第61話 預かったまま
カタリーナのペンが、二行ほど進んで止まった。
「街で会った本家の使用人の話も書く。聞いたことをまとめてくれ」
顔がどくろんへ向く。
テレサもそちらを見た。
「どくろん、短く説明して」
『文面ハ知ラナイソウデス』
ペンの先が、紙の上で待っている。
「……短いにもほどがあるやろ。紙は自分で渡したけど、何が書いてあったかは知らんのやって。選んでもらう話は、包むときに聞いたんや」
「短く頼んだのは、お前だぞ」
テレサは机の方へ顔を戻した。
「それは、そうです」
カタリーナの口元が緩む。
『詳シク述ベマスカ』
「今、うちが言うてもうたやん」
言い終えてから、もう一度机を見る。
カタリーナはまだ少し笑っていたが、ペンを持ち直すと、空いているところへ一行書き足した。
「母がその紙に何を書いて、何を頼んだかは、別に尋ねる、と」
「はい。その人にも、もう一度確かめてもらいたいです」
「母とは別に、だな」
テレサが頷くと、書く音が続いた。
どくろんが口を開きかける。
「ちょっと待ってて。書いていらっしゃるから」
顎が閉じた。
カタリーナは一行を書き終え、ペンを置いた。
「お前も、座っていい」
机の脇の椅子を指す。
テレサは礼を言って腰を下ろした。どくろんも、その肩の高さまで下りてくる。
椅子へ座ると、さっきまで見下ろしていた紙の端が、ずっと近くなった。
カタリーナは茶の器を取り、冷めかけた一口を飲む。
書きかけの紙には、まだ黒く光るところがあった。
「どくろん」
テレサが呼ぶと、こちらへ顔が回る。
「奥様に、紙も受け取られたか伺ったときは」
『紙ハ受ケ取ッテイナイト、答エマシタ。選ブヨウニトモ、聞イテイナイト』
「そうだ」
カタリーナが器を戻す。
「そちらは、ここで聞いたとおりでいい」
テレサは頷き、机へ目を戻した。
「お母様にも、その方へ紙を預けられたか、直接確かめたいです」
「ああ。先に聞こう」
カタリーナは書きかけの行へ指を置く。
「何を、どう届けるよう頼んだかも聞いてもらう」
「はい」
テレサは膝の上で手を止めた。
用向きが決まったら改めて、と言われた声が戻ってくる。
「その紙を、まだ預かっているのでしたら。持ってきてもらうだけでは……」
カタリーナはペンを取らずに待った。
「それが全部か、分かりません」
「そのときは、兄に確かめてもらう。向こうの家で預かった物だ」
カタリーナは紙を自分の前へ寄せた。
「母の返事を聞いてから、だな」
書き足す箇所を指で押さえ、テレサを見る。
「ヨーゼフを呼んでくれ」
――
ヨーゼフが来ると、カタリーナは書付を示し、母と使用人に確かめることを短く伝えた。
テレサは机の脇に立ち、呼ばれたところだけを補う。
どくろんにも、今の相談は一緒に話してよいと伝えた。
「まず、母が実際に託したかを聞いてくれ。託した物があるのに、こちらへ届いていないと分かったら、関係する記録と預かり物を動かさずに残すよう、当主へ頼む」
ヨーゼフは書付から顔を上げる。
「承知いたしました。まずお母様に伺います。こちらは、わたくしが直接お届けいたしましょう」
「頼む」
「街でお会いした方は、グレーテさんがご存じです」
テレサが伝えると、ヨーゼフは書付の端へ目を落とした。
「出発までに、そちらも聞いておきます」
「ルートガー殿には、当家での照合の用件をお伝えします」
カタリーナが頷いた。
「数便分だ。正式に受け取ったものを、控えと合わせる」
「必要な頁を書き出しておきます。元の帳面も、こちらに」
ヨーゼフは机の空いたところへ、自分の帳面を置く。
テレサは、その表紙へ目をやった。
この前も、品と器の数は合っていた。
「書状も、合わせるんですか」
「ええ。いつの、どの用件のお便りをお受けしたかも」
ヨーゼフはカタリーナへ向き直った。
「お手元のものを、お借りしてよろしいでしょうか」
「揃えておく」
机の脇へ指が向く。
そこへ帳面を寄せたヨーゼフは、書付をもう一度見た。
「お届けするのは、ルートガー殿がお着きになってからにいたします」
