第47話 隣を歩く
二本の木の右側から、テレサは藪の一頭へ弓を向けた。
クロエは幹の後ろで待っている。
風牙狼が体を低くすると、見えていた胸が枝の下へ隠れた。テレサは引きかけた弦を止め、相手が出てくるのを待つ。
だが、枝の間から現れたのは鼻先だけだった。
こちらを向いた口が開き、周りの葉が細かく震える。
「クロ、下がって」
テレサは弦を緩めて幹の裏へ引いた。クロエも一緒に下がると、直後に土混じりの風が木を叩いた。
幹の脇を抜けた風に袖を引かれる。
弓を胸へ寄せ、顔を伏せた。砂が指を擦り、髪へ落ちてくる。
枝の鳴る音が途切れても、テレサはすぐには顔を出さなかった。
クロエの耳が、道に近いほうへ動く。
テレサは腰を落とし、幹の根元から藪を覗いた。さっきまで鼻先があった場所には、揺れる葉しかない。
その左で草が倒れ、灰色の脚が見えた。
風牙狼は、枝に体を隠したまま道へ近づいている。このまま草の切れ目を抜ければ、カタリーナの後ろへ出る。
テレサが弓を向けると、魔獣は足を止めて顔だけを戻した。
肩にはまだ枝がかかっている。
テレサはその肩を追わず、進む先へ矢先を下げた。草の切れ目に太い根が出ていて、その向こうには斜面の土が盛り上がっている。
カタリーナのいる道へ、矢は抜けない。
灰色の前脚がまた出たところで、根を狙って射った。
矢が突き立つ音に、風牙狼が跳び退く。テレサは次の矢を抜きながら、幹の後ろへ戻った。
魔獣の顔は、今まで弓を出していた場所を向いていた。
テレサはその反対側へ手を下ろす。
「こっちへ」
クロエが頭を低くして、二本の木の後ろを左へ抜けた。テレサも弓を寝かせ、張り出した枝の下を通る。
どくろんが背中の横へついてきた。
左の幹の外側へ出ると、藪に隠れていた魔獣の横腹が見えた。
カタリーナの立つ道も、その左に離れて見える。先ほどの位置と違い、木の陰から大きく身を乗り出さなくても、両方へ目を向けられた。
クロエは膝の後ろで止まり、藪の一頭を見ている。
テレサは矢を番え直した。
風牙狼もこちらへ向き直る。横腹はまた枝に隠れたが、道へ進む足は止まっていた。
「右、止めてます」
「そのままでいい」
カタリーナの顔は、こちらへ向かなかった。
テレサは弓を藪へ向けたまま、道へ目を移す。
正面には、まだ二頭がいた。喉の白い一頭は左の草を歩き、根への矢で退かされた一頭は道に出ている。
カタリーナが、その道の一頭へ踏み込んだ。
倒れている仲間の体を挟んで、白い喉が反対側に残る。そちらが回り直す間にも、カタリーナは止まらず弦を引いていた。
道の風牙狼が口を開ける。
カタリーナは斜めに近づき、その口が追って向きを変えるより早く、弓を引き切った。
矢が飛んだ。
肩の付け根を射抜かれ、魔獣の体が横へ折れる。開いていた口から風が噴き出したが、倒れた向きへ流れ、道の脇の草を低く薙いだ。
カタリーナの足には届かない。
白い喉が、倒れた体の脇から出てきた。その先へ次の矢が向くと、一頭は近づくのをやめて後ろへ跳んだ。
カタリーナも足を止め、そちらへ弓を構える。
テレサの膝の脇で、クロエが足を踏み替えた。
その鼻先を追って、テレサは藪へ視線を戻す。
右の風牙狼も道を見ていた。枝から肩が離れかけている。
テレサが弓を上げると、こちらへ顔を戻し、踏み出していた脚を引っ込めた。
また、胸の前に枝が重なる。
テレサは射たずに弦を緩めた。
体を狙おうとすれば、相手はこちらを向いて隠れる。道へ抜けるのは止められても、射つ場所が空かない。
