第30話 御殿の門へ
広場の声が遠ざかると、テレサは肩の荷を背中へ寄せ直した。
「エマ。あの募集、掲示でも見られる?」
「うん。働き口の掲示があるところへ行こうか」
エマは角の先を指した。
テレサが頷くと、隣を歩くクロエの耳もそちらへ向く。
通りを曲がった先では、壁に並ぶ紙の前に人が立っていた。
荷を担いだ男が読み終えて離れるのを待ち、テレサは空いたところへ入る。
高い位置の紙は首を反らさないと読めない。
目当ての募集は、その下にあった。
ブレンダール家の分家御殿、住み込みの女中、見習い可。
応募先には御殿の場所と、執事ヨーゼフの名が書かれている。
「ここだね」
テレサが名前を指すと、エマも紙へ顔を寄せた。
「うん。さっきマルセルさんが教えてくれた募集だね」
上から読み直してみる。
けれど、クロエのことはどこにもない。
テレサは紙の端まで目を走らせてから、足元を見た。
クロエは壁際に座り、通りを行く手押し車へ鼻先を向けている。
「犬のこと、書いてない」
「それは直接聞こう。何も書いていないだけでは、いいとも駄目とも分からないから」
エマの指が、応募先の行へ戻った。
「ここへ行って、女中の募集を見たと伝えればいいよ」
「エマから話さなくていい?」
「テレサちゃんが応募するんだもの」
そう言って、エマは紙から手を離す。
テレサはヨーゼフの名と、その横の場所をもう一度読んだ。
後ろへ人が来たので、二人は掲示の前を空けた。
日なたへ出たクロエが口を開き、舌を出す。
テレサは通りの端でしゃがんだ。
水袋の口を開け、掌に少しずつ受けて飲ませる。
舌が触れるたびに水が指の間から落ちた。
「ゆっくり、クロ」
飲み終えた鼻が、濡れた掌を押した。
テレサは残った水を切り、クロエの頬を手の甲で撫でる。
「住み込みだと、ご飯も寝るところも勤め先なんだよね」
「うん」
「クロと寝るところが別だったら、どんなふうになるのかな」
エマはクロエを見下ろした。
「世話に行けるかも、聞いておこうか」
「朝と、仕事が終わってから」
テレサは水袋を閉じた。
村では戸を開ければクロエがついてきた。
家を空ける用があっても、帰れば同じ床に爪の音がした。
今朝も、起きてすぐ手を伸ばせるところにいた。
「手放すのは、嫌だ」
「それは、先に伝えていいことだよ」
エマの声は変わらなかった。
テレサは頷き、膝から手を離して立つ。
濡れた指先が風に冷えた。
「女中って、家のことをするんだよね」
「お掃除や洗濯はあると思う。でも、お家ごとのやり方があるから」
「私の掃除でいいのかな」
「それも見習いとして、教えてもらえるか聞いてみよう」
テレサは袖の口を見た。
糸が浮いたところを、自分で縫い直してある。
着るには困らないが、近くで見れば縫い目は揃っていなかった。
指でそこを隠しかけて、やめる。
「できることと、習わないとできないことを言う」
エマは小さく頷いた。
急いで大丈夫とは言われなかったので、テレサも袖を下ろせた。
通りの向こうで、焼いた肉を挟んだパンが売れていく。
テレサの腹が鳴った。
エマがそちらを見てから、こちらへ目を戻す。
「先に、お昼にしようか」
「……うん」
『応募前ノ補給。合理的デス』
「今のは、言わなくていい」
袋へ指を添えると、その口から淡い光が漏れた。
エマが笑いをこらえて顔を伏せる。
テレサは荷の紐を握り、店の前へ歩き出した。
――
食べ終えた指を拭いているあいだも、掲示にあった名前は覚えていた。
御殿の人へ何を聞くかも、食べながら口に出せる順に落ち着いてきた。
「行ってみる」
テレサが言うと、エマは手を止めた。
