第35話 頼まれること
用口へ戻ると、受け台に浅鉢が重ねてあった。
昨日拭いた棚の隣が、まだ残っている。
テレサは前掛けを取り、どくろんの袋を背中側へ回した。
濡らした布を絞ると、指の間から水が落ちる。
「今日は、そこまででいいです」
グレーテの指が棚の端を示した。
「台所で、マルセルが呼んでいます」
テレサは浅鉢を脇へ移した。
空いたところを拭き、乾いた布で水気を取る。
鉢を戻して見てもらってから、台所へ入った。
マルセルは鍋を混ぜていた。
煮えている匂いに、顔へ当たる空気まで温かい。
「嬢ちゃん。玉ねぎを頼む」
作業台に、小さな山ができていた。
横には包丁とまな板がある。
「皮を剥けばいい?」
「剥いて、切ってくれ。汁に入れる」
テレサは袖口を確かめ、手を洗い直した。
玉ねぎを一つ取る。
乾いた皮を剥くと、指の腹へ薄い膜が残った。
根元を落として半分にし、切り口を板へ伏せる。
包丁を握り直したところで、マルセルが鍋から顔を向けた。
「どう切るつもりだ」
「このくらい」
刃を玉ねぎの上へ置き、切る幅を示す。
家で汁を作るなら、いつもこのくらいだった。
「今日は、もう少し薄くだ」
マルセルは手を拭いて隣へ来た。
テレサが包丁を渡すと、指を添えた玉ねぎへ刃が入る。
切れた一片を、平らな刃に載せて見せた。
「厚いと、ほかが煮えてもこいつが残る」
鍋の中で、煮汁が小さく跳ねた。
テレサは一片を指で受け取る。
自分の家では、玉ねぎが煮えるまで待っていた。
こちらの鍋は、もう火にかかっている。
「これに揃える」
「頼む」
返された包丁を握り、残りへ刃を下ろす。
最初の一片を横へ置き、ときどき厚みを見比べた。
包丁が板を叩く音に、鍋を混ぜる音が重なる。
丸いところが小さくなると、押さえた指を引いた。
残った端を寝かせ直し、刃を入れる。
切り終えた玉ねぎを器へ移すと、マルセルが覗いた。
「それでいい。残りも頼む」
テレサは次の玉ねぎを取った。
今度はマルセルの手が、鍋から離れない。
皮を剥く音が耳元で乾いて鳴る。
台所へグレーテが入り、作業台の端へ皿を置いた。
テレサの手元を見て、マルセルへ目を向ける。
「こちらを先に済ませますか」
「ああ。切ってもらえると助かる」
「では、終わったら用口へ」
テレサはうなずいた。
グレーテは受け台へ戻り、向こうで包み布を広げる。
見えるところにいるが、玉ねぎの切り方はマルセルへ聞けばよかった。
残りを切り進めるうちに、目の奥がつんとした。
瞬きをすると、かえって涙が出る。
包丁を置いて顔を横へ向けた。
「染みるか」
「……うん」
「その手で擦るなよ」
テレサは上げかけた手を下ろした。
指先が玉ねぎの匂いになっている。
前掛けへ顔を寄せかけ、そこにも皮がついているのを見てやめた。
『涙ノ流出ヲ確認』
「見なくていい」
鍋の前で、マルセルの肩が揺れた。
テレサは腕の内側へ目元を押し当て、息をつく。
もう一度瞬きをすると、まな板の端がはっきり見えた。
「代わるか」
「切れる」
包丁を取り直した。
マルセルがこちらの手を見てから、鍋へ戻る。
玉ねぎを押さえ直す。
早く終えようと厚く切りかけ、横に残しておいた一片へ目を戻した。
刃を少しずらす。
最後の端まで切り、器を持ち上げた。
「これ、鍋へ入れる?」
「待て。こっちで合わせる」
テレサは鍋の手前で足を止めた。
マルセルが柄杓を置き、片手を出す。
器を渡すと、切った玉ねぎを見てから、鍋へ入れた。
湯気がふわりと膨らむ。
テレサは顔を引いた。
空になった器が返ってくる。
「次は?」
「まず板を空けてくれ」
まな板の端には、乾いた皮が積もっていた。
テレサは皮を集め、包丁を脇へ置く。
板を拭くと、その空いたところへマルセルの手が伸びた。
別の食材が載る。
テレサは自分の器を引き、肘が当たらないよう隣を空けた。
「もう、使うんだね」
「台は一つだ。空けば使う」
マルセルの包丁が動き始める。
テレサがさっき置いた一片より、さらに薄く切れていった。
刃の先を見ていると、鍋の匂いが変わった。
鼻を向けたところで、マルセルが柄杓を取る。
少しだけ小皿へ移し、テレサの前へ置いた。
「見てるだけじゃ味は分からん。冷まして飲め」
小皿を持つと、底が熱かった。
縁を両手で支え、息を吹く。
口をつけた汁には、玉ねぎの甘さがあった。
「さっきの、もう柔らかい」
