第36話 そのまま伝える
マルセルの包丁が、玉ねぎへ斜めに入った。
切れた一片が板へ倒れる。
「今日は、これくらいだ。ばらしておいてくれ」
テレサは昨日より厚い切り口を見た。
包丁を受け取り、隣へ刃を下ろす。
切ったものを指でほぐすと、重なっていた白い層が離れた。
「そうだ。そっちの器へ」
マルセルが器を寄せ、そのまま鍋へ戻っていく。
テレサは残りを切り始めた。
皮を剥いて、切って、ばらす。
板の上が狭くなる前に、器へ移した。
最後の一片を入れると、マルセルが鍋の前から手を伸ばす。
その手へ器を渡した。
「もういい?」
「ああ。グレーテが待ってるぞ」
テレサは皮を片づけ、包丁を置いた。
手を洗って用口へ出ると、受け台に布を被せた壺が並んでいた。
グレーテは一つを持ち上げ、底を拭いている。
「終わりました」
「では、こちらを」
受け台の端に、まだ口の開いた壺がある。
テレサは渡された布を広げた。
口へ被せ、紐を回して結ぶ。
布の端を引いてもずれないのを確かめると、グレーテの手が底へ添えられた。
二人で並んだ壺の隣へ置く。
台の下には運び箱があった。
テレサが持ち手へ手を掛けると、グレーテが首を振った。
「今日は手押し車にしましょう」
用口の奥にも、空になった壺が残っている。
台所から、器を重ねる音がした。
「全部、納屋へ戻すんですか」
「ええ。戻してから、台所の器を受けます」
グレーテは拭き終えた布を畳み、空いたところへ置いた。
「ヨーゼフに聞いてきてください。門の手押し車を、空容器を戻すのに使いたいと」
テレサは運び箱から手を離す。
「取次でまだ使うなら、こちらはあとでかまいません」
「ヨーゼフさんも、車を使っているんですか」
「朝は取次で使っていました。今も使っているか、確かめてください」
グレーテは次の壺へ向き直った。
「その間に、残りを揃えておきます」
「ヨーゼフは取次の間にいます」
テレサは通り道に出ていた運び箱を、受け台の下へ戻した。
持ち手を外へ向けてから、廊下へ出る。
背中側へ回していた袋を脇へ寄せると、口から青い光が覗いた。
『呼ビ出シナラ、ココカラ可能デス』
「呼ばなくていい。私が行く」
『声量ノ増加デ、移動ヲ省略デキマス』
「向こうの人が来ることになるよ」
袋の中で光が揺れた。
テレサは紐を短く持ち直し、歩き出す。
廊下には、台所ほど匂いがない。
ついさっきまで聞こえていた器の音も、離れるにつれて小さくなった。
両手に何も持たず、ここを歩くのは落ち着かなかった。
前掛けの端をつまみかけ、指を開く。
門の手押し車を、空容器を戻すのに使う。
まだ使っているなら、あとでいい。
取次の間の戸は開いていた。
ヨーゼフは帳面を開き、何かを書き込んでいる。
テレサが入口で止まると、顔が上がった。
「少々、お待ちいただけますか」
「はい」
テレサは戸の脇へ寄った。
ヨーゼフの筆が動き出す。
帳面の中は、こちらからは見えなかった。
庭から差す明かりが、廊下の床に伸びている。
手を洗ったあとに拭き残した水が、指の股で冷たかった。
テレサは前掛けへ押し当て、静かに離した。
奥で紙が一枚めくられる。
足を出しかけて、止めた。
ヨーゼフはめくった先へ目を落とし、前の頁へ戻していた。
テレサは戸の脇へ体を戻した。
袋の口から光が上がる。
そこへ指を添えると、どくろんは声を出さずに沈んだ。
やがて筆が止まり、帳面が閉じられた。
ヨーゼフがテレサへ向き直る。
「お待たせいたしました。ご用件は」
「グレーテさんからです」
テレサは前掛けから手を離した。
「門の手押し車を、空容器を納屋へ戻すのに使いたいそうです」
ヨーゼフはうなずいた。
テレサは続ける。
「取次でまだお使いなら、あとでかまわないと」
「手押し車でございますね」
ヨーゼフの目が、門のほうへ向いた。
「こちらでは、もう使っておりません」
テレサもそちらを見る。
廊下からは、覆いの下までは見えなかった。
