第46話 右は任せた
犬舎の水の器を戻すと、門のほうから靴音がした。
「今朝も、徒歩でお出かけになります」
ヨーゼフが庭へ入ってくる。
テレサは戸を閉め、引き綱を持ち直した。
エマと食事に出た日から、三日が過ぎていた。
食事の翌日、ヨーゼフとは、カタリーナが猟に出る日は気づかれないよう、離れて護衛を続けると取り決めている。
出かける日を知らせてもらい、その間の仕事はグレーテへ伝えてもらう。
「グレーテには、伝えてございます」
「はい。支度はできています」
弓と矢筒は背中にある。
腰のナイフと水筒を確かめると、クロエが門へ鼻を向けた。
綱は引かず、こちらが動くのを待っている。
テレサはその横へしゃがみ、耳の後ろを一度掻いた。
「まだ。先に出てもらってから」
クロエの耳が、指の下で動く。
肩の横に浮いていたどくろんへ顔を上げた。
「どくろん、呼ぶまで喋らないでね」
『了解』
立ち上がったとき、用口のほうにカタリーナの姿が見えた。
狩装束に弓と矢筒。
ヨーゼフへ短く声をかけ、そのまま門へ向かっていく。
テレサは犬舎の陰で待った。
門の外へ姿が消え、庭に誰もいなくなっても、すぐには出ない。
クロエが足元へ腰を下ろした頃、ヨーゼフが戻ってきた。
「では、お願いいたします」
テレサは頷き、クロエと門へ向かった。
――
市中を抜けたところで、引き綱の輪を外した。
畳んで腰へ差す間に、クロエの鼻先が道の端へ下がる。
テレサは弓を手に取り、その後を歩いた。
木立へ入ると、遠くに見えていたカタリーナの姿はすぐに隠れた。
踏まれた草の上をクロエが辿っていく。
途中で道を外れ、根の張った斜面へ鼻を向けた。
テレサも木の根を避けながら、斜面を登る。
どくろんが低い枝の下を抜けてきた。
斜面を上がるほど、道からの音が遠くなる。
クロエが足を止めた。
鼻が地面から離れ、耳が前を向く。
テレサも立ち止まった。
低い唸りが、木立の向こうから届いた。
続いて、硬いものが幹を叩く音がする。
鳥が枝から飛び立った。
「クロ、行こう」
歩幅を広げて斜面を上がる。
枝の詰まったところでは身をかがめ、抜けてからまた走った。
クロエは少し先へ出ては、こちらを振り返る。
その背を追って曲がると、崩れた土が足元にあった。
テレサは木の根に手をかけ、横から回った。
向こうで、また唸り声がした。
まだカタリーナの姿は見えない。
息を吐き、弓が枝にかからないよう体へ寄せる。
斜面の上端まで出たところで、クロエを手で止めた。
木々の間に細い道が通っていた。
カタリーナが、その道の上に立っている。
――
灰色の背が三つ見えた。
どれもクロエより大きい。
道は斜面の下を通り、木立の奥へ伸びている。カタリーナはその道の上で、奥にいる三頭へ弓を向けていた。
テレサからは、右斜め後ろの姿が見える。
一頭は道を塞ぎ、残る二頭はその左右に離れていた。左にいる一頭だけ、喉の毛が白い。
カタリーナのすぐ後ろには、太い木が立っている。
喉の白い一頭が、道の脇を回り始めた。
弓先がそちらを追うと、反対側の一頭も木陰から出てくる。カタリーナはその両方へ体を向けるのではなく、背後の木へ寄った。
幹の左へ回ると、右から近づく一頭が木に遮られる。
左の一頭は、カタリーナが近づいたぶんだけ後ろへ退いた。
空いた道へ、弓先が戻る。
道を塞いでいた一頭が口を開けた。牙の間から白い息のようなものが漏れ、鼻先の枯葉が浮き上がる。
カタリーナが道の脇へ跳んだ。
葉と土が一塊になって、その横を抜ける。さっきまで彼女の背後にあった幹が鳴り、樹皮と細枝が飛び散った。
風牙狼だった。
口から風の魔法を放ち、土や枯葉ごと相手へ叩きつける。
枝の落ちる音が止む前に、カタリーナは道へ踏み戻していた。
弓を向けられた風牙狼が、口を閉じて横へ跳ねる。そこへ、喉の白い一頭が左から走り込んだ。
テレサは矢筒から矢を一本抜き、弓へ番えた。
白い喉を狙おうとしたところへ、カタリーナの肩が重なる。
弓先を下げ、指は弦に掛けたまま待った。
カタリーナも弓を白い喉へ戻していた。狙いを向けられた一頭は前脚を突っ張って止まり、その後ろで、幹に隠れていたもう一頭が動く。
