第40話 甘いものと返事
二日後の昼下がり、用口に浅い木箱が届いた。
抱えていたルートガーは、受け台の手前で足を止める。
「奥様へ、お菓子をお持ちしました」
テレサは拭き布を置いた。
台所から出てきたグレーテが箱を見て、手にしていた器を受け台へ載せる。
「取次へお通しして。わたしは奥様をお呼びします」
ルートガーは箱を抱え直し、テレサのあとについてきた。
廊下で行き合ったヨーゼフも、取次の間へ入る。
卓へ下ろされた箱には、布が十文字に掛けてあった。
布の結び目が、蓋の真ん中で平たく寝ている。
「ロザリンデ様から、カタリーナ様へお預かりしたものでございます」
「確かに頂戴いたします」
ヨーゼフが箱の横へ立つ。
ほどなく、グレーテに続いてカタリーナが入ってきた。
卓を見るなり、足を止める。
「母からか」
「はい。お届けに上がりました」
カタリーナは結び目へ指を掛けた。
引いた布がほどけ、箱の両脇へ落ちる。
蓋を上げると、焼けた生地の匂いがした。
薄い菓子が重ねて並んでいる。
間に挟まった果物の煮詰めたものが、切り口に濃い色を見せていた。
テレサは戸の脇から、その断面を見ていた。
「受け取った。母に礼を伝えてくれ」
「承知いたしました」
ルートガーは一礼し、ヨーゼフに伴われて部屋を出た。
カタリーナは蓋を片手に、二人を見送る。
廊下の足音が遠ざかると、箱の中へ目を戻した。
「……いつまで子供扱いする気だ」
蓋を卓へ置く。
「グレーテ。皿を」
「はい、奥様」
グレーテがこちらを見る。
テレサはうなずき、台所へ向かった。
皿と取り分け用のへらを載せた盆を持って戻ると、カタリーナは卓の脇に腰を下ろしていた。
テレサは盆を下ろし、皿とへらを主人の前へ置く。
カタリーナが箱の中を指した。
「二つでいい」
へらで一つを取り、皿へ移す。
二つ目は下の菓子との間にへらを差し入れ、離してから持ち上げる。
薄い生地のかけらが、箱の中へ落ちた。へらを卓へ置く。
「残りは、皆にも分けてくれ」
グレーテが箱へ蓋を戻そうとした。
「ああ、待て。明日の分も二つ」
蓋が止まった。
「二つを残して、ほかは皆に。よろしゅうございますか」
「それでいい」
カタリーナは皿の一つを取った。
歯を当てると、小さく乾いた音がする。
テレサは盆の縁を持ったまま、その音を聞いていた。
「茶も頼む」
「お持ちします」
グレーテが蓋を戻し、箱を盆の上へ載せた。
テレサは背中の袋を肘で寄せた。
盆を持ち上げると、蓋をした箱からも甘い匂いがする。
グレーテについて、廊下へ出た。
――
台所の作業台へ盆を下ろした。マルセルが箱を盆から台へ移すのを待ち、テレサは空いた盆を脇へ寄せる。
マルセルは箱の蓋を開け、手を拭いた。
「今日は、俺が焼かんでもよかったな」
「奥様のお母様からです」
テレサが答えると、グレーテは小皿を作業台へ置く。
「明日のお茶に二つ。あとは皆で頂きます」
「なら、先にそっちを分けるか」
テレサは手を洗い、マルセルの隣へ戻った。
マルセルが、重なった菓子の間へ薄い刃を差し入れる。
持ち上げずに横へ滑らせると、一つだけが離れる。
端から垂れた煮詰めた果物が、下の生地へくっついていたらしい。
「引っ張ると割れる。こっちからだ」
刃の先が入る隙間を見せてから、小皿へ移す。
刃を作業台へ置き、柄をこちらへ向けた。
テレサはそれを取り、次の一つを外した。
生地を刃で受けて皿へ下ろすと、指に少し甘いものがついた。
刃を台へ戻した。指を上げかけ、布で拭く。
マルセルは何も言わず、二つを載せた小皿を作業台の奥へ寄せた。
「こいつは乾かさんようにしておく」
マルセルは残りの菓子を大皿へ移し始めた。
隣では、グレーテがテレサの置いた盆へ茶の壺と器を載せている。
テレサは空になった箱へ包み布を畳んで収め、蓋を重ねる。
