第33話 庭の射手
目を開けたテレサは、寝台の下へ手を伸ばした。
指先に毛が触れない。
床まで手を下ろしてから、昨夜クロエを寝かせた場所を思い出す。
毛布を退け、靴を履いた。
どくろんの袋を肩へ掛ける間にも、足が戸のほうへ向く。
『朝ノ挨拶ハ、省略サレマシタ』
「おはよう。行くよ」
袋を抱え直して廊下へ出た。
用口の戸を開くと、冷たい空気が頬を撫でる。
庭の石はまだ湿っていた。
犬舎へ近づく前から、中で藁を踏む音がする。
「クロ、おはよう」
戸を開けた途端、黒い鼻先が手へ押しつけられた。
テレサがしゃがむと、クロエは胸元まで顔を寄せる。
尾が戸の縁を何度も叩いた。
「うん。来たよ」
首を抱くように両手を回す。
肩へ載りかけた前脚を下ろしても、クロエは離れなかった。
鼻が顎に触れ、テレサは顔を横へ逃がす。
「そこはいいから」
笑いながら耳の後ろを掻いた。
毛の間に引っかかっていた藁を一本抜く。
クロエが少し体を離すまで、テレサはしゃがんだままでいた。
水と餌を用意してから、庭を一緒に歩いた。
クロエは先へ出ては振り向く。
呼ばなくても戻ってくる鼻先へ、テレサは掌を向けた。
昨日より、何度も手が濡れた。
用口から食器の音が聞こえ始める。
犬舎へ戻ると、クロエは戸の前でテレサの手をもう一度嗅いだ。
「クロ。ここで待ってて」
クロエが藁の上に伏せた。
テレサは戸を閉める。
指先を戸から離し、テレサは朝食へ向かった。
――
朝食のあと、グレーテは受け台の下から運び箱を出した。
浅い木の枠へ、布で口を覆った壺を二つ収める。
「納屋の返却棚へ戻します」
テレサは持ち手に指を掛けた。
底が台から離れ、二つの壺がかすかに触れ合う。
すぐ箱を下ろした。
「間に、布を入れてもいいですか」
「傷んだほうを一枚。包み布に戻さないように」
昨日分けた布から一枚を取り、壺の間へ挟む。
今度は持ち上げても音がしなかった。
箱を抱え、グレーテのあとを追って納屋へ向かった。
開けてもらった戸から中へ入ると、棚には同じ形の壺が並んでいた。
テレサは手近な空きへ置きかける。
グレーテの手が棚の奥を示した。
「こちらからです」
奥へ入れると、並んだ壺の口が揃う。
もう一つを持ち上げ、テレサは隣へ収めた。
「空いたところなら、どこでもいいかと思いました」
「手前だけ空ければ、次も置けます」
グレーテは棚へ手を伸ばす。
手前に物がなければ、奥の壺にもそのまま届いた。
家では、自分が取れればよかった。
テレサは空になった箱を持ち直す。
挟んだ布も取り残さず、底へ置いた。
「戻ったら、次は何を運びますか」
「まず箱を戻しなさい」
テレサはグレーテが通るのを待ってから、箱を抱えて外へ出た。
用口へ戻り、昨日布を渡すときに教わった向きへ持ち手を揃える。
グレーテはその箱を受け台の下へ押し入れた。
「もう一組、同じ棚へ。今度はあなたが先に」
テレサは次の壺へ手を伸ばした。
まだ後ろから足音がついてくる。
今度は棚の前で迷わず、奥から順に壺を収めた。
――
その日の午後、用口を通ったヨーゼフに呼び止められた。
「奥様はお留守ですので、ご挨拶の日は改めてお知らせいたします」
テレサは拭き布を畳んで置く。
まだ主人の顔を一度も見ていない。
「呼ばれるまでは、いつもの仕事でいいですか」
「はい。グレーテに従っていただければ」
ヨーゼフが去ると、テレサは拭き布を開き直した。
受け台の端に残っていた水を拭う。
その翌日も、紹介の呼び出しはなかった。
布を運んでいると、廊下の先から話し声が聞こえた。
「奥様は気難しいからね」
もう一人の返事は、戸が閉まる音に隠れた。
テレサは足を緩めたが、その先の言葉は聞こえなかった。
布を置く場所まで行き、手前の端を揃える。
挨拶をしたら、すぐ下がったほうがいいのだろうか。
部屋へ戻った夜、壁際の弓を手に取った。
握りの擦れたところへ親指が収まる。
今日は何度も置き直した手が、ここでは迷わなかった。
「明日の朝、少し見ておこうかな」
『破損ヲ確認シマシタカ』
「してない。だから見るの」
どくろんの袋の隣へ、手入れ用の布を置いた。
弓を持ち出してよいかは、夕方グレーテに聞いてある。
庭での手入れなら、朝食に遅れないように、と言われた。
矢筒も荷から取り出す。
羽根が寝ていないか指で確かめ、弓の脇へ揃えた。
今夜もクロエは犬舎にいる。
空いた床へ目をやってから、テレサは毛布を広げた。
御殿へ移って三度目の朝、テレサは弓と矢筒を持って庭へ出た。
先にクロエの世話を済ませ、手を拭いてから弓を取る。
どくろんの袋を脇へ寄せると、クロエが門へ顔を向けた。
「クロ。今日は外へ行かないよ」
声を掛け、庭を歩き出す。
背後で前脚が地面を踏み直し、やがて横へ黒い頭が並んだ。
庭の端で、弦の音がした。
