第44話 出番のない護衛
低い枝を抜けると、背中に触れていた葉が離れた。
テレサは身を起こし、クロエの後を歩く。
道は木の根を避けるように曲がり、その先でまた細くなっていた。
クロエの鼻先は下がったままだ。
折れた枝をまたいで進むと、今度はテレサの足元にも通れる土が見えた。
そこへ靴を置く。
どくろんは肩より低いところに浮き、同じ曲がり角を回ってきた。
木立の間に、弓を背負った人影が見える。
カタリーナだった。
テレサは足を緩めた。
前へ行こうとしたクロエも、こちらを振り返って止まる。
木の間を横切る姿は遠い。
幹に隠れ、次の隙間へ出るまで、テレサはその場で待った。
やがて人影が奥へ抜ける。
クロエへ手を下ろすと、鼻先がまた草に向いた。
テレサも歩き出す。
踏まれた草が残っているところでも、クロエは匂いを嗅ぎながら進んだ。
先ほど見えた場所まで来た頃には、カタリーナの姿はなくなっていた。
テレサは木立の向こうへ目をやり、それから来た道を振り返る。
枝の低い木が、少し下に見えた。
クロエは幹の脇を回り、草の薄いほうへ出ていく。
「ゆっくりでいいよ」
耳が一度こちらへ向いた。
その後は、クロエも急がなかった。
日の当たるところを渡り、また木陰へ入る。
草の匂いに、乾いた土の匂いが混じった。
テレサは袖口を引き上げかけ、枝の込み合った先を見て、そのままにする。
前のほうで、カタリーナの姿が低くなった。
離れた木の根元に腰を下ろしたらしい。
テレサもクロエを止める。
しばらく待っても、人影はそこにいた。
木の幹のそばへしゃがむと、クロエが隣に座った。
背中の弓が当たらないよう、幹から体を離す。
腰を下ろしかけたところに根があり、少し横へずれた。
「ここ、硬いね」
クロエは前を向いている。
テレサは足を伸ばし、踵の置き場を変えた。
どくろんが膝の高さまで下りてくる。
こちらへ向いた顔に指を一本立てると、何も言わずに隣へ寄った。
水筒を外し、栓を抜く。
一口飲んでいる間も、木の根元にいる遠い姿は動かなかった。
栓を戻すと、クロエの鼻が手に近づく。
「クロも飲む?」
掌の上に、小さく水を集めた。
差し出すと、クロエが舌を伸ばす。
水が減るたびに少し足してやり、鼻先が離れたところでやめた。
濡れた指を振ると、靴の先に滴が落ちる。
クロエは口の周りを舐め、また前へ向いた。
テレサはその横に座っていた。
葉が重なって、向こうの姿を隠す。
風が通ると、同じ木の根元がまた見えた。
膝へ肘を乗せ、頬を掌に預ける。
しばらくして、遠い人影が立ち上がった。
カタリーナが背中の弓を下ろしている。
テレサは頬から手を離した。
木立の切れ目から、斜め後ろの背中が見える。
その向こうでは下草が途切れ、奥に土の斜面が出ていた。
草の縁で、茶色いものが動く。
長い耳が上がった。
野兎だ。
クロエの耳が前へ揃う。
テレサは首の横へ手を添えた。
クロエは座ったまま、鼻先だけを上げた。
野兎が草の縁で頭を上げても、カタリーナは動かなかった。
また頭が下がる。
テレサも手を置いたまま待った。
やがて野兎が草から跳び出し、土の見えるところで止まる。
カタリーナの弓が上がった。
弓先は、テレサたちのいる木陰とは反対を向いている。
野兎が横を向いたところで、矢を放った。
小さな体が地面に倒れた。
テレサはクロエの首に触れたまま、草の縁を見る。
野兎は起き上がらなかった。
カタリーナが弓を下ろし、自分で獲物のところへ歩いていく。
