第54話 そのままでいい
数日後の夕方、テレサは犬舎の脇に水桶を置いた。
器の底に張りついていた葉を指で取り、残った水と一緒に流す。
クロエが空になった器へ鼻を寄せた。
「今、入れるから」
水を注いで置き直すと、待っていた舌がすぐに水面を打った。
テレサは袖を肘へたくし上げる。
犬舎の戸口へ寄った寝藁を中へ戻していると、庭を歩く足音が近づいてきた。
「仕事は終わったか」
顔を上げると、カタリーナが立っていた。
「はい、奥様」
テレサは脇に浮くどくろんへ顔を寄せた。
「呼ぶまで静かにしててね」
どくろんの口が閉じる。
水を飲んでいたクロエが顔を上げた。
口元から雫を落としながら、テレサの横を抜けていく。
カタリーナが手を下ろすと、鼻先がその掌へ触れた。
「ずいぶん飲んだね」
声が柔らかくなった。
テレサが布へ手を伸ばす間に、カタリーナはもう屈んでいる。
指が耳の付け根を掻くと、クロエの首がそちらへ傾いた。
「口が、まだ濡れてます」
「もう遅い」
カタリーナが掌をこちらへ向けた。
指の間に、小さな水の粒が光っている。
テレサは布を差し出した。
受け取ったカタリーナは、自分の手より先にクロエの顎の下へ布を当てた。
「はい。こっちも」
布に顔を寄せてきたクロエの口元を拭く。
拭き終えた手首を舌が追うと、カタリーナは笑って腕を引いた。
「そこはいいんだよ」
テレサも口元を緩めた。
返された布を桶の縁へ掛ける。
クロエはそのあいだに、カタリーナの前へ座っていた。
顔を上げ、下りてくる手を見ている。
「今度はそっち?」
首の横へ回った指に、クロエが頭を預けた。
カタリーナは指を動かす場所を少しずらす。
クロエの耳が横へ倒れた。
テレサは犬舎へ向き直り、戸の下に挟まった藁を抜いた。
指先で寄せた分を中へ戻すと、戸は引っかからずに動く。
確かめてから、また開けておいた。
カタリーナが手を上げると、クロエの鼻先がその下まで伸びた。
「私が手を止めても、そうするんです」
「なるほど」
カタリーナが手を戻す。
クロエは首を伸ばすのをやめ、指の下へ顎を収めた。
「これなら、やらんな」
「でも、終わらなくなります」
カタリーナはテレサを見た。
それから、手元へ目を落とす。
「そうだな」
指は動いたままだった。
テレサは笑いをこらえ、桶の取っ手を持ち直した。
通り道から脇へ寄せると、底が土を擦る。
クロエの耳が立った。
「大丈夫。まだ行かないよ」
テレサが言うと、クロエはこちらへ向けた顔を戻した。
カタリーナの膝へ鼻が触れる。
「向こうもだそうだ」
クロエへ告げた声は、また少し柔らかかった。
テレサは桶から手を離し、その場にしゃがみ直した。
頭の上で葉が擦れている。
庭の向こうから器の触れ合う音が聞こえたが、誰かに呼ばれる声はなかった。
カタリーナが片方の膝を立てると、クロエも腰を上げた。
そのまま離れるかと思ったが、反対側へ回ってまた座る。
「ああ、そっち側もね」
カタリーナの指が、もう片方の耳の後ろへ入った。
クロエは目を細めている。
テレサは膝についた藁を払った。
「朝にそれをすると、なかなか出られなくて」
「遅れるのか」
「遅れる前には、やめます」
カタリーナの眉が少し上がった。
「それは、やめるのが遅いんじゃないか」
テレサは返す言葉を探した。
その間も、クロエの耳はカタリーナの指に合わせて動いている。
「……奥様も」
「今は急いでいない」
先に言われた。
テレサは俯き、膝の藁をもう一度払った。
クロエが前脚を伸ばす。
そのまま腹を地面へつけると、カタリーナの手も背中へ移った。
「寝るつもり?」
尾が土を軽く打った。
「しょうがないねえ」
テレサの口元が緩む。
しばらく、葉の擦れる音だけを聞いていた。
クロエの背を撫でる手が、ゆっくり往復している。
しばらくして、カタリーナが手を離した。
「もうおしまい」
クロエが顔を上げる。
鼻先へ指をひと撫で添えてから、カタリーナは立ち上がった。
テレサも腰を上げかける。
「いい。そのままで」
腰を下ろすと、クロエがこちらを見た。
「クロ、おいで」
起き上がったクロエが、膝の前へ戻ってくる。
カタリーナの袖には、短い毛が何本かついていた。
テレサの視線に気づいたのか、カタリーナも袖を見た。
指で払うと、一本だけ残る。
それを摘み取り、足元のクロエへ目をやった。
「続きはそっちでしてもらいな」
カタリーナは屋敷のほうへ歩いていった。
クロエが顔を向ける。
テレサはその肩へ手を置いた。
「今日はいっぱい撫でてもらったね」
手の下から首が伸び、鼻先がテレサの肘を押した。
