第31話 返事を待つあいだ
宿の部屋へ戻ると、テレサは荷を寝台の脇へ下ろした。
クロエが床の匂いを嗅ぎ、いつも伏せる場所で体を伸ばす。
その横を通って窓を開けると、まだ明るい通りが見えた。
向かいの軒先では、男が木箱を抱えて店へ入るところだった。
テレサは窓枠に手を置く。
朝には登録をして、昼には仕事を見つけ、午後には応募までした。
次にすることが、急に無くなった。
袋の口から青い光が漏れている。
「どくろん。もう話していいよ」
どくろんを卓へ出すと、顎が動いた。
『発声制限、解除』
「呼ぶの忘れてた」
袋を畳もうとして、底に溜まった細かな砂に気づく。
窓の下では人が行き交っていた。
テレサは袋を持ち上げるのをやめ、部屋の隅で布の上へ逆さにする。
縫い目をつまんで振ると、まだ砂が落ちた。
『同行中ノ採取物デス』
「持って帰らなくていいやつ」
最後の粒を爪で掻き出し、布の端を寄せた。
弓を荷から外す音に、クロエが頭を起こす。
テレサは弓を壁際へ立て、肩紐をほどいた。
クロエの前足が床を掻く。
「クロ。今日はもう猟に行かないよ」
しゃがむと、鼻先が空いた手へ寄ってきた。
首筋を撫でてから、テレサは隣に腰を下ろす。
クロエが体を横たえ、伸ばした脚を膝へ載せた。
その重みを受けたまま、テレサはしばらく背を壁へ預けていた。
――
夕方、宿の前で別れたエマが訪ねて来たとき、テレサは洗った布を窓辺に広げていた。
「あ、まだ濡れてる」
窓のほうへ伸びたエマの手が止まる。
テレサは布を寄せ、卓の空いた端を示した。
「こっちは大丈夫」
「ありがとう」
エマが小さな包みを置く。
中は夕食のパンだった。
「下で一緒に食べようと思ったんだけど、洗い物の途中だったね」
「もう終わった」
テレサは広げた布へ目を戻した。
角をつまんでも、まだ指先が湿る。
「あとは乾くだけ」
「それなら待てるね」
エマが包みを持ち上げる。
テレサは頷いて、どくろんを袋へ収めた。
さっき空にした底へ手を添えて持ち上げると、クロエも立つ。
階下へ降りる前に、クロエの食事と水を用意した。
食べ終わるのを待ち、テレサは空いた器を片づける。
「クロ。来て」
呼ぶと、クロエは鼻を舐めて戸口へ向かった。
階下の卓では、湯気の上がる椀が二つ並んだ。
テレサは足元のクロエを確かめてから腰掛ける。
エマがパンを二つに割り、片方を渡した。
受け取ったパンへ、テレサは指を沈める。
「待たせちゃったね」
「そんなに長くなかったよ」
エマは椀を自分のほうへ引き寄せる。
「門が開いたら、テレサちゃんが出てきたから」
「中だと、長かった」
テレサは小さくちぎったパンを椀へ浸した。
表面に汁が染みていく。
「返事をする前に、何を言えばいいか考えちゃって」
「聞かれたことは、答えられた?」
「うん。でも、あとからもう少し言えたかなって」
浮かんだパンを匙で押さえると、柔らかく崩れた。
慌ててすくう。
「今、言ってみる?」
顔を上げると、エマは匙を置いて待っていた。
テレサは口に入れたものを飲み込む。
「……何を言うんだったかな」
掃除も、洗濯も、繕い物も話した。
椀の縁を指でなぞっても、付け足す言葉は出てこない。
エマが少し笑った。
「思い出したら、聞くね」
「うん」
テレサはパンをもう一口ちぎった。
今度は汁へ落とさず、そのまま噛む。
エマも匙を取り、二人のあいだで椀が小さく鳴った。
――
エマを見送って部屋へ戻るころには、通りの店は戸を閉め始めていた。
窓辺の布を裏返すと、折り重なったところだけ冷たい。
