第6話 森へ、家へ
通路は緩やかな上りになっていた。
風が強くなる。
奥から出口へ抜ける流れが、いっそうはっきりする。
テレサは足裏だけで地面を探り、落ちた砂利も踏まない。
どくろんは前を飛んでいたが、発声は減っている。
命じられなくても、今は静かだ。
助かる。
角を一つ曲がる。
前方に、明るい裂け目があった。
出口だ。
大岩が折り重なり、外の光が細い筋になって差し込んでいる。
その光の手前に、影が一つ。
耳。
四肢。
角はない。
鹿だった。
出口の隙間から顔を出し、遺跡側の冷たい空気を嗅いでいる。
人ではない。
魔獣でもない。
ただの動物だ。
テレサは息を止めた。
距離は取れる。
角度も悪くない。
ただし、風が悪い。
奥から出口へ吹いている。
自分の匂いが、先に届く向きだ。
本来なら回り込みたい。
けれど出口の隙間は一つしかない。
待つ余裕もない。
弦を引く。
肩の痛みが、わずかに残る。
それでも、いつもの型へ身体は入る。
狙う。
前脚の付け根。
逃げるなら、次の一歩の前。
指が弦を離す直前、弦が小さくきしんだ。
鹿の耳が、ぴくりと動く。
鼻先が、こちらを向く。
風に乗った気配を拾い、音で位置を確かめたのだ。
次の瞬間、鹿は跳ねた。
光の向こうへ消える。
落ち葉を蹴る音が一瞬だけして、森へ溶けた。
テレサは弦を戻した。
矢は番えたまま、しばらく動かない。
腕の問題ではない。
風向きと、自分の音。
気づかれる条件が、そろっていた。
「……逃げた」
小さく言う。
どくろんが、ようやく短く告げる。
『生命反応、消失』
「分かってる」
腹は減っている。
仕留めていれば、食料になった。
けれど、今の優先はそこではない。
脅威ではなかった。
出口は空いている。
テレサは矢を筒へ戻し、弓を背負い直す。
「行こう」
『了承』
光の差す隙間へ、二人は近づいていく。
出口の隙間は、人ひとりがようやく通れる幅しかなかった。
考えるのは後だ。
まずは生きて帰る。
それだけを頭に置いて、身体を横に向ける。
肩が岩へ触れる。
枝が頬をかすめた。
その瞬間。
眩しい光が差し込んだ。
思わず目を細める。
遺跡を出た。
大きく息を吸う。
森の匂いが肺いっぱいに広がる。
土と、葉と、樹皮と、どこかで潰れた木の実。ひとつずつ名前の分かる匂いだった。
鳥が一羽、頭の上で短く鳴き、別の一羽が遠くで応えた。風が梢を渡り、光が揺れる。
地の底の静けさが、ようやく身体から抜けていく。
「……戻ってこられた」
思わず漏れた。
どくろんも外へ出てくる。
周囲を見回し、しばらく停止した。
『現在位置』
数秒。
『不明』
テレサも周囲を見渡す。
大きな樫の木。
苔むした岩。
少し離れた場所に、小さな沢。
「あ」
見覚えがあった。
「ここ、知ってる」
自然と口に出る。
『認識』
「薬草を採りに何度か来た場所」
もう一度辺りを見る。
少し考えてから頷いた。
「村の北東だ」
正確な場所までは分からない。
けれど方向は間違えない。
森は、自分の庭だった。
『地形』
どくろんが崩れた斜面を見る。
『変化』
「うん」
テレサも同じ方向を見る。
見覚えのない崖ができている。
地震で崩れたのだろう。
以前とは景色が違う。
「……あの穴も、だいぶ変わってるかもしれない」
あそこにはトーマがいた。
あの揺れの中で、無事だっただろうか。
胸が少しだけ痛む。
けれど、今から戻る気にはなれなかった。
日が傾いている。
知らない崩落地へ夜に入るのは危険だ。
クロエは、無事なら先に家で待っているはずだ。
「先に村へ戻ろう」
そう決める。
どくろんは静かに頷いた。
『了承』
二人は森へ足を踏み入れた。
その瞬間だった。
身体の力が、ふっと抜ける。
歩きやすい場所が分かる。
枝が折れそうかどうか分かる。
踏めば音が鳴る落ち葉も見分けられる。
考えているわけではない。
身体が勝手に選んでいた。
『移動速度、上昇』
どくろんが言う。
『遺跡内比、一二七パーセント』
テレサは少し笑った。
「森だから」
『理由』
「慣れてる」
それだけだった。
狩りも。
採集も。
逃げるのも。
追うのも。
全部、この森で覚えた。
遺跡では足手まといだった身体が、森へ戻った瞬間に元へ戻る。
どくろんはしばらく黙って飛んでいた。
やがて小さく言う。
『生存能力、高』
テレサは首を振った。
「違う」
『?』
「普通だよ」
少なくとも、自分ではそう思っていた。
夕日が木々の間から差し込む。
帰る場所は、もう遠くない。




