第27話 街道と、砂糖の箱
二日目の昼前に、森が終わった。
木々が急に低くなり、下草が刈られ、視界が開ける。
踏み固められた道が、左右へまっすぐ伸びていた。
街道だ。
道の先に、建物が固まって見える。宿場。屋根の数は、アルワール村より少ない。なのに、人の気配は村より濃かった。
「着いた……!」
エマの声が明るくなった。二日分の森が、ようやく終わったのだ。
テレサは逆だった。
森が終わってから、足の置き場が分からない。
固い道。遮るもののない空。知らない人の声。
荷馬車が二台、隊商らしい列が一つ、旅装の人間が何人も。
村と遺跡と森しか知らない――今世では――テレサにとって、それは初めて見る「よそ」だった。
クロエも同じらしく、テレサの足へぴったり寄って歩いている。
道の固さが、足の裏から膝へ響く。森の地面は音を吸うのに、ここの地面は音を返してくる。すれ違う人の声も、荷車の軋みも、遮る木がないぶんまっすぐ届いた。
匂いも違う。土と葉の代わりに、藁と、馬と、竈の煙と、知らない食べ物の匂いがした。
「テレサちゃん」
エマが振り返った。
「ここからは、私の番」
依頼書の時と同じ、まっすぐな顔だった。
「馬車の席を取ってくる。テレサちゃんは、そこの水場でクロエに水をあげてて」
「……はい」
前を歩くエマの背中は、森の中より一回り大きく見えた。
――
乗合馬車は、幌の付いた大きな荷車だった。長椅子が向かい合わせに二列。乗客は途中の町で入れ替わりながら、十日かけて王都まで行く。
エマは御者と話していた。
「犬も一緒なんですけど」
「犬ぅ?」
御者は胡散臭そうにクロエを見た。
クロエは座って、動かない。吠えず、匂いも嗅ぎに行かず、ただ座っている。
「……躾はしてあるようだな。床なら。席は人の分だけだ」
「床で大丈夫です。ね、テレサちゃん」
「はい。クロ、いい子にしてて」
クロエの分の話が終わると、御者の視線が今度はテレサの肩の横で止まった。
「おい、なんだそりゃ」
「使い魔です」
エマが、テレサより先に言った。
「よく喋りますけど、悪さはしません。荷物扱いで結構ですので」
『荷物デハ――』
「ほら喋った」
「珍しいでしょう。でも本当に、それだけなんです」
エマの言い方は、驚くほど滑らかだった。役所の窓口で、揉め事を収める時の口調なのだろう。
御者は数秒どくろんを睨み、それから面倒になったらしい。
「……落とすなよ」
「はい」
テレサは、どくろんを袋へ入れた。紐は緩めに。
『不当ナ分類デス』
「王都まで我慢して」
『記録。荷物扱イ、一名』
「数えなくていいから」
――
昼過ぎに、馬車は出た。
車輪が石を噛み、幌が揺れる。
長椅子の端にエマ、その隣にテレサ。足元にクロエが伏せ、膝の袋の中でどくろんが静かにしている。
向かいには、行商らしい年配の女と、職人風の男。誰もテレサを気に留めない。村なら全員が知り合いで、全員に挨拶をした。ここでは、誰も自分を知らない。
それは不安のようで、少しだけ、楽でもあった。
幌の後ろから、来た道が見える。
街道の先、森の壁。あの向こうに、村がある。
遠くなる、と思いかけて、テレサはやめた。
逆だ。
王都が、近くなっている。
一日ぶんずつ、確かめるように。
馬車は音を立てて、東へ進んだ。
馬車の旅は、思っていたより単調だった。
朝に出て、昼に替え馬の場で休み、夕方には次の宿場に入る。
安い相部屋。固いパンと豆の汁。クロエは厩の隅を借りた。
それを、十日繰り返す。
初日は尻が痛かった。三日目には慣れた。揺れの中で眠る技も覚えた。
朝の車内は無口で、昼を過ぎると誰かが喋り出し、夕方には全員が黙る。十日も繰り返せば、車輪の音の変わり目で、道の善し悪しまで分かるようになった。
