取る。
ひと口食べてから、手に残った菓子へ目を落とした。
「香ばしい。丸い方も好きなんだ」
ロザリンデは小紙を娘の前へ滑らせた。
「どちらかをやめなくてもいいのね」
「うん。選べる方がいい」
カタリーナは紙を持ち上げ、書類入れの二通の上へ重ねた。
口を閉じて椅子の脇へ置くと、空いた手で皿を自分の方へ引き寄せる。
コンラートも丸い菓子を取っていた。
半分に割ったときに落ちた欠片を、先に指で拾って口へ運ぶ。
話す人が途切れても、今度は待っている答えがなかった。
「次は、私が持っていきたいの」
ロザリンデが言った。
カタリーナの手が、皿の上で止まる。
「母上が?」
「ええ。これを包んでもらって、そちらへ。お茶を飲む時間を作ってもらえるかしら」
カタリーナは手にしていた菓子を皿へ置いた。
「来る日を先に教えてくれれば、茶を用意しておく」
「いつ頃がよさそう?」
「昼の食事のあとでどうだ」
「すぐだと、お腹がいっぱいかもしれないわね」
ロザリンデが皿に残った菓子を見た。
カタリーナもそちらへ目をやり、口元を緩める。
「では、少し間を空けよう。夕食にも響かないうちに」
「そのくらいがよさそうね」
ロザリンデが茶碗を置くと、控えていた使用人が茶を注ぎ足した。
カタリーナも茶碗を少し寄せ、注ぎ終わってから母へ向き直った。
「丸い方を、少し多めに持ってきてほしい」
「これね」
「中の木の実がいい。甘さも、このくらいがいい」
「わかったわ。蜜の方も、少し入れておく?」
「それがいい」
返事をしたカタリーナの前には、蜜の菓子の欠片が残っている。
指で取ろうとすると皿へくっついていたので、いったん手を拭き、小さな匙を使って口へ運んだ。
ロザリンデはそれを見て、また笑った。
「そちらも、忘れずにね」
「うん」
カタリーナは茶を飲んでから、丸い菓子の残りへ戻った。
母も自分の皿へ目を落とし、食べかけていた分を手に取る。
テレサは前で重ねた手を緩め、二人が食べ終わるのを待った。
足元では、どくろんを入れた袋の縁が靴に触れていた。
声はしない。
カタリーナが空いた取り皿を卓の奥へ寄せると、コンラートが自分の皿もそちらへ揃えた。
茶碗に残る量が少なくなった頃、再び扉が叩かれた。
入ってきた使用人が、カタリーナへ頭を下げる。
「アウグスト様は、これからでしたらお話になれるとのことでございます」
カタリーナは茶碗を置いた。
「わかった。案内して」
書類入れを取り上げて立つと、ロザリンデも顔を上げた。
「伺う日は、決まったら知らせるわね」
「待ってる。茶の時間も、そのときに」
カタリーナは兄へ向き直る。
「今日は、お時間をいただきました」
「ああ。こちらも、日を知らせる」
コンラートの返事を聞いてから、カタリーナはテレサを呼んだ。
「テレサ、行くぞ」
「はい」
テレサは足元の袋を持ち上げ、二人へ頭を下げた。
カタリーナは扉の内側で、袋の紐が肩へ掛かるのを待っている。
その脇へ行くと、書類入れを抱え直した手が見えた。
父の待つ部屋へ案内する使用人に続き、カタリーナが廊下へ出る。
テレサも、半歩後ろについていった。




