第51話 選び直したもの
翌日の午後、取次の間から木を削る音が聞こえてきた。
テレサは箒と塵取りを持って、戸口で止まる。
腰の袋へ顔を寄せ、呼ぶまで声を出さないように言うと、どくろんの顎が閉じた。
窓の下には布が敷かれていた。
その上に、薄い木の屑が丸まって落ちている。
職人は手を止め、窓をゆっくり閉めた。
昨日は途中で枠に当たった下の端が、今はそのまま収まる。
「これで、どうでしょう」
グレーテがそばへ寄り、掛け金を外した。
開いて、閉める。
「ええ。結構です」
職人は道具を布で拭い、箱へ戻していく。
グレーテに伴われて出てきたので、テレサは箒を寄せて道を空けた。
「残った屑を掃いておきなさい」
「はい」
窓の下へしゃがみ、布からこぼれた細かい屑を集める。
大きなものは箒に押されて転がるのに、薄い一枚だけが、掃くたびにふわりと浮いた。
手で拾い、塵取りへ押し込む。
戻ってきたグレーテと卓を元の場所へ運び、椅子も戻した。
「窓を開けてごらんなさい」
テレサは掛け金へ手を伸ばす。
昨日と同じように構えて押すと、思ったより軽く動いた。
手を緩め、開け幅を戻す。
閉めるときにも、木の擦れる音はしなかった。
「もう、引っかかりません」
「では、そこも拭いておきましょう」
グレーテは卓の端を布で拭い、部屋を出た。
テレサが窓枠に残った粉を取っていると、入れ替わりにカタリーナが来る。
「終わったか」
「はい。もう閉まります」
カタリーナは窓を一度開け、また閉めた。
「いいな」
そのまま卓の脇の椅子を引く。
昨日、壁際へ寄せてあった椅子だ。
「茶を頼む」
テレサは布を畳み、台所へ向かった。
茶を持って戻ると、窓は少しだけ開いていた。
カタリーナの前へ器を置く。
外からの風が、上がる湯気をこちらへ傾けた。
「閉めますか」
「いや。このくらいでいい」
カタリーナは背を預け、茶を一口飲んだ。
テレサも窓を見る。
戻れと言ってきた兄の援助で、ここが直った。
カタリーナは、昨日と同じ椅子に座っている。
盆を持ち直すと、その向こうから声がした。
「そちらの布も、下げてくれ」
卓の端へ置いていた拭き布を取る。
窓のことは、それで済んだ。
――
窓が直ってから三日後、ルートガーが菓子の箱を持ってきた。
グレーテに茶を二つ頼まれ、テレサは取次の間へ向かう。
途中でどくろんに声を止めるように言い、戸を開けた。
カタリーナの前に、浅い木箱が置かれている。
向かいの椅子にはルートガーが座っていた。
「今度は、何だ」
「ロザリンデ様からでございます」
ルートガーが箱へ手を向ける。
「お選び直しになった品を、お持ちいたしました」
カタリーナは蓋へ手をかけた。
テレサは卓の空いたところへ盆を置き、茶器を持ち上げる。
蓋が開くと、茶の匂いに、別の甘い匂いが混じった。
小さな輪になった揚げ菓子が、箱に並んでいる。
表面には蜜が薄く絡み、丸い縁のところだけ濃く光っていた。
「ああ、これか」
カタリーナの声が少し伸びる。
箱の中を覗き込み、口元を緩めた。
「これにしたのか」
「はい。ロザリンデ様が」
テレサは二人の器へ茶を注いだ。
空の盆を手に取り、戸の脇へ下がる。
カタリーナは蓋を箱の横へ置き、ルートガーに目を戻した。
「母は、まだ兄とのことを気にしているのか」
「お二方の今のご関係を、よいとは思っておいででないご様子です」
カタリーナの口元から笑みが消えた。
箱の縁に置いていた手を離す。
「戻れという話なら、返事は同じだ」
「承知しております」
「母にも、そう伝えてくれ」
「かしこまりました」
ルートガーは頷き、茶の器を取った。
カタリーナは開いた箱へ目を落とす。
さっき覗き込んだときより、背が椅子へ戻っていた。
テレサは盆を抱え直す。
菓子は、最初に見たまま並んでいる。
「菓子の礼もだ」
カタリーナが顔を上げた。
「そちらも伝えてくれ」
「はい。確かに承りました」
ルートガーは茶を飲み、器を戻した。
置いた底が、卓に小さな音を立てる。
カタリーナは蓋を手前へ寄せたが、箱には戻さなかった。
ルートガーが席を立つ。
テレサは戸を開け、通れるように横へ寄った。
「失礼いたします」
一礼を受けてカタリーナが頷く。
テレサは廊下へ出たルートガーを見送り、部屋へ戻った。
主人は、また箱を覗いていた。
――
使い終わった茶器を下げ、小皿を持って戻ると、カタリーナが指で輪の大きさを作っていた。
箱の上で、親指と人差し指が離れる。
「昔は、もっと大きく見えたんだがな」
テレサは小皿を主人の前へ置いた。
「前にも、召し上がったんですか」
「小さいころから、これだ」