テレサはそこを広げ直した。
乾いた端を畳みかけ、まだ濡れた端を見てやめる。
どくろんが卓の上から向いている。
「見てても乾かないね」
『乾燥ハ進行シテイマス』
「……そっか」
テレサは布から手を離した。
寝台に腰掛けると、クロエが脚のあいだへ顔を差し込む。
両手で耳の付け根を撫でる。
クロエの目が細まり、顎が膝へ載った。
通りで戸の閉まる音がした。
次の音を待つあいだに、テレサの口から欠伸が漏れる。
「私のほうが、先に寝そう」
明かりを落とす前に、湿った布を窓から離れたところへ移した。
窓を閉め、寝台へ横になる。
床を爪が軽く擦り、すぐ近くで止まった。
テレサは布団から手を下ろす。
クロエの背に触れたところで、指の力が抜けた。
面接の翌朝、布は乾いていた。
テレサは端を重ね、荷の中へ戻した。
その上へ手を置いてから、荷の口を閉じずに立つ。
今日は宿を発つ日ではなかった。
水袋とどくろんの袋だけを取り、クロエを呼ぶ。
「クロ。歩こうか」
戸を開けると、クロエは先へ出かけて振り向いた。
弓は壁際に立てたままだ。
テレサが部屋を出ると、クロエはその横へついた。
通りでは、荷車の脇を店の人が歩いていた。
軒から吊るされた布が風に膨らみ、クロエの耳がそちらを向く。
テレサは人の途切れたところで足を止めた。
「クロ、こっち」
膝の横を叩くと、鼻先が戻ってくる。
大通りへは出ず、宿の見える道をゆっくり歩いた。
クロエは石畳の隙間に鼻を近づける。
テレサも立ち止まり、嗅ぎ終わるのを待った。
少し進んだ先でも、また鼻が下がる。
「そこも?」
耳だけが動いた。
テレサは水袋の紐を持ち直す。
先を急ぐ足音が背後から近づき、二人連れが追い越していった。
クロエが顔を上げてから、テレサも歩き出した。
宿の前まで戻ると、入口へ向かいかけたクロエが足を止めた。
顔がテレサの向こうへ伸びる。
振り返ると、エマが片手を上げていた。
「おはよう。散歩してたの?」
「うん。今、戻った」
エマは膝を曲げ、クロエへ手を差し出した。
鼻が手の甲を嗅ぐ。
「今日は、朝ご飯だけご一緒してもいい?」
「いいよ」
テレサは入口から脇へ寄った。
「このあと、用事?」
「うん。役所へ行ってくるの」
エマは立ち上がり、抱えていた書類を持ち直す。
紙の角には、折れないよう指が添えられていた。
――
朝食のあと、エマは卓の上を見回した。
椀の横、それから空いた椅子へ目が移る。
「何か忘れた?」
「書類を……あ」
エマの目が自分の脇へ落ちた。
ずっと抱えていた紙が、肘の下から覗いている。
「あった」
テレサが頷くと、エマは口元へ手を当てた。
「持ったのにね」
「落としてなくてよかった」
「ふふ。うん」
笑ったまま立とうとして、エマは卓の縁へ手を置いた。
「テレサちゃんは、このあと何をするの?」
「まだ決めてない」
足元ではクロエが前脚を伸ばしている。
テレサはその先を避けて足を引いた。
「また、歩くと思う」
「じゃあ、帰り道は覚えてるところを通ってね」
「うん。さっきも宿の近くだけ」
エマは頷き、書類を抱え直した。
見送るために外へ出ると、朝より道が混んでいた。
エマが人の流れを見ているあいだ、テレサも隣で待つ。
「エマ」
「うん?」
「いってらっしゃい」
エマがこちらへ顔を向けた。
それから小さく笑う。
「行ってきます」
書類を持っていないほうの手が上がった。
テレサも手を振り、角を曲がるまで見送った。
――