横へ来たクロエに、手を下ろす。
テレサが二本の幹の間を指すと、クロエは木の後ろを回って、隙間の奥で止まった。
テレサは左の幹の外側に残る。
そこからなら、クロエのいる隙間と違う方向から狙える。クロエは前へ出ずに、幹の後ろを通って戻ってこられる。
テレサは足をずらし、膝の横を空けた。
弓先を少し外へ出すと、灰色の目が追ってくる。魔獣はテレサを見たまま、枝の奥で身を低くした。
クロエは動かない。
胸も前脚も、まだ幹の後ろにある。
テレサは下ろしていた右手を、弦へ戻した。
「クロ、気を引いて」
クロエが一度吠えた。
風牙狼の顔が、テレサから幹の間へ向く。そのまま前脚を低い枝の向こうへ出し、隙間を覗くように首を伸ばした。
「戻って」
クロエは前へ出ず、後ろへ身を引いた。左の幹を回り、テレサの足元へ戻ってくる。
テレサは弓を引いた。
クロエの背が幹の陰へ消え、温かな体が踵に触れた。
魔獣の牙の間から、白い息が漏れる。
土混じりの風が、クロエのいた隙間を抜けた。テレサは左の幹の外側で、その風筋から離れたまま弓を引き切る。
風牙狼の肩が枝を押し出していた。
横から見える胸の前に、もう葉はない。
矢へ風の魔力を乗せ、鼻先がこちらへ戻る前に射った。
胸へ矢を受けた風牙狼が、前脚を突っ張る。枝を押したまま踏ん張っていたが、テレサが次の矢を番える間に肩が沈んだ。
押されていた枝が跳ね返り、灰色の体が斜面へ横倒しになる。
テレサは弓を下ろさなかった。
喉から漏れる低い音を聞きながら、まだ動く脚を見ている。
クロエが脇へ鼻を出した。
「クロ、待って」
鼻先が引っ込み、テレサの足元へ戻る。
地面を掻いていた後ろ脚が止まったところで、テレサは息を吐いた。
矢を向けたまま弦だけを少し緩め、道を確かめる。
残っているのは、喉の白い一頭だった。
カタリーナが一歩進むと、その一頭は後ろへ下がった。横の藪へ目を向けたが、そこにはテレサが弓を構えている。
テレサは道へ下りず、そのまま藪を押さえた。
風牙狼は左右を見比べ、倒れた仲間の脇を回っていく。
カタリーナの弓が、その動きを追った。
白い喉が木陰へ隠れると、向こうで体を返す音がした。枝の揺れが奥へ移り、クロエが一歩出かける。
「クロ、追わないで。戻って」
その足が止まった。
耳はまだ奥を向いていたが、クロエはテレサの横へ戻った。
カタリーナの視線が、戻った体をかすめる。
すぐにまた、木立へ向いた。
テレサは藪に倒れた一頭へ目を戻す。近くの葉は動いていなかったが、その奥までは見通せない。
「離れるぞ」
カタリーナが木立へ弓を向けたまま、声をかけた。
テレサも弓を構えたまま、幹の後ろへ下がる。
「クロ、戻って」
クロエがテレサの足元へ戻った。その体を横に置き、一緒に来た斜面を下がっていく。
どくろんも幹の陰を抜けてきた。
木に遮られて藪が見えなくなる手前で、テレサはカタリーナを見た。彼女の弓は、今までテレサが見張っていた斜面の奥へ向いている。
テレサは道へ下り、クロエを後ろへ通してから、木立へ向き直った。
「こちらで見張ります。戻ってください」
今度はテレサが見ている間に、カタリーナが近づいてくる。
二人が並んでから、少しずつ来た道へ足を引いた。
射った矢のそばへは寄らず、倒れた三つの体を後にする。
――
木立が薄くなるところまで、誰も話さなかった。
カタリーナが先で止まる。
テレサはその背に追いつき、クロエを横へ呼んだ。
道の脇には、草の低い空き地があった。
周りを見てから膝をつく。
