第25話 背負える大きさの暮らし
出発まで、あと三日。
テレサは朝から森へ入った。
狩りではない。仕掛けたままの罠を、全部外して回る。
括り罠が四つ。落とし枝が二つ。場所は全部、頭に入っている。
外した罠は蔓を解き、枝を戻し、地面をならしておく。仕掛けた者が管理できない罠は、ただの危険だ。ハルトじいなら、外し忘れた罠一つで説教が一刻は続いた。
クロエが先を歩き、時々振り返る。
いつもの見回りと同じ足取りで、いつもと違うことをしている。それが分かるのか、クロエは何度も鼻先をテレサの手へ寄せた。
「最後の一つ」
沢沿いの括り罠を外し、テレサは立ち上がった。
これで、この森に自分の仕掛けは残っていない。
どくろんが横で言う。
『回収完了。設置数ト一致』
「うん」
『森ノ業務、終了デスカ』
テレサは少し考えた。
「……お休み、くらいにしておく」
『記録。休業』
終了とは、言いたくなかった。
――
午後は家の中だった。
弓の弦を外し、油を塗って布へ包む。旅に持つのは弓と矢筒、小刀、細縄、火口箱。着替えは少しでいい。
毛皮と蓄えを机に並べ、数える。
旅費。当面の宿代。仕事が見つかるまでの食い扶持。
足りる。余裕はないが、足りる。
『収支予測。約四十日分』
「仕事、それまでに見つけるから」
『楽観的推定』
「そうでも思わないと、荷物が重くなる」
家は、手放さない。
売る相手もいないし、売る気もなかった。戸締りをして、雨漏りだけ直して、残しておく。
帰るところがなくなるわけではない。
そう思えることと、実際に帰るかどうかは、別の話だ。
――
夕方、役所へ寄った。
執務室の中では、エマが知らない男の人と机を並べていた。歳はトーマと同じくらい。後任の人だろう。帳面を挟んで、何かを確認し合っている。
エマはテレサに気づくと、少しだけ席を立った。
「これ、できてます」
渡されたのは、二枚の紙だった。
身分の証明と、年少者の登録の下書き。テレサの名前が、役所の字で書いてある。
「登録の本申請は、王都の窓口でするの。この紙を持っていけば大丈夫」
「ありがとうございます」
「引き継ぎも、あと二日で終わりそう。……予定どおり、出られると思う」
エマの後ろで、後任の人がこちらを見た。
テレサは軽く頭を下げ、それ以上は聞かずに執務室を出た。
引き継ぎの中身は、役所の仕事だ。自分が聞くことではない。
家へ帰る道で、テレサは紙を一度だけ開いた。
自分の名前の下に、父と母の名前があった。
顔も、声も知らない。二歳で別れて、あとから聞いた、名前だけの二人だ。
それでも、この紙の上では、自分はちゃんと誰かの娘だった。
紙を畳み、袋の奥へ収める。
王都まで濡らさずに持っていくものが、一つ重くなった気がした。
――
家へ戻ると、日が落ちかけていた。
部屋の中は、朝より少し広く見えた。
包んだ弓。まとめた荷物。空になった罠の置き場。
クロエが定位置に伏せ、どくろんが棚の上で眼を灯している。
「出発、明後日」
『是。天候、晴レ継続ト推定』
「どうして分かるの」
『雲ト風ノ観測』
「当たるの、それ」
『六割』
「微妙」
テレサは荷物の横へ座り、もう一度だけ数を確かめた。
弓。矢筒。小刀。縄。火口箱。着替え。毛皮の残り。蓄え。二枚の紙。
少ない。
九歳から積み上げた暮らしが、背負える大きさに収まっている。
弓は布の中で眠り、罠は森から引き上げた。棚の上は、旅に持たない物だけが残って、妙に整って見えた。
竈の火を落とすと、部屋は急に夜の匂いになった。
それを寂しいと思うか、身軽と思うかは、まだ決めていなかった。
出発の朝は、よく晴れた。
六割の予報が当たった。
空は高く、村の屋根の上で、竈の煙が幾筋もまっすぐに立っている。旅立ちの日和としては、上等の部類だろう。
テレサは戸を閉め、鍵を掛けた。
掛けてから、少しだけ戸の前に立った。
九歳からの家だ。もっと言えば、二歳からの家だ。
鍵は、腰の袋の一番奥へ入れた。
戸口の前の土は、長年の足で踏み固められている。ハルトじいの足も、その上へ重ねた自分の足も、もう区別はつかない。雨の日も、獲物を担いだ日も、ここを跨いで帰ってきた。
しばらく空ける。それだけのことだ。それだけのことに、少しだけ時間がかかった。
「行こう」
クロエが立ち上がり、どくろんが肩の横へ浮かぶ。
――
村の中を抜けると、思ったより声を掛けられた。
「テレサちゃん、今日だったかい」
近所の女性が、戸口から出てくる。
「はい」
「王都なんてねぇ……。ちゃんと食べるんだよ」
「はい」
「戻ってくるんだろう?」
「……たぶん」
「たぶんでいいよ。家があるんだから」
女性は、それ以上は引き止めなかった。
井戸端の子どもたちが走ってきて、クロエの周りを回る。
「クロエも行くの?」
「行く」
「どくろんも?」
『同行シマス』
「いいなー」
何がいいのかは分からなかったが、子どもたちは満足そうだった。
薬師の家の前を通ると、老婆が軒下で薬草を束ねていた。
「行くのかい」
「はい。……軟膏、ありがとうございました」
「肩は」
「治りました」
「なら、いい」
老婆は手を止めずに言った。
「向こうでも、膿むまで黙るんじゃないよ」
「……気をつけます」
それが見送りの言葉らしかった。
――
役所の前で、エマが待っていた。
旅装だった。マントに、編み上げの靴。背中の鞄は膨らみ、肩掛けの袋がもう一つ、手にも包みが一つ。
歩き出した途端、包みが滑った。
「わ、わっ」
テレサは無言で包みを受け取り、自分の荷の上へ括った。
「ご、ごめんね。ありがとう」
「荷物持ちも護衛の仕事のうちです」
「そうなの?」
「今、決めました」
エマは笑った。それから、村役所の建物を一度だけ見上げた。
引き継ぎは昨日、終わったと聞いている。
鍵はもう、後任の人が持っている。
「……よし」
エマは小さく言って、前を向いた。
――
村境の道標まで来て、テレサは一度だけ振り返った。
屋根の連なり。畑。崩れて積み直された石垣。その向こうの、森。
トーマに追われて走った道も、シリルの露店があった広場も、ここからは見えない。
見えないが、ある。
『ますたー。感傷デスカ』
「確認。忘れ物がないか」
『荷物ハ全数一致』
「なら、いい」
本当は、少しだけ感傷に浸っていた。
言わないだけだ。
クロエは道の先で待っていた。振り返りもしない。こちらより、よほど旅慣れた顔をしていた。
――
森の入口で、テレサは足を止めた。
「ここからは、私が前を歩きます」
エマに向き直る。
「離れないでください。止まってと言ったら止まる。走ってと言ったら走る。……大丈夫、そんなには問題も起きません」
「うん。お願いします」
エマは、依頼書の時と同じ顔で頷いた。
クロエが先へ出て、鼻を上げる。
テレサは弓を背負い直し、森へ一歩入った。
湿った土と葉の匂い。
いつもの森が、今日は仕事場だった。




