第34話 奥様へのご挨拶
昼の食器を下げ終えると、用口へヨーゼフが来た。
「テレサさん。エマ様がお見えでございます」
テレサは手にした拭き布を止める。
「エマが?」
「門でお待ちです」
テレサはグレーテへ顔を向ける。
グレーテが受け台の端を示した。
「そこを拭いてから。戻ったら続きをします」
テレサは器の底が残した水を拭き取り、布を広げて掛けた。
前掛けを外し、用口を出る。
御殿へ移った日から、五日が過ぎていた。
門の脇に、見慣れた姿がある。
エマは両手で鞄を持ち、門の内側を覗かずに待っていた。
「エマ」
エマがこちらへ顔を向けた。
「テレサちゃん、こんにちは。お勤めの邪魔をしてごめんなさい」
「今、少しならいいって」
ヨーゼフが覆いの下へ二人を通してから、建物へ戻っていった。
テレサは柱の脇へ寄る。
ここで採用の返事を聞いた朝には、エマに何と伝えるかも決まっていなかった。
エマが鞄から片手を離す。
「宿で、伝言を聞いたよ。ここで働くことになったんだね」
「うん。まだ、見習いだけど」
「おめでとう」
テレサは服の脇へ指を当てた。
さっきまで前掛けがあったところを、掌で軽く押さえる。
「ありがとう」
エマはすぐには次を聞かなかった。
テレサも顔を上げたまま、その間を待つ。
通りを荷車が過ぎ、車輪の音が遠ざかった。
「もう、ここで寝てる。荷物も全部持ってきた」
「うん。宿はもう引き払ったって聞いたよ」
「クロエも、犬舎にいるよ」
庭の奥へ目を向ける。
「今は仕事だから。夕方に、また行く」
「そっか。お部屋では一緒じゃないんだね」
「朝、起きたら会いに行ってる」
最初の朝、寝台の下へ伸ばした手には何も触れなかった。
今は靴を履いてから、戸へ向かう。
「行くと、いつも顔を舐めようとする」
顎へ指をやる。
エマが笑った。
「会えてうれしいんだね」
「手、拭いたあとでも来るから」
エマも庭へ目を向けた。
「また、会えるときに挨拶するね」
鞄を持ち直す指が、途中で止まる。
「テレサちゃんは、ちゃんと食べられてる?」
「うん。ご飯、おいしい」
そこだけは、考えずに答えられた。
「ふふ。それなら大丈夫そう」
エマの肩が少し下がった。
「でも、食べ終わると、すぐ次の食事の支度がある」
テレサは作業台へ視線を落とす。
「さっきまで使ってた器を片づけて、次の器を出して。まだお腹いっぱいなのに」
「食べるほうは、待ってくれないものね」
「うん。自分の家だと、遅くなっても自分だけだった」
用口から、器の触れ合う音がした。
エマの目が建物へ移る。
「戻ったほうがいい?」
「まだ、少し」
エマの鞄へ目が行った。
「エマは? 今日はもう、役所の用事は終わった?」
「今日は、ね。出すものを出してきたところ」
エマは鞄の口を押さえた。
「次にどうなるかは、まだ分からないの」
「そっか」
何か言いかけ、鞄からエマの顔へ目を戻した。
「今日は、ちゃんと休める?」
エマが瞬きをする。
「うん。このあと用事は入れてないよ」
「よかった」
柱の影が、エマの靴の先へかかっていた。
テレサは通りのほうへ並び直す。
ここから外へ出れば、エマと一緒に歩ける。
けれど、用口にはまだ拭いていない台があった。
「休みが分かったら、言うね」
エマがこちらを見る。
「また、一緒にご飯を食べようか」
「うん。外で食べたい」
「お店、考えておくね」
テレサはうなずき、すぐに口を開いた。
「甘いものもあるところ」
『選定条件、追加』
肩の袋から声がした。
テレサは袋へ手を添える。
「大事なところだから」
エマは口元へ手を当てたまま、もう一度うなずいた。
「覚えておきます」
門の外へ出るところで、エマが振り返る。
「無理して休みを合わせなくていいからね」
「分かったら、先に知らせる」
テレサは門の内側に立ち、手を上げた。
エマの姿が通りへ紛れるまで見送り、用口へ戻る。
――
テレサは掛けておいた前掛けを取る。
グレーテはさっきの拭き布を示した。
「棚の手前から。器は、こちらへ寄せて」
テレサは紐を結び、浅鉢を受け台へ移す。
濡れた布が届くよう、棚の端を空けた。
「明朝、奥様へご挨拶をします」
布を持つ手が止まる。
グレーテは棚の奥を見たままだ。
「朝の支度が済んだら、部屋で待ちなさい。身なりを見ます」
「……はい」
棚板へ布を当て直した。
角に残っていた水を拭き、浅鉢を戻す場所を乾かす。
明日は、まだ顔を知らない奥様へ会う。
テレサは器へ手を伸ばす前に、掌が濡れていないか確かめた。
庭で弓を引いてから、三日後の朝だった。
クロエの世話を終えたテレサは、手を洗って部屋へ戻った。
寝台には、グレーテから渡されたお仕着せを広げてある。
濃い色の長袖に、白い襟。
袖へ腕を通すと、いつもの服より手首のところが落ち着かない。
指で布を引き下げ、逆の袖も確かめた。
どくろんの袋を肩へ掛けようとしたところで、戸が鳴る。
「入ります」
グレーテは櫛と小さな鏡を持っていた。