テレサは座ったまま見送った。
向こうで膝をつくと、カタリーナの手元は草に隠れた。
どくろんが少し浮き上がり、またテレサの肩より下へ戻る。
クロエも鼻先を下げた。
テレサは手を膝へ戻し、木陰で待った。
――
次に見えたカタリーナは、弓を背負っていた。
片手に野兎を提げ、来たほうへ歩いている。
テレサは腰を上げる。
クロエも立ったが、まだ先へは出さなかった。
人影が幹の間を抜けるのを待ち、水筒の紐を直す。
「行こう」
クロエが鼻を下げた。
行きに通った曲がり道へ戻り、テレサもその後を辿る。
低い枝のところでは、クロエが先にくぐって待っていた。
テレサは腰をかがめ、枝の下を抜ける。
立ち上がると、靴の中で指を一度伸ばした。
前を歩くクロエの尾が、ゆっくり揺れている。
行きには上った道を下りた。
土が広く見えるところまで出ると、遠くにカタリーナの姿が戻る。
木立を抜け、そのまま森の外へ歩いていった。
テレサは木陰に留まり、腰に差していた綱を取った。
「クロ、こっち」
寄ってきた頭へ輪を通す。
綱がねじれているところを指で直す間、クロエは顔を上げていた。
手を離すと、鼻先がまた地面へ向く。
テレサは森の外を見た。
カタリーナは、もう道の先にいる。
その姿を確かめてから、日向へ出た。
靴の下が落ち葉から固い道へ変わる。
歩く音が戻ってきた。
クロエは道の端を進み、どくろんも肩の横へ上がってくる。
しばらく歩くと家並みが増え、洗濯物の向こうで人の声がした。
開いた戸から、何かを焼く匂いが流れてくる。
テレサはそちらへ顔を向けかけ、前へ戻した。
クロエは戸口を通り過ぎ、角の先へ鼻を向けていた。
テレサは綱を緩め、その後を歩いた。
人のいる道では、クロエを少し自分の側へ寄せた。
すれ違える隙間を選んで歩くうちに、カタリーナの姿はまた見えなくなる。
テレサは足を速めなかった。
クロエの進むほうへ曲がり、通りの先を見ておく。
道幅が広くなると、前を歩く背中が見えた。
同じほうへ進んでいる。
テレサはクロエの歩みに戻った。
水筒を取って立ち止まると、クロエも綱の届くところで待った。
前の姿は遠ざかる。
一口飲んで栓を戻し、また鼻を下げたクロエに続く。
見覚えのある塀が現れた頃、カタリーナが門を入っていくのが見えた。
門扉の向こうへ姿が消える。
テレサはそこで、綱を持つ手を少し下げた。
「クロ、もういいよ」
軽く綱を引いて横へ寄せると、クロエは地面から顔を上げた。
テレサの脚の隣を歩く。
門までの残りは、一緒に帰るだけだった。
――
門を押すと、板屋根の下にヨーゼフがいた。
作業台で開いていた帳面から、顔が上がる。
「お帰りなさいませ」
「戻りました」
テレサはクロエを連れて中へ入り、門を閉めた。
どくろんも肩の横からついてくる。
覆いの手前で足を止めると、クロエが隣に座った。
「奥様は、先ほどお戻りになりました」
「はい。入られるところを見ました」
ヨーゼフは帳面へ手を置いたまま、こちらを見ている。
「道中は、いかがでしたか」
「何もありませんでした」
庭を風が通った。
クロエの耳が用口へ向き、すぐ前へ戻る。
「左様でございますか」
ヨーゼフは浅くうなずいた。
「ご報告、ありがとうございます」
テレサも頭を下げる。
背中の弓が少し傾いたので、身を起こして肩へ戻した。
「着替えたら、グレーテさんのところへ行きます」
「先に、クロエの世話をなさってください」