テレサは少し笑って、首筋へ指を入れた。
――
クロエの餌と水を整え、犬舎の戸を閉めたあと、テレサは私室へ戻った。
着替えた仕事着を寝台へ置くと、袖から短い毛が落ちる。
指で摘まもうとして逃げられ、布の上へ押さえてから取った。
「どくろん。もうしゃべってええよ」
肩の横で、青い光がこちらを向く。
『奥様ノ袖ニモ、付イテイマシタ』
「見てた。取ってはったな」
テレサは仕事着を寝台の脇へ掛けた。
「クロも、なかなか離れへんかったし」
『奥様ガ撫デテイマシタ』
「うん」
『ますたーモ、続ケテイマシタ』
「そこまで見んでええ」
寝台へ腰を下ろすと、どくろんも膝の前まで下りてきた。
テレサは足を引き上げ、壁へ背を預ける。
「でも、やっぱり好きなんやなあ」
どくろんの眼窩へ目を向けた。
「奥様、クロにしゃべるとき、全然ちゃうやろ」
『語尾ト声ノ調子ガ変ワリマス』
「うちに返事するときだけ、戻るんよな」
急いでいない、と言い切ったときの顔を思い出し、テレサは笑った。
口元が戻ってから、膝の上へ両手を置く。
「それで、ちょっと不思議なんやけど」
『何ガデスカ』
「犬舎もあるのに、なんで前は犬を連れて猟に出えへんかったんやろ」
どくろんは正面へ浮き直した。
「犬、好きやろ。撫で方も慣れてる。あんな人が、ずっと一人で行ってたんやなって」
『今ハ、クロエモ同行シテイマス』
「せやねん。それは認めてくれはった」
テレサは頷いた。
「一緒に歩いてても、クロがおるから嫌や、いう感じはなかったし」
『探索サセ、射ツ間ハ待機サセテイマシタ』
「うん。クロの仕事も分かってるんや」
林の縁で立ち止まったカタリーナは、クロエを先へ出すかと尋ねた。
射場を選んだあとは、待たせる場所も決めていた。
「知らんから使わへん、いうわけでもなさそうやろ」
『狩リ方ハ、一人デ成立シテイマシタ』
「まあ、あの腕やしな」
テレサは膝へ顎を寄せた。
大きな弓を引く肩は、雉が藪から出るまで少しも急がなかった。
「自分で見つけて、自分で近づいて、射てる。犬がおらんでも困らへんのか」
言ってから、顔を上げる。
「……でも、それはできるいう話やんな」
『一人デ行ク理由トハ、別デス』
「そう。それ」
「うちも、クロに何もさせんと獲れる日はあるで。でも、せやから置いていこう、とはならへん」
『ますたーノ選ビ方デス』
「せやな。奥様も同じとは限らん」
指先で膝の上をなぞる。
「一人のほうが気楽なんかな」
どくろんは少し傾いた。
『ソレハ、奥様カラ聞イテイマセン』
「聞いてへんよ。今、思いついただけ」
テレサは手を開いた。
「好きなように歩けるし、止まるんも帰るんも自分で決められるやろ。誰かに合わせんでええ」
『今ハ、ますたータチニ合ワセテ足ヲ止メルコトモアリマス』
「それも、嫌そうにはしてへんかったな」
道が空くまで、少し先で待っていた姿を思い出す。
あのときは、通れるようになったら普通に歩き出した。
「一人がええのと、一緒には行きたくないのも、また違うか」
『好ミハ、確認デキテイマセン』
「うん。そこまでは決められへんな」
テレサは伸ばしかけた足を戻した。
どくろんは答えず、目の前に留まっていた。
テレサはしばらく考えてから、顔を向ける。
「犬が嫌い、ではない。一人でも狩れる。でも、一人で行ってた理由は分からん」
『分カッテイルコトハ、ソコマデデス』
「犬舎もあって、あんなに好きなんやったら、一緒に行ったらええのにって思ったんよな」
言葉の終わりで、声が少し小さくなった。
「何か、連れていかへん事情があったんかもしれんけど」
『理由ハ、記録ニアリマセン』
「うん」
テレサは膝を抱え直した。
廊下で足音がして、戸の前を通り過ぎていく。
音が遠ざかっても、どくろんはこちらを見ていた。
「そこは、まだ分からんままやな」
伸ばした手で、仕事着の袖を裏返す。
もう一本、短い毛がついていた。
指で取っているうちに、夕方のクロエが腹を地面へつけたところを思い出した。
「しかし、あそこで伏せるかあ」
『奥様ハ、背中ヲ撫デマシタ』
「うち、もう帰りはるんやと思ってたのに」
テレサは袖を戻した。
「クロもよう分かってるわ」
『何ヲデスカ』
「……撫でてくれる人」
どくろんが、こちらの手へ目を向けた。
テレサはその視線を追い、指を閉じる。
「うちは、ちゃんと終わらせたで」
『最後ニ、首筋ヲ撫デテイマシタ』
「そのあと、ちゃんとやめたんや」
どくろんは何も返さなかった。
青い眼窩だけが、膝の前にある。
テレサは少しの間それを見ていたが、先に笑ってしまった。