右から、木を回ってくる。
カタリーナは木の前を横切りながら、そちらへ弓を向けた。魔獣の体はまだ幹に隠れていたが、前脚だけが根の上へ伸びている。
弦が鳴った。
矢が前脚のすぐ先の根へ突き立つと、風牙狼は頭を上げて跳び退いた。
その空いた土へ、カタリーナが踏み込む。
次の矢を抜きながら幹の脇を抜け、道の中央へ出た。退いた一頭がまた近づこうとしたときには、もう矢先がその胸へ向いている。
魔獣の足が止まった。
テレサは弓を持ち直した。
カタリーナが動くたび、狙いたい相手との間へ肩や腕が入る。この斜め後ろからでは射てない。
クロエへ手を下ろし、斜面に沿って先を指した。
「クロ、こっちから」
道へは下りず、木々の間を横へ移る。
クロエが低い枝をくぐり、向こうで足を止めた。テレサも弓を寝かせて後を抜けると、カタリーナの右側が少し開けて見えた。
どくろんも枝の下を通り、肩の横へ戻ってきた。
カタリーナの正面には、初めに風を吐いた一頭がいる。根へ矢を射たれた一頭は右に退き、喉の白い一頭は左の草を歩いていた。
カタリーナが弦を引き始める。
太い腕に筋が浮き、大きな弓が深くしなった。
正面の風牙狼は腹を低くしていたが、すぐには跳ばなかった。首を振り、前脚をじりじりと動かす。
その動きを追っても、カタリーナの矢先は揺れない。
左の草が鳴った。
喉の白い一頭が近づいてくる。カタリーナは正面を狙ったまま、後ろの木へ斜めに足を運んだ。
白い喉と彼女の間へ、太い幹が入る。
回り直そうとする魔獣より先に、カタリーナは次の足を止めていた。弦を引いた肘も、矢を支える手も、下がっていない。
テレサは息を止めた。
自分なら弓を緩めて足を置き直す。あの大きな弓を、引いたまま動いている。
正面の風牙狼が牙を剥いた。
口の前で枯葉が巻き上がる。
カタリーナは弓を引いたまま、幹から離れるほうへ体をずらした。その背を追うように突風が抜け、木へ叩きつけられる。
樹皮の飛ぶ音に重なって、魔獣が地面を蹴った。
風を避けた先へ、灰色の体が跳んでくる。
カタリーナは逃げる足を継がなかった。
踏み出した足で体を支え、腰を戻す。引き絞っていた弓が、正面から迫る胸へ向いた。
矢が飛ぶ。
着地する前の胸へ突き立ち、風牙狼の前脚が折れた。肩から落ちた体が土を滑り、張り出した根の手前で止まる。
カタリーナはその体へ歩み寄らず、次の矢を取った。
左の幹から出かけた白い喉が引っ込む。右に残った一頭も、弓を向けられると足を広げて踏みとどまった。
カタリーナの肩が、吐く息とともにわずかに下がる。
弓先は、二頭のいるほうを向いたままだった。
テレサも息を吐き、弦から手を離した。
下ろした手へ、クロエの鼻が触れた。
顔を下げると、クロエは道を見ていなかった。耳も鼻先も、さらに右の藪へ向いている。
テレサはそちらへ目を移した。
斜面に沿った藪の奥で、葉が一か所だけ揺れる。続いて手前の枝が持ち上がり、その下を灰色の腹が通った。
四頭目だった。
道の二頭から離れ、藪に隠れて斜面を下ってくる。その先には、カタリーナの後ろへ抜ける草の切れ目があった。
テレサが手を下ろすと、クロエは前へ出かけた足を止めた。
「クロ、こっち」
背を一度撫で、周りを見る。
すぐ後ろに、二本の木が並んでいた。幹と幹の間はクロエが通れるくらいで、その後ろには今歩いてきた斜面が続いている。
テレサはクロエと木の後ろへ移った。
「ここで待って」
クロエを幹の陰に残し、自分は右の幹の外側から藪を覗く。
四頭目の肩には、まだ葉が重なっていた。
その向こうは土の斜面だ。カタリーナのいる道は左に離れ、ここから射つ矢と重ならない。
風牙狼が頭を上げた。
テレサが踏んだ枝の音へ耳を向け、草の切れ目へ伸ばしていた前脚を止める。
テレサは幹から弓を出した。
相手の顔が、道からこちらへ向き直る。
「奥様。右、受け持ちます」
カタリーナが顔を向けた。
眉が少し上がる。その目がテレサの弓から、藪の一頭へ移った。
「右は任せた」
カタリーナは正面へ向き直った。