ヨーゼフの目が、足元へ移った。
「お食事は」
「まだです」
「そちらも、お済ませになってからで」
テレサは用口を見た。
戸の内側で器が触れ合い、すぐに音が止む。
「分かりました」
クロエが立ち上がった。
綱を引くほど先へは行かず、こちらが歩くのを待っている。
テレサはヨーゼフへ会釈し、犬舎のほうへ向かった。
振り返ると、ヨーゼフは帳面を閉じて脇に抱えていた。
いつもの足取りで、用口へ歩いていく。
テレサは前へ向き直った。
庭の木を回ると、クロエの足が少し速くなる。
犬舎へ続く道に鼻を向け、今度はこちらを見上げた。
「うん。帰ろう」
テレサも歩調を合わせた。
――
犬舎の前で輪を外すと、クロエは水の器へ向かった。
テレサは戸を開けて器を取り、外で水を替える。
犬舎の前へ置こうとすると、鼻先がすぐそばに来ていた。
「待って。今置くから」
手を引くと、クロエが飲み始める。
テレサは綱を畳み、戸の内側へ掛けた。
弓と矢筒を下ろして壁際へ置き、その横にしゃがむ。
どくろんも同じ高さへ下りてきた。
「どくろん、もう喋っていいよ」
『了解』
久しぶりの声に、クロエの片耳が動いた。
けれど顔は上げず、そのまま水を飲んでいる。
テレサはどくろんへ手を伸ばし、頬のあたりに付いていた土を親指で払った。
「お疲れさま」
『私ハ、歩イテイマセン』
「一緒に来てくれたでしょ」
『仕様デス』
テレサは手を引き、どくろんの顔を見た。
「じゃあ、私が言うのも仕様」
『ソノ仕様ハ、変更デキマスカ』
「できません」
どくろんは口を開きかけ、閉じた。
テレサは口元を少し緩め、クロエへ向き直る。
水を飲み終えた鼻先から、滴が落ちていた。
クロエは犬舎へ入らず、テレサの脚の間へ頭を寄せてくる。
「先に、足を見せて」
胸の下へ手を添え、片方の前足を持ち上げた。
指の間に土が固まっている。
爪を引っ張らないように外すと、小さな塊が地面へ落ちた。
足を戻し、反対側も取ろうとする。
クロエの頭が腕の上に乗った。
「そっちじゃなくて」
顎の下を撫でてから、腕を抜く。
持ち上げた足は乾いていて、間に挟まっているものもなかった。
後ろ足まで見終えると、クロエはその場に伏せた。
テレサは背に掌を置き、座り直す。
弓のない背中を、犬舎の壁へ預けた。
肩を上げ、下ろす。
クロエの腹がゆっくり動いている。
撫でていた手を止めても、鼻先は地面についたままだった。
テレサはしばらく、そこに座っていた。
どくろんが水の器の上へ寄ると、青い目が水面にも映った。
テレサは指先でこちらを示す。
どくろんが戻り、水の上には空だけが残った。
「お昼を食べたら、仕事に戻るからね」
クロエの耳が動く。
「今度は、お留守番」
頭を撫でて立ち上がると、クロエも腰を上げた。
膝と袖の土を払い、水の器を犬舎へ戻す。
それから中を指すと、クロエは寝藁を踏んで入り、体を下ろした。
テレサは戸を閉める。
隙間から伸びてきた鼻先に、指の背を触れさせた。
「また後で」
弓と矢筒を拾い、どくろんと母屋へ向かう。
居室へ戻ると、水筒を置いて紐を外した。
ナイフを腰から外し、弓と一緒にしまう。
矢筒の口に並ぶ矢羽を、指の腹で軽く整えた。
今日は一本も抜かなかった。
矢筒を置き、お仕着せに着替える。
白い襟を指で起こし、折れ込んだところを直した。
どくろんは戸のそばで浮いている。
「行こう」
戸を開けると、食べ物の匂いがした。
テレサは腹に片手を当て、廊下へ出た。




