第49話 森で呼ぶ名
約束の朝、テレサは弓を持って、門の覆いの下に立っていた。
クロエは脚のそばに座り、門の隙間へ鼻を向けている。引き綱を握る手に、時々、小さな張りが伝わった。
「まだだよ」
鼻先はこちらへ戻ったが、耳は門を向いたままだった。
庭を渡ってくる足音に、テレサは振り返る。
カタリーナが大きな弓を手に歩いてきた。肩には袋をかけ、もう手袋も着けている。
「おはようございます」
「早いな」
テレサが口を開く前に、クロエが立った。
カタリーナはそちらへ目を落とし、口元を少し緩めた。
「行くぞ」
門が開く。テレサはクロエの横へ並び、どくろんも覆いの下から浮き出してきた。
朝の道には荷車が出始めていた。
狭くなるところではクロエを脚へ寄せ、車輪が過ぎるのを待つ。カタリーナも少し先で足を止めていたが、道が空くと、そのまま歩き出した。
家並みを抜けると、靴の下が土に変わる。
遠くの林の上で、鳥が一羽、弧を描いた。
「あの縁を回る。今日は奥へ入らない」
カタリーナの指すほうは、草地の向こうに低い木が続いていた。葉の表がこちらへ返り、また伏せる。
クロエが鼻を上げた。
「風が来ていますね」
「先を見せるか」
「はい」
林の手前で足を止め、テレサはクロエの首から綱の輪を抜いた。巻いて袋へ入れる間も、クロエは立ったまま、風の来るほうへ鼻を向けている。
「どくろん。呼ぶまで黙ってて」
『発声ヲ停止シマス』
肩の横に浮いたまま、どくろんの口が閉じた。
「クロ、行こう」
クロエが草の間へ入る。
テレサは弓を持ち直し、その後を歩いた。左後ろには、カタリーナの靴が草を踏む音がついてきていた。
――
靴の先が露の玉を落とす。
林の縁を歩いていたクロエが、低い藪の手前で首を上げた。
左へ鼻を振り、少し戻って、また同じ所へ向ける。
テレサが足を止めると、後ろの草を踏む音も止まった。
藪の奥で、枯れ草とは違う色が動いた。小さな赤い顔が出て、すぐに引っ込む。
雉だ。
テレサはしゃがみ、クロエへ掌を向けた。
クロエが腹を地面につける。その耳の向こうへ目を凝らすと、枝の下を長い尾がゆっくり横切った。
カタリーナへ顔を向け、鳥のいた場所を指す。
「奥様。あの藪の中です」
小さく伝えると、カタリーナがそばへ寄った。
示した枝の下へ目を向け、左の木へ視線を移す。
藪の向こうには、草の途切れた土の斜面が見えている。こちらからは細い枝が何本も重なっていたが、木の脇からなら、その手前の草地まで開いていた。
「あそこから射つ。クロエはここで待たせろ」
「はい」
カタリーナは幹の左へ回った。
テレサから斜め前に、その背中が見える。幹の脇で足を据えると、矢をつがえ、低いままの弓を藪へ向けた。
テレサはクロエの隣へ腰を落とし、枝の下を見続ける。
尾羽が見えなくなった。
草が擦れる。
雉の顔が、同じ隙間にもう一度出た。すぐに引っ込むが、今度は尾が見える。
クロエの鼻先が少し前へ出た。
テレサはその前へ手を低く置く。顎が草の上へ戻った。
カタリーナは木の脇で待っている。
矢を添えたまま、弦を引くほうの指だけが一度開き、また掛かり直した。
風が弱くなる。
葉の裏に隠れていた露が、一粒落ちた。
テレサの膝に、冷たい水が染みてくる。
雉の首が藪の向こうへ伸びた。
続いて胸が出る。鳥は足元をつつき、それから、草の薄いほうへ歩いた。
カタリーナの肩が沈む。
大きな弓が、深くしなった。
藪から尾が抜けたとき、弦が鳴った。
土の斜面の手前で、茶色い羽が開く。
クロエが頭を上げた。
「まだ」
テレサの手の向こうで、前脚が止まる。
羽が動かなくなってから、カタリーナが弓を下ろした。
木の脇を離れ、草地へ出る。鳥のそばに屈み、手を伸ばす前に少し待った。
「来ていい」
テレサは立ち上がり、クロエを呼んだ。
濡れた膝が、歩くたびにひやりとする。
カタリーナが雉を持ち上げると、長い尾羽が草から抜けた。
こちらへ顔を向け、にっと笑った。
テレサも、少しだけ口元を緩めた。
クロエが二人の間へ鼻を寄せてきたので、テレサはその肩を撫でた。
カタリーナは鳥を持ち直し、林の縁の明るい場所へ歩き出した。
――
カタリーナは弓を木に立てかけ、雉から矢を抜いた。
軸を拭い、傷がないか回して見る。それを矢筒へ戻してから、雉をテレサへ渡した。
テレサも弓を膝の脇へ置き、広げた布の上で雉の腹を開いた。
持ち帰る部分を整え、食用にしないものを別に包む。