カタリーナは一つ取り、皿へ載せる。
底に溜まっていた蜜が、細く糸を引いた。
「前のとは、違いますね」
「あれも好きだが、これはこれでいい」
輪の端を持ち上げ、傾けて見る。
「この、蜜が厚いところがな」
その端から齧った。
テレサは空いた盆を両手で持ち、戸のそばに立つ。
噛む音は小さかった。
カタリーナの目が少し細くなる。
次の一口をすぐには食べず、皿の上に菓子を持ったまま、ゆっくり口を動かしていた。
窓の外で、枝が揺れる。
テレサがそちらへ目を向けているあいだに、カタリーナは菓子を皿へ置き、茶を飲んだ。
「指につくのも、変わらんな」
指先を見て、少し笑う。
テレサは盆に載せてきた布を差し出した。
「こちらを」
「ああ」
布を受け取り、蜜を拭う。
それから箱へ目を戻した。
「母は、こういうものはよく覚えている」
テレサは顔を上げる。
カタリーナはもう一度菓子を取り、さっき齧ったところを見ていた。
その声は、ルートガーに返事をしたときより柔らかい。
何か答えようとして、言葉を探す。
テレサが黙っていると、カタリーナはこちらを見た。
「蜜の匂いがするだろう」
「はい」
「甘いぞ」
テレサの目が、持ち上げられた菓子へ下りた。
カタリーナの口元が緩む。
「食べたそうな顔をするな」
「……してましたか」
「今もだ」
テレサは盆を少し下げた。
顔を隠すには、遅かった。
カタリーナは小さく笑い、箱の中を指した。
「一つ、持っていっていい」
テレサは箱を見て、それから主人を見る。
「ありがとうございます」
「仕事を片づけてからにしろよ」
「はい」
小皿をもう一枚取りに戻り、許された一つを載せた。
カタリーナは食べかけの輪を持ち直し、今度は薄く蜜のかかったほうを齧っている。
テレサの皿にも、片側に蜜の厚いところがあった。
そちらを奥へ向けて盆に載せ、箱の蓋は開けたまま部屋を出た。
――
仕事が片づいたあとに食べた菓子は、冷めていても蜜の匂いが強かった。
最後に残しておいた端を噛むと、甘さがもう一度、口に広がった。
その夜、クロエの水と餌を整え、犬舎の戸を閉めてから部屋へ戻った。
テレサは腰の袋を寝台へ置く。
「どくろん、もう話してええよ」
浮き上がったどくろんが、こちらへ向き直った。
着替えを済ませて腰を下ろし、櫛を手に取る。
「奥様、あれ、ほんまに好きなんやな」
『箱ヲ開ケテ、スグニ分カッタヨウデス』
「うん。声、違うかったやろ」
毛先を押さえ、櫛を入れる。
途中で引っかかったので、無理に引かず、少し戻した。
「お母さんも、よう覚えてはるなあ」
『品ハ、選ビ直シタソウデス』
「わざわざ、こっちにしたんやな」
櫛を持つ手が止まる。
箱を開けたときのカタリーナは、母の名を聞いても、嫌そうな顔はしなかった。
指で輪の大きさを作っていたときも、声はのんびりしていた。
「けど、お兄さんの話になると、ああなるんか」
どくろんは寝台の前で、少し顔を傾けた。
「お母さんも、お兄さんのほうなんかもな」
『ロザリンデ様ノ言葉ハ、直接聞イテイマセン』
「……そやな。会うたこともないし」
テレサは櫛を膝へ下ろした。
少し考えてみたが、思い浮かぶのは、箱を開けたカタリーナの顔ばかりだった。
「奥様、食べてるときは、ええ顔してたな」
『ますたーモ、召シ上ガルトキハ』
「うちの話は、してへん」
どくろんの顎が閉じる。
テレサはその顔を見て、唇の端を緩めた。
「……そんな似た顔してる?」
『笑顔ノ形状ハ、異ナリマス』
「形の話ちゃうわ」
膝に置いた櫛を取り直す。
さっき引っかかったところを、今度は毛先から少しずつ梳いた。
「お母さんも、ああいうの好きなんかな」
『味ノ好ミハ、未確認デス』
「そら、そうか」
髪から櫛が抜ける。
もう一度入れようとして、手を止めた。
「覚えてた好物が、まだ好物やったら、ちょっと嬉しいやろな」
どくろんは答えず、こちらを向いて浮いている。
「今日の顔、見せたらよかったのに」
テレサは櫛を置いた。
カタリーナが菓子を齧ったあと、しばらく口を閉じて味わっていたのを思い出す。
自分も、最後の一口はすぐに飲み込まなかった。
「蜜の厚いとこ、奥様は最初に食べてたやろ」
『ますたーハ、最後デシタ』
「うん。最後に残したいほうやねん」
テレサは寝台へ手をつき、足を上げる。
「でも、最初に食べるんも、ええかもな」
『比較ニハ、モウ一ツ必要デス』
テレサはどくろんを見た。
「……ええこと言うやん」
伸ばした指で、相棒の額を軽くつつく。
どくろんは少し後ろへ動き、また元のところへ戻ってきた。
テレサはそのまま、しばらく笑っていた。