テレサの足が止まる。
少し先に、弓を持った女の人が立っていた。
伸ばした腕を下ろすところだった。
その向こうの藁の的へ、矢が一本刺さっている。
中心の色が濃いところから、矢羽根が突き出していた。
「クロ、ここで待ってて」
射手の後ろ側でクロエを座らせる。
テレサも近づかず、次の矢が弓に掛かるのを見た。
袖を上げた腕は日に焼けていた。
弦を引くにつれて、背中の布が張る。
肩は上がらない。
弓の張りに押し返される様子もなく、肘が後ろへ動いていく。
放たれた矢が、さっきの矢のすぐ脇へ刺さった。
テレサは握っていた自分の弓へ目を落とす。
あの弓では、同じところまで引けないかもしれない。
もう一度背中を見た。
引き終えた腕には、次の矢を取る余裕が残っている。
見ていたいのに、少し悔しかった。
『心拍数、上昇』
テレサは袋を掌で軽く叩いた。
「今、言わなくていい」
女の人がこちらを振り向いた。
テレサは弓を持ったまま頭を下げる。
「おはようございます」
相手の目が、テレサの弓から矢筒へ動いた。
裾の邪魔にならない狩装束に、履き込んだ靴。
弦を引いていた指には、硬くなった皮が見える。
奥様の狩りの支度をする人だろうか。
奥様は留守だと聞いている。
なら、目の前の人がそうであるはずもない。
噂の気難しい奥様より、森で顔を合わせる狩人を思わせた。
「新入りのテレサです」
相手は矢をつがえず、弓を下ろした。
「もう仕事か」
「朝食まで、弓を見ようと思って」
手入れ布を指で押さえ、的へ目を向ける。
「この的、仕事のあとに借りてもいいんでしょうか」
女の人の口元が少し動いた。
笑われるようなことを聞いたかと、テレサは相手の顔を見直す。
「弓は使えるな」
「村で、猟をしてました」
「なら、一つ引いてみろ」
テレサは矢筒へ手をやりかけた。
「今ですか」
「今でいい」
女の人が脇へ退く。
テレサは一度クロエを見た。
後ろで座ったまま、こちらを向いている。
弓を確かめ、弦を張った。
矢を一本抜き、羽根を指で撫でてからつがえる。
家で向けていた木とは、的の色も形も違った。
それでも足を置くと、朝の冷たさが靴底から遠のく。
女の人の矢を避け、中心のすぐ横を狙った。
左手で弓を支え、息を細く吐く。
仕事のときは背中へ回していた袋が、脇にあった。
下げた弓を持ち直し、先に紐を寄せる。
「邪魔になるか」
「もう、大丈夫です」
今度は袋が腕に触れなかった。
頬の近くへ指を引き、的を捉える。
弦を放すと、矢は色の濃い円の端へ刺さった。
テレサは弓を下ろした。
狙った場所を確かめてから、相手を見る。
「そこを狙ったか」
「矢に当てたくなかったので」
女の人は的へ顔を戻した。
「止めたあと、引き直したのはいい」
褒められたのが当たり方ではなく、袋を直したことだと気づく。
テレサは肩紐に指を添えた。
「変なまま射つのは、嫌です」
「それでいい」
女の人が歩き出しかけたので、テレサも的のほうへ向く。
「取ってきます」
相手が弓を下ろしたままうなずくのを待った。
「クロ、そのまま待ってて」
的へ歩み寄ると、矢は離れて見たときより深く刺さっていた。
自分の矢を抜き、藁に手を当てて相手の矢にも手を伸ばす。
最初の一本はすぐには動かず、握り直して引いた。
抜けた矢の先へ、細い藁が絡んでいる。
それを外し、三本を持って戻った。
「よく刺さってました」
相手へ二本を差し出す。
「的が近い」
言い訳をするでもなく、矢を受け取る声だった。
テレサは相手の弓へ目をやった。
自分の弓とは、腕にかかる重さが違うはずだ。
触らせてほしいと言いかけて、朝食のことを思い出す。
矢を筒へ戻し、弦を外した。
頭を下げて戻ろうとすると、女の人が口を開いた。
「リーナだ」
テレサは顔を上げる。
「改めて、よろしくお願いします」
口元に、さっきと同じ小さな動きがあった。
今度は何も聞き返さず、テレサも少し笑った。
「テレサ」
庭の向こうからグレーテの声がした。
振り向くと、用口の外に立っている。
「朝食の時間です」
「はい。すぐ行きます」
矢筒を掛け直し、手入れ布をまとめる。
「では、また」
「行っていい」
リーナはもう、的のほうへ向いていた。
テレサはクロエを呼び、用口へ戻った。
「クロエを戻して、弓を部屋へ置いてきます」
「ええ。手も洗いなさい」
手を見ると、指の間に藁の屑がついていた。
テレサは握りを持つ場所を変え、犬舎へ向かう。
「クロ。ここで待ってて」
クロエが中へ入った。
テレサは戸を閉め、用口へ引き返した。
部屋の壁へ弓を立てる。
あとで借りられるかの返事は、まだもらえていなかった。
それでも一矢だけ射た指には、まだ弦を放した感触がある。
朝食を済ませたら、今日は何を運ぶのだろう。
手入れ布を荷へ戻し、テレサは水を使いに部屋を出た。