「ただ、大判の布を載せたままでございます」
「布も、納屋へ?」
「そちらは覆いの下の収納台へお願いいたします。移していただければ、すぐにお使いになれます」
テレサはうなずいた。
「終わりましたら、手押し車は元の場所へ」
「グレーテさんに伝えます」
頭を下げると、袋の紐が肩を滑った。
手で押さえてから顔を上げる。
ヨーゼフは帳面を抱え直し、戸のほうへ体を向けていた。
テレサは先に廊下へ出た。
来た道を戻る。
台所から出てきたマルセルと、用口の手前で行き合った。
「嬢ちゃん。グレーテは、まだそっちか」
「うん。空容器を戻すところ」
「なら、器はあとにする」
重ねた皿を抱え直し、マルセルは台所へ戻っていった。
テレサは脇へ寄せていた体を戻し、用口へ向かう。
受け台には、口を覆った壺が増えていた。
グレーテは最後の一つを持っている。
それが台へ下りるのを待って、声を掛けた。
「使っていいそうです」
「そうですか」
「載っている大判の布は、覆いの下の収納台へ。車は、終わったら元の場所へ戻すようにと」
グレーテは手を拭き、布を台へ置いた。
「では、先に布を片づけましょう」
テレサはあとについて門へ向かった。
手押し車は、覆いの下にあった。
荷台いっぱいに畳まれた布が載っている。
傍らの収納台には、置けるだけの空きがあった。
テレサが布へ両手を差し込むと、向かい側でグレーテも端を持った。
「こちらへ寄せます。持ち上げなさい」
布が荷台を離れた。
抱えた端がほどけ、下へ垂れる。
テレサは肘で受けて持ち直した。
収納台へ載せると、向こう側の端が先に揃えられる。
「その角を、内側へ」
テレサは垂れたところを折り、掌で押さえた。
グレーテの手が離れるまで押さえ、それから自分も手を引く。
布は広がらず、台へ収まった。
車止めを外し、空になった車の取っ手を握る。
グレーテが脇へ寄った。
「用口へ」
持ち上げて引くと、車輪が軽く回った。
用口へ着くと、荷受けの戸が開けられた。
テレサは車を寄せ、受け台の壺をグレーテへ渡す。
底を受けた手が、荷台へゆっくり下りた。
「次を」
もう一つ持ち上げた。
並んだ壺の間へ、グレーテが畳んだ布を挟む。
さっきまで受け台を占めていたものが、車へ移っていった。
テレサは空いた台を拭こうとして、グレーテに呼ばれた。
「先に、こちらを済ませます」
布を置き、車の取っ手へ戻る。
持ち上げた腕へ、さっきとは違う重さがかかった。
動かし始めると、壺が小さく揺れる。
テレサは歩幅を狭めた。
土間の端を越えたところで、グレーテの手が荷台から離れる。
そのまま車の横を歩いてきた。
納屋の戸が近づくと、テレサは先に足を緩めた。
取っ手を下ろし、グレーテが戸を開けるのを待つ。
返却棚へは、壺を一つずつ渡した。
奥へ置く腕が戻ってきて、次の底を受ける。
最後の壺が棚へ収まった。
テレサは空の荷台を見た。
来るときには両腕へかかっていた重さが、持ち上げると急に軽い。
用口へ向けかけた車を、門のほうへ回した。
グレーテも並んで歩く。
覆いの下へ戻すと、車輪の前へ車止めを入れた。
取っ手から手を離しても、車は動かなかった。
「戻りました」
「ええ。では、台所へ」
用口には、もうマルセルが顔を出していた。
手に重ねた器を持っている。
「空いたか」
「はい。こちらへ」
グレーテが受け台を示した。
テレサは置いてあった布を取り、台の表を拭く。
乾いたところへ、マルセルの器が下りた。
「助かった。嬢ちゃん、そっちを頼む」
テレサは出しかけた手を返した。
車の取っ手から移った汚れが、指の付け根に残っている。
「手を洗ってくる」
「頼む」
マルセルは器を台へ置いた。
水を掛け、指の間を擦る。
今度は布でよく拭いてから、台へ戻った。
マルセルは鍋の前にいて、グレーテが器を分けている。
テレサの前へ、浅鉢が置かれた。
「こちらから」
両手で持ち上げる。
洗ったばかりの指に、台所から来た器の温かさが伝わった。