「御殿へ?」
「うん。応募したい」
エマは包みを片づけ、立ち上がった。
「道は一緒に行くね」
テレサは軽く頭を下げた。
クロエが伸びをし、テレサの脚の横へ戻ってくる。
その背を一度撫でてから、テレサはエマの隣に並んだ。
御殿の門の前へ来ると、テレサは服の裾を払った。
門脇の板屋根の下に、作業台が見える。
人通りのある通りから少し離れただけで、声を出すのが急に難しくなった。
エマは隣で立ち止まり、こちらを待っている。
テレサは袋の口へ指を当てる。
「どくろん。呼ばれるまで静かにしてて」
光が一度明滅する。
テレサは門の内側へ顔を向ける。
「すみません」
しばらくして、帳面を手にした男がこちらへ来た。
白いものの交じった髪を整え、門のところで足を止める。
「どのようなご用でございましょう」
「女中の募集を見て来ました」
テレサは握っていた裾を離す。
「応募したいです」
「承りました。執事のヨーゼフでございます」
顔を上げると、ヨーゼフの目はこちらを向いていた。
「お名前は」
「テレサです」
「こちらの方は」
「あの、道案内で参りました、エマ・フェルドと申します」
エマが会釈する。
ヨーゼフも礼を返し、テレサへ向き直る。
「奉公登録はお済みでございますか」
「今朝、済ませました」
テレサは荷を下ろし、書類を取り出した。
折れないように挟んであった紙を両手で渡す。
ヨーゼフは名前のところへ目を落とす。
紙の端が風で浮くと、帳面を下へ添えて押さえる。
テレサはその手が止まるたびに、顔を上げたくなった。
エマへ目をやると、彼女は書類ではなくこちらを見ている。
テレサは視線を戻す。
「アルワール村からいらしたのですね」
「はい」
ヨーゼフは書類を揃え、テレサへ返す。
「マルセルから、旅の途中でご一緒した方へ募集の話をしたと聞いております」
「さっき、広場で教えてもらいました」
テレサは紙を荷へ戻した。
ヨーゼフは次の問いを口にする前に、足元へ目を移した。
「そちらの猟犬も、ご一緒に?」
「クロエです」
名を呼ばれたクロエが、テレサの手を見る。
「この子を手放すつもりはありません」
ヨーゼフは帳面を閉じる。
「建物の中へお連れいただくことはできません。衛生のこともございますし、お客様をお迎えする場所でもございますので」
テレサはクロエの首へ手を添える。
「敷地の中には、いられますか」
「犬舎がございます。お勤めの条件としてお預かりできるかは、お話を伺ってからになりますが」
ヨーゼフは少し間を置いた。
「面接の間は、そちらでお待ちいただけます」
テレサは門の奥を見る。
「先に、見せてもらえますか」
「ご案内いたします」
ヨーゼフが門を開ける。
エマは荷へ手を添える。
「私は外で待っていますね」
テレサは頷き、クロエを呼んで門をくぐった。
ヨーゼフが犬舎の戸を開ける。
中にほかの犬はいない。
敷かれた藁へクロエが鼻を近づけ、ゆっくりと床を嗅いでいく。
テレサはしゃがんで、戸口の隅に手を置く。
藁は乾いている。
鼻を戻したクロエが、今度はその手を嗅ぐ。
「クロ、ここで待ってて」
クロエはテレサを見上げたまま、腰を下ろした。
テレサは耳の後ろを撫で、立ち上がる。
戸を閉めると、クロエも立つ。
柵の向こうへ寄ってくる鼻先に、テレサは指を差し入れる。
「終わったら迎えに来る」
鼻が指に触れた。
手を抜いてヨーゼフのほうへ向き直るまで、彼は先へ行かずに待っていた。
――
取次の間へ通されると、外の声はほとんど聞こえなくなった。
ヨーゼフが帳面を開く。
「奉公のご経験は」
「ありません」
