第24話 どっちが先に言うか
朝、テレサは庭で弓を引いた。
引き分けて、狙って、そのまま三十を数える。
肩は、最後まで鳴かなかった。
朝の空気は薄く冷え、的にした古株まで、矢はまっすぐ飛んだ。弦を戻すと、白い息が一つ、庭に残った。
三十を数えるあいだ、肩はただの肩だった。痛みが消えるというのは、身体からその場所の名前が消えることらしい。
的の古株には、何年分もの矢の痕がある。浅いのは自分の昔の痕で、深いのはハルトじいのものだ。今日の一本は、その真ん中に近いところへ立っていた。
クロエが戸口で伸びをして、続きを待つ顔でこちらを見た。
「……治った」
布の下を確かめる。傷は塞がり、引きつれも残っていない。
棚から、畳んだ布を取る。
今度こそ、返せる。
――
トーマの執務室は、前より広く見えた。
棚の半分が空になり、床に寄せられていた紙は、紐で束ねられて壁際に積んである。人がいなくなった後の散らかり方ではなく、次へ渡すための片付き方だった。
「テレサちゃん。いらっしゃい」
エマは机で帳面をつけていた。耳には筆記具。今日は探さずに済みそうだ。
「これ」
テレサは布を差し出した。
エマは布を見て、それからテレサの肩を見る。
「肩、見せてもらっていい?」
「もう塞がりました」
「見て決めます」
結局、袖をずらして見せることになった。
エマは傷跡を確かめ、指先で軽く周りへ触れ、ようやく頷いた。
「……うん。もう大丈夫そうだね」
布は、今度は受け取られた。
「ありがとう。わざわざ洗ってくれて」
エマは布を丁寧に畳み直し、鞄へしまった。返してもらったというより、預かり直すような手つきだった。
――
「そういえば」
茶を出しながら、エマが言った。
「後任の方が、王都から来ることになったの」
「後任」
「うん。村の役所の。臨時だけど、ちゃんとした方が来てくれるって」
「よかったですね」
「うん。それでね」
エマは湯呑みを両手で持ったまま、少し間を置いた。
「引き継ぎが終わったら、私は王都へ戻ります」
行く、ではなく、戻る。
その言い方に、テレサは顔を上げた。
「戻る……?」
「あ、そっか。言ってなかったね」
エマは小さく笑った。
「私、王都の生まれなの。向こうで役所の学校を出て、研修でこの村へ来たの。一年と少し前に。トーマ先輩が、指導役で」
フェルド、という姓。
森への不慣れ。
柔らかい標準語。
十八歳で役所の仕事を知っていること。
ばらばらに置いてあったものが、ひとつの説明で並んだ。
「先輩がいなくなって、研修も続けられないから。向こうで報告して、次の配属を聞くことになってて」
「そう、ですか」
「最初の配属がこの村でよかったって、今は思ってる」
エマは湯呑みを見たまま言った。
誰の名前も出さなかったが、誰の話かは分かった。
――
「出発は、いつですか?」
「引き継ぎ次第だけど……たぶん、十日くらい先」
「王都までは、どれくらい」
「街道の宿場まで、森を二日。そこから乗合の馬車で、十日くらい」
思ったより、遠かった。
十二日。森を二日と、車の上で十日。数字にすると、村と王都のあいだに、それだけの隔絶が横たわっている。
「……来たときも、そうだったから」
そこで、エマの手が止まった。
湯呑みの中を見ている。
森を二日。
途中で一晩、外で寝るということだ。
一年前に通った道を、今度は一人で戻る。
エマにとってそれが何を意味するか、テレサは知っている。村の縁ですら、案内が要る人だ。
「あのね、テレサちゃん」
「はい」
「……ううん。なんでもない」
エマは笑って、湯呑みを置いた。
「引き継ぎ、頑張らないとね」
言いかけて、やめた。
何を言いかけたのかは、たぶん分かる。
言ってくれれば、受けるのに。
そう思ってから、テレサは自分の湯呑みへ目を落とした。
――こっちも、同じか。
王都で仕事を探すつもりだ、と言いかけて、飲み込んだところだった。
帰任の話を聞いた直後に言えば、それは「ついていく」と言うのと同じになる。
それに、護衛を買って出るのは簡単だが、言い方を間違えれば、エマはまた負い目を抱え込む。あの人は、頼んだ相手の怪我を、自分の勘定へ入れてしまう人だ。
言い方を、決めてからにしよう。
「お茶、おかわりいる?」
「……いただきます」
その日は、それ以上その話にならなかった。
――
帰り道。
村の音が遠ざかったあたりで、どくろんが口を開いた。
『観測結果』
「うん」
『双方、主要情報ヲ保留』
「……分かってる」
『エマハ、依頼ヲ発言直前デ中止。ますたーハ、王都行キヲ非開示』
「数えなくていい、そういうのは」
『非効率デス』
「言い方があるの、言い方が」
テレサは息を吐いた。
夕方の道は、耕した土の匂いがした。畑の向こうで、誰かが家畜を小屋へ入れている。
この道の音を聞くのも、あと何回だろう、と初めて思った。
エマは、頼みたいことを言わなかった。
自分は、行きたいことを言わなかった。
「……どっちが先に言うか、それだけの話」
『一致』
「負い目じゃなくて、仕事にしてほしい」
『要求仕様ガ複雑デス』
「人間は、そういうものなの」
『記録シマス』