「揃ってりゃ、一緒に煮える」
テレサは小皿の底を見た。
切ったものが鍋へ消えて、味になって戻ってきた。
「おいしい」
「そりゃ、俺の鍋だからな」
マルセルは柄杓を鍋へ戻す。
テレサも小皿を置いた。
もう少し飲みたかったが、今は仕事の途中だった。
器を片づけて用口へ出ると、グレーテが大判の布を広げていた。
「目が赤いですよ」
「玉ねぎです」
「手は洗いましたか」
テレサは指を鼻へ寄せる。
グレーテの手が水のほうを示した。
台所から、包丁の音が続いていた。
夕方、大判の布を収納台へ載せ終えると、グレーテがテレサの側の端を押さえた。
「そこを、もう少し中へ」
はみ出した角を持ち上げて寄せる。
朝から何度も使った指が、厚い布へ沈んだ。
グレーテは手を離した。
「今日は、ここまでです」
テレサは両腕を下ろす。
空になった手が軽かった。
「クロエのところへ行ってきます」
「道具を戻してから」
足元に、布を運ぶ前に使った箒が残っていた。
テレサは持ち上げ、塵取りと一緒に戻した。
前掛けも外し、手を洗ってから犬舎へ向かう。
戸が開くより先に、隙間へ黒い鼻が寄った。
「クロ、お待たせ」
クロエは外へ出ると、テレサの手首を嗅いだ。
水の匂いがする指へ、鼻先が何度も触れる。
手を開いて見せると、今度は前脚が靴の横へ出た。
「今日は、もう終わり」
テレサが歩き出すと、クロエも並んだ。
庭の隅の木まで行き、根を避けて腰を下ろす。
膝を曲げたところへ、クロエが鼻を差し入れた。
耳の付け根を掻くと、首が手のほうへ傾く。
朝は、途中で手を離した。
今は片方を掻き終えてから、もう片方へ回る。
クロエの顎が膝へ載った。
どくろんの袋を腿の横へ寄せると、青い光が口から覗く。
「そこ、クロの顔に当たるよ」
どくろんは袋の中へ少し沈んだ。
鼻先が布を嗅いでから、テレサの膝へ戻る。
庭を抜ける風に、頬へかかった髪が動いた。
朝、梳いてもらったところが、もう跳ねている。
払おうと手を上げると、クロエの顎も一緒に上がった。
「まだ掻くの?」
テレサは手を耳へ戻した。
クロエの目が細くなる。
しばらくして、門のほうで車輪が鳴った。
クロエの耳が起きる。
顎が膝から離れ、前脚が揃った。
テレサも門を見る。
通りを行く荷車の音は、塀の向こうへ遠ざかっていく。
クロエはテレサの顔を見たあと、腰を上げた。
けれど、テレサは座ったままでいた。
「クロ。今日は、ここにいよう」
胸の前へ手を添える。
クロエは少し先まで歩いて鼻を下げ、それから木の根元へ戻ってきた。
今度は膝に顎を載せず、靴の横で伏せる。
背中を撫でると、呼吸に合わせて掌が持ち上がった。
用口のほうでは、人の足音が続いている。
テレサは戸の動く音に顔を上げ、またクロエへ目を戻した。
さっきまでなら、次に何をするか聞いていた。
伏せた肩へ指を入れ、抜けかけた毛をつまみ取る。
「どくろん。毛、そっちへ飛んでない?」
『付着ハ、ますたーノ服ニ集中シテイマス』
腿を見ると、短い毛が何本もついていた。
払った手をクロエの背へ戻す。
「あとで取る」
クロエが横腹を地面へ預けた。
テレサも木の幹へ背をつける。
水と餌の支度を始めたのは、庭の影が足元まで伸びてからだった。
クロエが食べ終わるのを待ち、口元を拭く。
犬舎へ戻る前に、庭をもう一度歩いた。
戸のところでクロエが振り向く。
「クロ、おやすみ。また朝ね」
耳の後ろを撫でてから、戸を閉めた。
服についた毛を払い落とす。
一本だけ残ったのをつまむと、肩の袋から光が差した。
テレサは袋を覗く。
「分かってる。今、取ってる」
青い光は、そのまま引っ込んだ。
――
翌朝、クロエの世話と朝食を終えて用口へ行くと、マルセルが顔を出した。
「嬢ちゃん。今日も玉ねぎ、頼めるか」
テレサは前掛けの紐を結びかけた手を止める。
「昨日と同じ?」
「今日は炒める。切る前に呼んでくれ」
用口の台で、グレーテが包み布を畳んでいた。
テレサはそちらへ顔を向ける。
「台所からでいいですか」
「ええ。終わったら、こちらへ」
マルセルが鍋のほうへ戻っていく。
テレサは紐を結び終え、手を洗った。
作業台には、昨日と同じまな板がある。
玉ねぎを一つ取り、皮を剥く。
包丁へ手を伸ばす前に、鍋の前の背中を見た。
「マルセルさん。どう切る?」
「今、行く」
テレサは隣へ寄り、まな板の前を空けた。