前世の満員電車よりは、ましだった。少なくとも座れる。
――
景色は、少しずつ変わった。
最初の三日は、街道の両側にまだ森が近かった。
四日目から畑が増えた。見たことのない広さの麦畑が、丘の向こうまで続いていた。
その四日目の昼に着いた町で、乗客が半分入れ替わった。
新しく乗ってきた中に、恰幅のいい五十絡みの男がいた。日に焼けた太い腕で、木箱を一つ、膝に抱えている。網棚があるのに、降ろさない。座るなり目を閉じ、程なく鼾が車輪の音に混ざった。
起きているのか寝ているのか分からない男だ、と思った。
それだけの、はずだった。
――
五日目の昼過ぎ、街道が丘の間へ入った。
畑が切れ、道の両側に藪の茂った斜面が近づく。
クロエが、床で頭を上げた。
テレサは幌の隙間から外を見た。風はゆるい。ただ、鳥の声が、ない。
『ますたー』
膝の袋から、囁きより小さい声。
『複数ノ生体反応。右ノ斜面。接近中』
テレサは弓袋の紐を解きながら、御者台へ声を投げた。
「御者さん。魔獣です。止まらないで――」
言い終わる前に、右の藪が鳴った。
馬がいななき、馬車が大きく傾いて止まった。
乗客の悲鳴。傾いた床。テレサは幌を撥ね上げ、荷台の縁から道へ降りた。
灰色の獣が、三頭、斜面から道へ降りていた。
犬より二回り大きい。肋の浮いた痩せた体。冬毛が抜けきらないまま、目だけが乾いて光っている。先頭の一番大きいのは、口の端に青白い火花をちらつかせていた。
魔獣だ。
(山の餌が、足りてないんだ)
冬毛のまま夏の街道へ出てくる群れは、飢えている。飢えた群れは、威しただけでは退かない。
森なら、痕跡を読んで道を変えれば済んだ。
ここには、変える道がない。動けない馬車と、逃げ足のない人間が、道の上に並んでいるだけだ。
避けられない時が、護衛の出番だ。
「エマ。乗客を馬車の陰に。頭を低く」
「わ、分かった!」
エマの声はうわずっていたが、動きは早かった。凍りついた乗客の袖を引き、荷台の陰へ押し込んでいく。
「クロ、左」
クロエが矢のように飛び出した。左へ回り込もうとした一頭の鼻先で吠え立て、行かせない。群れが、正面へまとまる。
その時、道の脇で悲鳴が上がった。
替え馬の場を目当てに歩いて水場へ降りていた行商の婆さんが、腰を抜かして座り込んでいる。馬車の陰まで、遠い。獣との間に、遮るものがない。
真っ先に動いたのは、あの恰幅のいい男だった。
木箱を抱えたまま婆さんの前へ走り、箱を盾のように構えて、仁王立ちになる。
「来るな! これは砂糖だぞ!」
脅しに、なっていない。
でも、時間には、なった。
テレサはすでに弓を引き分けていた。
先頭が、地を蹴った。
大きい。硬くはないが、速い。――風を乗せる。
矢羽根の際で、風が細く鳴った。
弦音は一つ。
矢は火花ごと顎の下を貫き、先頭の魔獣は跳んだ形のまま道へ落ちて、それきり動かなかった。
二の矢は、続こうとした次の一頭の鼻先の地面へ突き立てた。
土が爆ぜ、獣が跳び退く。
クロエが追い立てるように吠える。袋の中から、どくろんが低く言った。
『警告。次ハ当タリマス』
言葉が通じたわけではないだろう。それでも、残った二頭は倒れた先頭を一度だけ見て、来た斜面を駆け上がった。
藪の鳴る音が遠ざかり、消える。
鳥の声が、戻ってきた。
「……生体反応、離脱」
テレサは百を数えてから弦を戻し、馬車を振り返った。
「終わりました。出発できます」
――
乗客が席へ戻る間、視線がずっとテレサに集まっていた。
乗った日に「嬢ちゃん」と呼んだ目では、もうなかった。
恰幅のいい男は、婆さんを助け起こし、腰の土を払ってやってから、木箱を抱え直してテレサの前へ来た。