ナイフを拭って鞘へ納め、弓に触れかけていた布の端を引き寄せた。
クロエは少し離れた木陰で伏せていた。どくろんはテレサの近くに浮き、まだ何も言わない。
鳥の長い尾を内へ寄せ、布の片側をかぶせる。
反対側を取ろうとすると、最初の端が滑った。
「奥様、そちらを押さえてもらえますか」
カタリーナが屈み、手袋を外した。
布の端へ指を置きながら、こちらを見る。
「リーナでいい」
テレサの手が止まった。
「猟の間だけだ」
布を押さえた指は、離れなかった。
テレサは顔を上げたまま、一度唇を閉じる。それから鳥へ目を戻し、折れかけた尾羽を指で逃がした。
「リーナ、もう少し、こっちを」
「ここか」
「はい。そのまま」
押さえる指が移る。
テレサは反対側をかぶせ、紐を回した。片手だけでは戻ってきた布が、今度は手の下で重なったままになっている。
結び終えてから、カタリーナが指を抜いた。
「いい」
テレサは包みの底を支え、袋へ収めた。
持ち上げると、肩に重さがかかる。弓の邪魔にならないところへ袋をずらしている間に、カタリーナは外した手袋をしまっていた。
「今日は、ここまで」
カタリーナが木の下へ顔を向けた。
「あそこで休む」
テレサは弓と獲物の袋を、カタリーナのそばへ置いた。
不要なものの包みを持ち、道から離れた林の中へ入る。クロエとどくろんも、後からついてきた。
太い落ち枝で柔らかい土を掘り、十分な深さになってから包みを埋めた。
土を戻して踏み固め、木陰へ戻る。
さっきの場所にあった二人の袋が、日陰に並んでいた。二人の弓も、そのすぐそばの木に立ててある。
テレサは空いたところへ腰を下ろした。
「どくろん、もう話していいよ」
どくろんが顔をこちらへ向ける。
「歩くと、お腹が空くね」
『ますたーハ、座ッテイテモ同ジデス』
「今日は、歩いたぶんもあるの」
テレサは水袋の水で手についた土を洗い、布で拭いた。
袋から小さな木の器を出して、水を注ぐ。
クロエが立ち、置いた器へ鼻を寄せる。舌が水を打つ音を聞きながら、テレサも自分の水を飲んだ。
隣では、カタリーナが木の根に腰を下ろしていた。
弓は手の届くところに立ててある。袋から布包みを取り出すと、焼いたパンの匂いがした。
テレサも、持ってきたパンを出した。
膝の濡れたところは、少し乾きかけている。
「冷えるか」
「もう、大丈夫です」
カタリーナは自分の隣の、日が差している地面を手で叩いた。
テレサはそちらへ少し移る。
草越しの光が膝に当たった。
パンをちぎり、口へ入れる。外側は固かったが、噛んでいると甘くなった。
カタリーナは先に半分を食べ終え、袋の中を探っていた。
取り出したのは、小さな包みだった。
開いた布に、干した果物が載っている。
「食うか」
「いただきます」
布がこちらへ寄った。
テレサは一つ取り、パンと一緒に噛んだ。酸っぱさのあとに甘みが広がり、もう一口、パンをちぎる。
カタリーナも果物を口へ放り込んでいた。
どくろんは、その上に浮いている。
テレサが見上げると、どくろんも顔を下へ向けた。
カタリーナが続いて顎を上げる。
「お前も、少し下りろ」
『疲労ハ、アリマセン』
「見上げるほうが疲れるの」
テレサが言うと、どくろんはゆっくり下りてきた。
ちょうど二人の顔の高さで止まる。
カタリーナが鼻から短く息を漏らし、残りのパンを食べた。
クロエは水を飲み終え、木の根の向こうへ体を横たえた。背に落ちた小さな葉が、呼吸に合わせて揺れている。
テレサは口の中のパンを飲み込み、もう一度、水を飲んだ。
すぐに立つ者はいなかった。
――
林を出る前に、テレサは引き綱を袋から取り出した。
「クロ、おいで」
寄ってきた首へ輪を通すと、クロエは道のほうを向いた。
帰りは、袋が脚に触れる。
カタリーナが道端の木に弓を立てかけた。
「少し貸せ」
テレサが紐から肩を抜くと、カタリーナが袋の底を支えた。
結び目を短くし、袋をこちらへ戻してくる。
肩に掛け直すと、歩いても膝へ当たらなくなった。
カタリーナも弓を取り、また並んで歩き出した。
行きに濡れた靴の先は、乾いて薄く白くなっていた。
家並みへ入ると荷車の音が増え、クロエも脚のそばへ戻った。
どくろんがその後ろを浮いてくる。
御殿の門をくぐると、朝に待っていた覆いが見えた。
テレサはカタリーナへ顔を向ける。
「奥様、グレーテさんに声をかけてきます」
「ああ」
カタリーナは頷き、屋敷のほうへ歩いていった。
テレサはクロエを連れ、どくろんと庭へ回った。