「それは棚へ。お茶はわたしが」
グレーテは盆を持ち、廊下へ出ていった。
テレサは木箱を棚へ置き、作業台へ戻った。マルセルが大皿から一つを小皿へ移し、差し出す。
「嬢ちゃんの分だ。先に食え」
「器は?」
テレサは用口のほうへ顔を向けた。
「逃げん。菓子を持って歩くなよ」
袋を背中へ寄せ直し、手を洗った。布で水気を取ってから、小皿を受け取る。
作業台の手前へ小皿を置き、菓子を取った。
菓子は指で挟んだだけでも崩れそうに薄い。
両手で持ち、少しだけかじった。
軽く割れた生地のあとから、ねっとりした甘さが来る。
噛むほどに果物の酸味が混じり、口の中に残った細かい生地まで甘くなった。
テレサは持ったままの菓子を見下ろす。
いま噛んだところだけ、角がなくなっている。
「どうだ」
答える前に、もう少し噛んだ。
マルセルは大皿から自分の分を取り、口に入れた。作業台へ片手をつき、ゆっくり噛む。
しばらく二人とも黙っていた。
やがて、台所の戸口から声がした。
「まだあるか」
カタリーナが、空いた皿を手に立っていた。その後ろには、茶の盆を持ったグレーテがいる。
「残した二つでございますね」
「いや。今日の分だ」
マルセルが、皆の分を載せた大皿と主人を見比べる。
カタリーナは台所へ入り、マルセルの脇から大皿を見た。
「取り消しはしない。皆で食べろ」
テレサは食べかけを自分の小皿へ戻した。主人から空の皿を受け取り、大皿の脇へ置く。
カタリーナの指が、明日の分へ向く。
「そっちから一つ」
「明日が一つになりますが」
グレーテの声に、指が止まった。
主人は残してある二つを見てから、自分の空いた皿を見る。
「……一つでいい」
マルセルは奥の小皿から一つを取り、カタリーナの皿へ移した。
カタリーナがそれを手に取る。
グレーテは作業台へ盆を下ろし、茶の器を主人の皿のそばへ置いた。
「お茶もこちらへ」
「ああ。そこに」
カタリーナは菓子をかじり、茶には手を伸ばさなかった。
テレサも小皿から食べかけを取り上げ、少しだけ口へ運ぶ。
さっきより厚く入った果物が、舌に触れた。
飲み込んでからも甘さが残っている。
カタリーナが茶の器へ目を落とした。
「茶は、あとでいいな」
「はい」
口から先に返事が出た。
カタリーナがこちらを見る。
テレサは菓子を皿へ戻し、背筋を伸ばした。
「まだ、味が残っているので」
「ああ、そうだなあ」
カタリーナは作業台の脇に立ったまま、もう一口かじった。
テレサも肩の力を抜き、小皿の菓子を取り上げる。
指でつまめるほどの、最後の一かけになっていた。
口へ近づけてから、少し戻す。
カタリーナがそれを見た。
「食べないのか」
「これで、終わるので」
主人の手にも、半分ほどが残っていた。
そこへ目をやり、テレサは自分の小皿へ視線を戻した。
「そっちはやらんぞ」
「……見ただけです」
カタリーナは残りを口へ入れた。
テレサも、自分の一かけを食べた。
カタリーナが茶に手を伸ばす。
マルセルは残った一つを布で覆った。グレーテも茶の盆を置いたまま、用口の器を取りに戻る。
――
カタリーナが茶を飲み終えて出ていったあと、グレーテは次の器を台所へ運んできた。
テレサは下げた器に自分の小皿も重ね、洗い始めた。
「マルセルさん」
呼ぶと、作業台の向こうから顔が上がった。
「おいしかった」
「それは、俺が聞く返事か?」
「あ。味を聞かれたままだったから」
マルセルの頬が緩んだ。
背中の袋から、声がした。
『回答マデニ、食事ガ終了シマシタ』
「口に入ってたから」
『次ノ一口モ、入ッテイマシタ』
テレサは手の水気を拭き、袋へ回した。
布越しに額を押すと、それきり声が止まる。
小皿をすすぎ、水切りの場所へ立てる。
作業台の奥には、菓子が一つだけ覆われている。
マルセルはその上へ布を整え、テレサの手元へ次の器を渡した。