「しなくていい」
十二日。
その数字だけが、頭に残っていた。
三日後の朝だった。
戸を叩く音に、クロエの尾が振れる。
開けると、エマが立っていた。
いつもの鞄と、胸の前に抱えた一枚の紙。
「テレサちゃん。今日は」
エマは息を吸った。
「仕事の、お願いに来ました」
役所の用事でも、怪我の様子でもなく。
仕事。
テレサは戸を広く開けた。
――
机を挟んで、紙が置かれた。
依頼書、と一行目にある。役所の書式ではない。エマが自分で線を引いて作った紙だった。
「王都までの道中の、護衛をお願いしたいの」
エマはまっすぐこちらを見ていた。
「私一人じゃ、森は越えられません。街道へ出るまでの道と、野営と、乗合馬車に乗ってからの分も。王都に着くまで、お願いしたい」
「はい」
「お金は払います。役所の護衛依頼の、規定の額で」
紙には、金額まで書き込んであった。
「道中のことは、全部テレサちゃんの判断に従います。危ないと思ったら、引き返す判断も。それから――」
エマは一度、言葉を切った。
「受ける前に、危ないと思ったら、断ってください。それでこの話は終わりにします」
一息に言い切って、少しだけ息を吐く。
言う順番まで、何日も考えてきたのが分かる並びだった。
紙の端が、少し波打っている。何度も書き直したのだろう。線は定規で引いたようにまっすぐで、その真面目さが、この人らしかった。
インクの色が、行によって少し違う。一晩で書いた紙ではない。何日かに分けて、迷いながら書き足した紙だ。
頼らないのでも、負い目で黙るのでもなく、対価と判断と断る余地をつけて、仕事として頼む。
あの人なりの答えを、持ってきたのだ。
――先に言われたな。
部屋の中で、クロエの尾が床を打つ音だけがした。
テレサは紙を見下ろし、それから顔を上げた。
「受けます」
「……ほんとに?」
「はい。ただ、ひとつ」
「な、何でも言って」
「私も、王都へ行くつもりでした」
エマが止まった。
「……えっ」
「住み込みの仕事を、探そうと思って。王都で」
「え、えっと……それ、本当に前から考えてた?」
「……事件のあと、くらいから」
「前、とは言わないと思うな」
エマは目を丸くしたまま、それから、ゆっくり笑った。
「そっか。テレサちゃん、村を出るんだ」
「まだ、仕事が見つかるかは分かりませんけど」
「うん」
「だから、護衛はちゃんと受けます。どうせ同じ道なので」
「どうせ、って言わない」
エマは依頼書を指で押さえた。
「同じ道でも、これは仕事です。お金は払います」
「多いです、これ」
「規定の額です」
「野営の分は自分のご飯です。引いてください」
「引きません。護衛を安く見積もっちゃだめ」
「雇い主が言うことじゃないです」
「雇い主だから言うの」
柔らかいまま、動かない。
布の時と同じ顔だった。
テレサは息を吐いて、引き下がった。
「……分かりました」
「うん」
棚の上で、どくろんが眼を灯した。
『契約成立ト記録シマス』
「どくろんちゃ……どくろんも、一緒よね?」
『ますたーカラノ離隔、非対応』
「置いていけないんです、こいつ」
「知ってます」
エマは笑って、足元へ目をやった。
クロエが、いつの間にかエマの横に伏せている。
「クロエも、一緒よね」
「はい。家族なので」
「うん」
犬と、しゃべる使い魔つきの護衛ですけど、と言いかけて、やめた。エマはもう、その全部を知っている。
――
「それでね」
エマは鞄から、別の紙を出した。
「王都へ行くなら、いるものがあるの。身分の証明と、テレサちゃんの歳だと、奉公とか見習いの登録も」
紙には、手続きの名前が並んでいた。役所の字で、几帳面に。
「村の役所で出せるものは、引き継ぎのついでに揃えられます。住み込み先を探すなら、王都に登録の窓口があるから、場所は教えられるし……」
説明が、途中から少し速くなる。
自分のことを話す時より、ずっと張り切っている。
「……エマ」
「ん?」
「王都のこと、私はあんまり分からないので」
テレサは言った。
「着いてからも、頼っていいですか」
エマは一瞬止まって、それから、はっきり頷いた。
「うん。今度は、私が案内するね」
村の外縁では、テレサが前を歩いた。
王都では、エマが前を歩く。
それでちょうど、貸し借りなしだ。
――
エマが帰ったあと、テレサは戸口に立って、村の方を眺めた。
どくろんが肩の横へ浮かぶ。
『行動決定ヲ確認。王都行キ』
「うん」
『同行者、エマ。契約、護衛』
「うん」
『補足。ますたーノ王都行キハ、エマヘノ同行ガ目的デハナク――』
「仕事探し。分かってる」
それは、本当だ。
行く理由は、仕事探しだ。
ただ。
一人なら、まだ行かなかった。
エマが行くなら、今でもいいと思った。
それだけのことで、それを言葉にする必要は、たぶんない。
『出発マデ、約七日』
「うん」
家の始末。戸締り。猟具の手入れ。仕掛けたままの罠の回収。毛皮と蓄えの勘定。
数え始めると、思ったより多い。
テレサは指を折りながら、家の中へ戻った。
分からないことは、着いてから確かめればいい。
いまは、出発までにやることを数える方が先だった。