「その間に、こちらを合わせておく」
テレサは二人を見る。
「向こうのお返事も、ヨーゼフさんが持ってきてくださるんですね」
「はい。伺ったことと、確かめていただけたことを分けて、お持ちします」
カタリーナは書付の空いたところへペンを下ろした。
テレサが今日、答えてもらえなかった問いが、違う人の手へ渡ろうとしていた。
――
照合の日の朝、テレサはクロエの水を替え、餌を入れてから屋敷へ戻った。
仕事着の腰に袋を付ける。
「どくろん、呼ぶまで黙っていてね」
『発声ヲ停止シマス』
取次の間へ茶器を運ぶと、卓には帳面と書状が揃えられていた。
いつもはヨーゼフが立つところに、今日はカタリーナがいる。
「そちらは空けておけ。控えを広げる」
「はい」
テレサは盆を卓の端へ置いた。
カタリーナは、一番上の書状の角を持ち上げる。
「この順に出してくれ」
折り畳まれた紙を、テレサが自分の側へ寄せた。
廊下から足音が近づく。
グレーテに案内され、ルートガーが入ってきた。
「お待たせいたしました」
「控えは」
「ご指定の分を、こちらに」
袋から紙の束を出す。
カタリーナが向かいの席を指すと、ルートガーは卓の上を一度見てから座った。
空いているヨーゼフの場所を尋ねることはなく、持参した控えの一枚目を開く。
「こちらから、順にご説明いたします」
テレサは茶を注いで茶器を卓の端に残し、盆を持って戸へ向かった。
廊下に出ると、ヨーゼフが待っていた。手には、封をした書付がある。
「お着きになりましたか」
「はい。控えを出していらっしゃいます」
ヨーゼフは書付を袋へ収めた。
「では、行ってまいります」
グレーテが一歩脇へ寄る。
テレサは、執事が表へ向かうのを見送ってから、盆をグレーテへ渡した。
「奥様のところへ戻りなさい」
頷いて戸を開ける。
ルートガーは、まだ最初の便の説明を続けていた。
――
「こちらは、御殿の維持費についてのお便りでございます」
ルートガーが控えの一行へ指を添えた。
カタリーナはテレサから書状を受け、折り目を開く。
「窓の手入れを進めたときだな」
「はい」
テレサは開いた帳面の頁を押さえた。
隣には、ヨーゼフが書き出した控えがある。
「ここですか」
「日付を合わせてくれ」
カタリーナが書状を少しこちらへ寄せる。
テレサは二つの日付を見て、頷いた。
「合っています」
援助への礼と、帰還を断った返事。
ルートガーは、その便で持ち帰った用件も述べた。
テレサが聞いたあの日の応対と、違うところはなかった。
カタリーナは書状を畳み、確かめ終えた側へ置く。
「次を」
テレサは次の一枚を渡した。
届けた書状と、持ち帰った返書。
先に品が渡り、別の便で器が返ったところでは、頁を一つ戻した。
ルートガーの指は、持参した控えの中で迷わない。
「器の引取りは、こちらの日でございます」
カタリーナは二つの日付を見比べた。
「ああ。受取とは別か」
「はい。お返しは、その次の折に」
テレサは紙を戻しかけた手を止め、返却の行を指した。
そこにも同じ日付がある。
「合っています」
ルートガーが頷いた。
「そのように、受渡しのたびに確かめております」
書状を畳む音が続く。
初めに出した茶からは、もう湯気が立っていなかった。
カタリーナが器へ手を伸ばすと、テレサは茶器を取った。
「替えてもよろしいですか」
「ああ。頼む」
茶を替えて戻ると、確かめ終えた紙が卓の半分を占めていた。
カタリーナは席を立たずに、次の便を開くのを待っている。
テレサは器を脇へ寄せ、書状を一枚取った。
最後に、二種類の菓子の受取と器の返却を合わせた。
ここには封のある書状はない。
届けた品の名と、器の数。返却した日の記載。
テレサが知っているとおり、二つとも揃っていた。
「先日も、こちらの受渡しに不足はないと申し上げました」
ルートガーがテレサへ目を向ける。
「はい。品は揃っています」
答えてから、帳面をカタリーナの方へ向けた。
ルートガーも、自分の控えを揃える。