「……助かった。あんた、命の恩人だ」
「仕事なので」
「仕事?」
「私の連れです」
エマが横から言った。まだ声が少し震えていたが、言い方は依頼書のときのそれだった。
「王都まで、道中の護衛をお願いしていて」
「護衛。……ああ、道理で」
男は太い首を縦に振り、それから自分の胸を叩いた。
「マルセルだ。王都で、さる屋敷の台所を預かってる。料理人だ」
「テレサです」
「箱、無事ですか」
エマが聞くと、マルセルは初めて木箱を網棚へ置いた。
「砂糖と香料だ。半年ぶんの仕入れでな。俺の商売道具だ。――命の次に大事だ」
「さっき、命より前に出してましたけど」
テレサが言うと、マルセルは太い眉を寄せた。
「……歳を取ると、とっさの順番を間違える」
悪びれない言い方に、エマが噴き出した。婆さんまで笑って、馬車の中の強張りが、それでほどけた。
――
六日目に渡った橋は、石でできていた。川幅は、村の川の五倍あった。
七日目の町は、壁に囲まれていた。町なのに、壁がある。
「王都の壁は、もっと高いよ」
エマが言った。
「どれくらいですか」
「うーん……大樹の半分、くらい?」
「大樹?」
「着けば分かるかな」
エマは少し楽しそうに、それ以上言わなかった。
その七日目の宿で、マルセルが動いた。
宿の主人と何やら話し込んだかと思うと、上着を脱いで竈の前に立ったのだ。
「護衛の礼だ。座ってろ」
出てきたのは、豆の汁だった。
毎晩どの宿でも出る、あの固いパンの供の、豆の汁のはずだった。
一口で、乗客の誰かが「おかわりはあるのか」と聞いた。
同じ豆を、同じ場所で煮たはずだ。何が違うのかは、分からない。ただ、体の芯まで届く味がして、鍋は瞬く間に空になった。
「本職だねえ」
と、婆さんが唸った。
「当たり前だ」
マルセルは、当たり前の顔で答えた。
(……王都の料理人って、みんなこうなのか)
テレサは椀の底を見た。
王都の楽しみが、少しだけ増えた気がした。
――
八日目。
昼の休みで人が降り、車内が空いた時、袋の紐が緩んでいた。
『湿度、上昇。降雨ノ可能性、七割』
戻ってきた職人風の男が、袋を二度見した。
「……今、袋が喋らなかったか」
「使い魔です」
エマが間髪入れずに言った。
「天気を教えてくれるんです。便利でしょう」
「……はあ」
男は席を一つ空けて座った。マルセルだけが、鼾の合間に片目を開けて「知ってる」という顔をした。
テレサは袋の紐を締め直した。
「七割は当たるの」
『概ネ』
「なら許す」
夕方、本当に雨が降った。男がちらりと袋を見た気がした。
――
最後の夜の宿で、エマが言った。
「明日の昼には、着くよ」
「……早いですね」
「十日、乗ったんだけどね」
エマは笑った。
「明日は朝が早いから、もう寝よう」
寝床へ向かう廊下で、マルセルに呼び止められた。
「嬢ちゃん。明日、門で別れる前に、礼の場所を教える。逃げるなよ」
「逃げませんけど。……礼なら、豆の汁を」
「あんなものは礼のうちに入らん」
マルセルは太い指を一本立てた。
「俺の礼は、皿でする。覚えとけ」
それだけ言って、相部屋へ引っ込んでいった。すぐに、壁越しに鼾が始まった。
「礼って、何だろうね」
「……分かりません。でも」
豆の汁を思い出す。
「行かないと損な気は、します」
テレサは寝床へ入る前に、荷物の奥を確かめた。
身分の証明と、登録の下書き。二枚の紙は、濡れても折れてもいなかった。
帳面は濡らさなかったですね、合格です。
いつか聞いた言葉が、ふと浮かんだ。
目を閉じる。
厩のクロエと、袋のどくろんと、隣の寝床のエマ。壁の向こうの、遠雷のような鼾。
明日、王都に着く。