すぐ次の質問が来るかと思ったが、ヨーゼフは顔を上げたままだった。
テレサは膝の上の手をほどく。
「村では、自分で暮らしのことをしていました」
「掃除と洗濯は」
「していました」
「料理はいかがでしょう」
「自分の食べるものなら」
口にしてから、マルセルの皿が頭に浮かんだ。
同じ料理と言ってしまうのは、少し違う気がする。
「お客様に出すようなものは、作ったことがありません」
「承知いたしました」
ヨーゼフの筆先が動く。
できないと言っても、問いはそのまま続いた。
読み書きと勘定を聞かれ、テレサはそれぞれ答える。
「繕い物は」
テレサは袖口を見る。
「自分の服は直します」
「拝見してもよろしいですか」
袖の縫い目を表へ向ける。
ヨーゼフは身をかがめて見たが、指では触れなかった。
テレサは腕を引っ込めずに待つ。
「結構でございます」
何がよくて、何が足りないのかまでは分からない。
袖を下ろすと、手首のところに縫い糸が当たる。
「街道で魔獣から乗客をお守りになったことも、マルセルから伺っております。お人柄は、自分が請け合うとも申しておりました」
テレサは顔を上げる。
「猟には、お一人で?」
「クロエと行きます」
ヨーゼフの筆が止まる。
続きを待っていると、彼は帳面へ目を戻す。
「失礼いたしました。当家の仕事とは、関わりのないことでございます」
「当家では、掃除や洗濯、台所の手伝いなどをしていただきます。やり方は、こちらでお教えいたします」
「分からないときは、聞いてもいいですか」
「そのようにしていただければ」
テレサは頷いた。
ヨーゼフは住み込みの部屋と食事、それから給金について順に説明した。
テレサは途中で一度、聞き取れなかったところを聞き直す。
同じ速さで言い直され、今度は頷けた。
「ほかに、お確かめになりたいことは」
テレサは膝から手を持ち上げる。
「クロエの世話は、自分でしたいです」
「お勤めの前後に犬舎へ通う形であれば、お話はできます」
「仕事の間は、ついてこられないんですね」
「はい。お仕事の場所へご一緒というわけにはまいりません」
テレサは膝の横へ手を下ろしかけた。
森へ出るときは、そこを叩いてクロエを呼ぶ。
指を曲げ、手を膝の上に置き直す。
「……分かりました」
袋の中は静かだ。
ヨーゼフは返事を急いで書き留めず、こちらへ目を向けている。
テレサは袖口を握るのをやめた。
「その条件で、応募したいです」
ヨーゼフは一度頷いた。
「本日は、ここまでといたしましょう。採否については、改めてお返事いたします」
「いつごろになりますか」
「数日、お時間をいただけますでしょうか」
テレサは頷き、頭を下げた。
「ありがとうございました」
――
犬舎の戸へ手をかける前から、クロエが立っていた。
戸を開けても飛び出さず、テレサの膝へ鼻を押しつける。
「クロ、お待たせ」
しゃがんで首を撫でると、耳が横へ寝た。
テレサはそのまま少し撫で続けた。
門の外にはエマがいた。
こちらに気づくと、持っていた荷を抱え直す。
ヨーゼフへ会釈し、テレサは門を出た。
「終わった」
「うん。お疲れさま」
荷を受け取ると、肩紐がいつものところへ当たった。
エマが歩幅を合わせてくる。
「聞きたいことは、聞けた?」
「クロのことも聞けた」
テレサは肩紐を掛け直した。
「返事は、いつごろ?」
「数日かかるって」
クロエがテレサの脚へ肩を寄せ、また少し離れた。
エマは御殿を振り返らず、道の先を見た。
「じゃあ、今日は宿に帰ろうか」
「うん」
テレサは空いた手を下ろした。
歩くたびに、クロエの耳の先が指に触れる。