クロエの口は開いていたが、足を庇う様子はない。
「少し、見てもいいですか」
カタリーナがクロエへ目を落とした。
「いい。周りは見ておく」
番えていた矢を外し、弓と一緒に膝の横へ置いた。
胸から腹へ手を滑らせ、毛に隠れた傷がないか確かめる。
クロエは手の動くほうへ鼻を寄せた。
「じっとしてて」
前脚を一つ持ち上げる。
指の間に入った乾いた葉を抜くと、クロエが足を引っ込めた。
もう片方を出してくるわけではない。
テレサは地面へ戻った足を避け、反対側へ回った。
「こっちも」
持ち上げて見てから、そっと下ろす。
水筒を開け、掌へ少しずつ水を受けた。
クロエの舌が指の間を舐める。
こぼれた分が、膝をついた土を濡らした。
テレサが手を差し出すたび、クロエの鼻がついてくる。
カタリーナは、森へ向いたまま立っていた。
風が止むと、葉の擦れる音も止まる。
遠くで鳥が一声鳴いた。
クロエが顔を上げる。
テレサは濡れた手を下ろし、背中を撫でた。
「よし。もういいよ」
クロエが体を揺すり、テレサの袖に水の粒が飛んだ。
目を細めて顔を避けると、カタリーナがこちらを見た。
「戻すのが早いな」
テレサはクロエの背から手を離した。
傍らの弓を手に取る。
「射る前に、戻します」
カタリーナは満足そうに笑った。
「呼び戻して、すぐ射てる。いい連携だ」
カタリーナの目が、クロエからテレサへ戻る。
庭の的ではなく、いま手に戻した弓を見られていた。
「クロエが先に見つけました」
「そうか」
テレサは頷いた。
水筒の栓を閉める指が、少しもたついた。
押し直して、腰へ戻す。
カタリーナは矢筒へ手をやり、残っている矢を確かめた。
「執事の差金か」
「はい」
「いつから」
「前の猟にも、ついていました」
カタリーナが眉を上げる。
テレサは弓を持つ手に力を入れかけ、緩めた。
「その後も、続けて頼まれています」
カタリーナは御殿のある方角へ目を向けた。
「余計なことを」
叱る言葉は続かなかった。
クロエがテレサの足へ体を寄せる。
その耳の先を、カタリーナの視線が通った。
「怪我は」
「ありません。クロエも、大丈夫です」
「なら、戻るぞ」
テレサは立ち上がり、膝の土を払った。
道の奥へ一度目を向ける。
使った矢は、まだあの場所に残っている。
「矢は後だ。人を連れて来ればいい」
「はい」
カタリーナが弓を下ろす。
テレサも足元の矢を取り、矢筒へ戻した。
クロエを手元へ呼び、来た道を確かめる。
「それと」
顔を上げると、カタリーナがこちらを見ていた。
「帰りは隠れなくていい」
テレサは少し口を開けたまま、彼女を見た。
それから、頷く。
「はい」
――
森の道を、カタリーナが先に歩いていく。
テレサもすぐ後ろへついた。
クロエはその横で、時々、草のほうへ鼻を向ける。
木立の奥を見るときには、テレサも歩みを緩めた。
そのたびに、前の足音も遅くなる。
やがて道が広がり、並んで歩けるところへ出た。
カタリーナが足を止め、枝に擦れた袖を払う。
テレサはどくろんを振り返った。
「もう喋っていいよ」
『同行者、一名増加』
カタリーナは袖を払う手を止めた。どくろんを見て、ふっと笑う。
「増えたのは、そっちだろう」
テレサは笑いかけて、口元へ手をやった。
どくろんがカタリーナへ向き、それからテレサの肩の横へ戻ってくる。
クロエが二人の間へ鼻を差し入れた。
カタリーナは少し足を開け、通してやる。
テレサは弓を外側の手へ持ち替えた。
隣へ出ると、カタリーナもまた歩き出した。