「以上でございます。ほかにお確かめになることは」
「本家へ出した確認の返事を待つ」
紙を重ねる手が止まった。
「本家へ、でございますか」
「ああ。母が好みを尋ねるよう頼んだのか。そちらも確かめてもらっている」
ルートガーは重ねた控えを卓へ戻した。
「その件でしたら、私がお尋ねしてまいります」
「ヨーゼフが届けに行った」
テレサは、空いている卓の脇を見る。
ルートガーもそちらへ目を向けた。
「どちらへお持ちに」
「当主へ。返事も、ここで受け取る」
ルートガーはしばらく黙っていた。
それから、閉じかけた袋を足元へ置く。
「では、お待ちいたします」
控えは片づけず、手の下へ揃えられた。
テレサは茶器の蓋を直した。
窓から入る光の中へ、細く湯気が上がっていた。
――
グレーテが戸を開けたのは、カタリーナが読み終えた書状をもう一度揃えているときだった。
「ヨーゼフさんがお戻りです」
テレサは卓の端へ寄った。
入ってきたヨーゼフは、カタリーナへ一礼し、袋から書付を出す。
「本家当主様から、お返事をお預かりいたしました」
その下から、別に包まれたものが現れた。
ルートガーは椅子に座ったまま、そちらを見ている。
「確かめられたか」
「はい。正式な書状と進物の発送は、記録で確かめております。お母様と、テレサたちが通りで会った者のお話も、それぞれ伺いました」
ヨーゼフは、まだ包みを開かなかった。
「続きは部屋で聞く。持ってきてくれ」
カタリーナが席を立つ。
テレサは帳面を閉じ、書状を重ねた。
ルートガーも控えを袋へ入れ、立ち上がる。
グレーテへ茶器を頼んでから、四人で居室へ移った。
どくろんは袋の中に収まったまま、テレサと一緒にいる。
ヨーゼフが机に書付と包みを置いた。
カタリーナは先に書付を開き、読み終えると脇へ伏せる。
「母は、何と言っていた」
「どちらを送ってほしいか、紙に書かれたそうです。先日の菓子と一緒に、奥様へ届けるようにと」
テレサは顔を上げた。
「包んだ方へ、お預けになったんですね」
「はい。ご自分で書き、その者へ渡して、使者に預けるようお申し付けになったと」
ヨーゼフが包みへ手を置く。
「その者にも別に伺いました。包みと紙を、自分でルートガー殿に渡したとのことでございます」
「そこは、こちらで聞いたとおりか」
「ええ。紙に好みを尋ねる言葉を書いたことは、お母様に確かめております」
テレサは、まだ紐のかかった包みを見た。
カタリーナが机から手を離す。
「それから、調べたのだな」
「まず、そのお話と、奥様が紙もお尋ねも受けていないことを当主様へお伝えしました」
ヨーゼフはルートガーへ顔を向け、それから主人へ戻した。
「本家の担当の方に、預かり物を置く場所と、扱う者を確かめていただきました。当主様のお申し付けで、関係する記録とその部屋の出し入れを止めております」
「開く前に、だな」
「はい。その後に、担当の方が戸棚を開きました。わたくしも立ち会っております」
包みの紐が解かれた。
テレサのいる側へも、小さく折った紙が見える。
「ルートガー殿の預かり物の戸棚に、こちらがございました」
ヨーゼフがその一枚を差し出す。
「ロザリンデ様に確かめていただきました。ご自分がお託しになった紙に相違ないと」
カタリーナは受け取り、まだ開かずに机へ置いた。
包みには、ほかの便りも入っていた。
紙の端を揃えたまま、ヨーゼフが向きを変える。
表に、カタリーナの名があった。
「こちらは、当主様がお書きになった私的なお便りです。以前、ルートガー殿へ託されたものだと、ご本人に確かめていただきました」
カタリーナが手を伸ばす。
一通目を取り、下にあったもう一通も引き寄せた。
どちらの封も、切られていない。
テレサは二通の便りから、ルートガーの袋へ目を移した。
さっきまで卓に並んでいた控えには、受け渡した物が正しく揃っていた。
その外にあった紙が、今、宛名の人の手へ渡っている。
カタリーナは二通を伏せ、小さな紙を取り上げた。