昼前にもう一度外へ出ると、朝に開いていた店の前には木箱が積まれていた。
テレサはクロエを呼び寄せて通り過ぎる。
角を曲がりかけ、宿の屋根が見えなくなるところで足を戻した。
戻ろうとすると、買い物籠を提げた女の人が立ち止まっていた。
その手を握った小さな子が、クロエを指している。
「触ってもいい?」
伸びてきた手へ、テレサは掌を向けた。
「まだ。ここで待ってて」
子供の手が止まる。
テレサは先にしゃがみ、クロエを自分の脇へ呼んだ。
耳は立っているが、鼻先は通りのほうを向いている。
「頭の上から、急に触らないでね」
子供が頷くのを見て、女の人も腰をかがめた。
差し出された小さな手の甲へ、クロエの鼻が寄る。
子供の肩が跳ねた。
「濡れてる」
「うん。そういう鼻」
テレサが首筋を撫でると、子供も同じところへそっと手を置いた。
指は毛に触れただけですぐ引っ込む。
クロエが顔を振り向け、子供は女の人の脚へ半分隠れた。
「もう、おしまいにしようか」
テレサは立ち上がり、道を空けた。
手を引かれていく子供が振り返る。
クロエはもう石畳へ鼻を下げていた。
「クロ。帰るよ」
顔が上がるまで待ってから、テレサは宿へ向かった。
戻った部屋で、テレサは小銭を卓へ出した。
宿代と食事代を寄せ、残りを手元へ戻す。
数え終わった銭を袋へ落とすと、乾いた音がした。
まだ数日は泊まれる。
それでも、明日になれば今日のぶんは減っている。
テレサは袋の口を結び、卓へ置いた。
「どくろん。給金の話までしたんやから、雇う気はあるんちゃう?」
どくろんへ顔を寄せる。
『説明ガアッタノハ事実デス。採用ノ意思ハ未確認』
「せやけど、雇わん相手にそこまで話すか?」
指で卓を叩きかけ、テレサは手を止めた。
「……条件が合わんかったら、こっちから断るかもしれんのか」
椅子の背へ体を戻す。
少し離れたどくろんを、また見る。
「ほな、縫い目を見て結構ですって言うたんは?」
『解釈ノヒトツデス。確認終了ノ意味トモ取レマス』
「ええほうにも取れるやろ」
どくろんの顎が開く前に、テレサは卓へ額を伏せた。
「分かっとる。取れるだけや」
頬を卓へつけ、横向きにどくろんを見る。
「少しくらい、雇ってもらえそうやって思わせてや」
卓はひんやりしていた。
窓の外を見ても、御殿は見えない。
テレサは卓から離れた。
寝台の脇には、口を開けたままの荷がある。
朝に畳んだ布を押し込み、肩紐を揃えた。
小銭の袋はすぐ取り出せるところへ入れる。
夕食に降りるまではまだ間があった。
テレサは床へ座り、足を投げ出す。
クロエが近づいてきて、腿へ頭を載せた。
その頭を撫でながら、空いている手で耳の後ろを掻く。
短い毛が指に絡んだ。
手を引くと、クロエは鼻先をさらに押しつけてくる。
「まだ?」
テレサはもう一度、同じところへ指を戻した。
窓から差す光が脚の上を通り、やがて床へ移った。
――
翌朝、テレサは食事を終えると部屋へ戻った。
面接から二晩が過ぎていた。
卓へどくろんの袋を置き、口を開く。
「今日、御殿へ聞きに行く」
どくろんの青い光が向いた。
『回答ヲ求メマスカ』
「まだなら、いつ来ればいいか聞く」
待っている部屋で考えても、ヨーゼフの返事は増えなかった。
テレサは袋を肩へ掛ける。
荷の中の書類を確かめ、すぐ出せるように収め直した。
宿を引き払う支度はせず、大きな荷は寝台の脇へ残す。
クロエが立って戸口へ向かった。
テレサは袖を下ろし、戸に手をかける。
「クロ。行こう」
扉の向こうから、朝の人声が入ってきた。