テレサの襟を見てから、袋へ目を向ける。
「それは、あとで。後ろを向きなさい」
袋を寝台へ置き、戸に背を向けた。
グレーテは襟の後ろへ指を入れ、折れ込んでいた布を引き出した。
続いて、髪に櫛が通った。
途中で引っかかり、テレサの顎が少し上がる。
グレーテはその束を指で押さえ、毛先から梳き直した。
「動かないで」
「はい」
自分で梳くときには、通らないところを残してしまう。
細く分けられた髪が、今度は櫛の歯を抜けた。
頬へかかった毛先を払おうとして、テレサは手を止める。
「そこは、そのまま」
グレーテが鏡を差し出した。
両手で受け取る。
白い襟の上に、自分の顔が収まっていた。
いつも横へ膨らんでいる髪が、今日は頬に沿っている。
目の下のクマは消えていない。
顎を上げてみても、同じ顔が上を向くだけだった。
「何か付いていますか」
「いえ。いつもと違うので」
「襟は触らない。さっき直しました」
上がりかけた指を鏡へ戻した。
寝台の上から青い光が覗いている。
『同一人物ト確認シテイマス』
「それは分かってる」
鏡を返した。
グレーテは足元まで目を通した。
「歩いてごらんなさい」
戸まで歩き、戻ってくる。
裾が脚へ触れるが、靴にはかからなかった。
「これなら、大丈夫です」
「では、行きます」
テレサはどくろんの袋を掛けた。
髪へ紐を引っかけないよう、肩の上で一度持ち上げる。
「どくろん。挨拶が済むまで静かにしてて」
青い光が袋の内側へ沈んだ。
グレーテのあとを追い、廊下へ出る。
取次の間の前には、ヨーゼフが待っていた。
「お支度はよろしいでしょうか」
テレサはうなずいた。
名乗って、挨拶をする。
それだけの言葉を、戸の前でもう一度確かめる。
ヨーゼフが戸を叩いた。
「奥様。テレサをお連れいたしました」
「入れ」
短い声に、テレサは顔を上げかけた。
戸が開き、先に入ったヨーゼフが脇へ寄る。
グレーテも中へ入り、戸の脇に立った。
テレサは敷居を越えて頭を下げた。
「こちらが、カタリーナ・アデーレ・ブレンダール様でございます」
顔を上げると、卓の向こうに女の人がいた。
袖は下ろされている。
けれど、卓の縁に置かれた手にも、こちらを見る顔にも覚えがあった。
庭で矢を受け取った手。
名前を告げたときの口元。
(……リーナ?)
続けるはずだった挨拶が、喉で止まった。
「先日より見習いとして勤めております、テレサでございます」
ヨーゼフの声だけが先へ進む。
「もう会っている。な、テレサ」
女主人は椅子に座ったまま、こちらを見ていた。
「……はい」
声が小さくなり、テレサはもう一度息を吸う。
カタリーナ。
リーナ。
同じ顔の前で、二つの名が繋がった。
ヨーゼフが女主人へ目を向けた。
「どちらでお会いになったのですか」
「庭でな」
テレサはまた頭を下げた。
「知らずに、失礼しました」
的を借りていいかと聞いた。
矢を抜いて渡し、よく刺さっていたとまで言った。
最後は、ではまた。
顔が熱くなる。
あのとき、弓を触らせてほしいと頼まなくてよかった。
「顔を上げろ」
床から目を離した。
「あの引き方は、誰に習った」
「……弓ですか」
「ほかに何を引いた」
ヨーゼフのほうを見かけ、テレサは女主人へ向き直る。
「育ててくれた、村の猟師です」
白い襟が喉へ触れている。
続きを待たれ、指を服の脇で揃えた。
「ハルトじいに、教わりました」
「今も村にいるのか」
「九つのときに、亡くなりました」
女主人の手が卓から離れた。
何も言わず、テレサの指先を見ている。
「その後も、引いてきたんだな」
「食べるものが、要るので」
言ってから、口を閉じた。
用意していた挨拶の中には、こんな話はなかった。
女主人はテレサの手から目を上げる。
「止めたあと、慌てて放さなかった」
袋へ一度、視線が落ちた。
「それは続けろ」
「はい」
テレサは肩の紐へ触れかけ、そのまま手を下ろした。
あの一矢の話をされている。
「奥様。ご挨拶が、まだでございます」
ヨーゼフの声に、テレサは背筋を伸ばす。
女主人の口元が少し上がった。
「そうだったな」
テレサは両手を揃える。
「テレサです。よろしくお願いします」
頭を上げると、女主人がうなずく。
「それでいい」
グレーテが戸のほうへ手を向け、先に歩き出した。
テレサは一礼してから、そのあとに続く。
敷居をまたぐとき、裾が気になって足を止めかけた。
靴にはかかっていない。
歩いたはずなのに、朝の部屋と同じようには動けなかった。
テレサは廊下へ出て、戸を閉める。
袋を両手で押さえた。
「戻ったら、昨日の続きをします」
グレーテは足を止めずに言った。
テレサもあとを追う。
角を曲がる前に、閉じた戸を振り返った。
次に庭で会ったら、奥様と呼ぶ。
「どくろん。もう、話していいよ」
袋の口から青い光が見えた。
『情報ヲ更新シマシタ。庭ノ射手ハ、奥様デス』
「……うん。遅かったね」
襟へ伸ばしかけた手を下ろし、グレーテに追いついた。




