第3話 知らない天井と、喋るどくろ
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
全身が重い。腕も脚も、自分のものではないように鈍い。背中が熱を持ち、右肩は脈打つたびに鈍痛が走る。
「……生きてる?」
かすれた声だった。喉も乾いている。
まぶたを開ける。
暗かった。いや、真っ暗ではない。青白い光が、ぼんやりと空間を照らしている。
天井は高い。岩肌ではあるが、自然の洞窟とは違う。削られている。規則的に。
まるで、巨大な建物の中だった。
空気は冷たく、湿っていた。土と、濡れた石と、それから知らない何かの匂い。息を吸うたび、胸の奥まで冷えが染みる。
音がない。風の音も、葉の音も、虫の声もない。森で夜を明かした日でも、こんな静けさは知らなかった。
濡れた服が肌に貼りつき、身じろぎのたびに、冷たさの場所が変わった。
「……ここ、どこや」
知らない天井だった。
思わずそう呟いてから、自分で眉をひそめる。
――関西弁?
そんな喋り方をした覚えはない。
いや。
ある。
ある、というより。
「……何やこれ」
頭の中へ、大量の情報が流れ込んできた。
小学校。満員電車。サーバールーム。障害報告。仕様書。徹夜。デスマーチ。缶コーヒー。
心臓を締め付けるような痛み。
そこで終わる記憶。
同時に。
森。罠。弓。育ての老人。クロエ。薬草。獣道。野兎。
今日見た平手打ち。トーマ。シリル。追跡。地震。
落下。
全部が、一緒になっていた。
「……は?」
混乱した。
いや、一瞬だけ混乱した。
その次の瞬間には、不思議なほど落ち着いていた。
記憶が二つある。しかし、人格は一つしかない。どちらかがどちらかを乗っ取った感覚ではない。
四十代のシステムエンジニアだった自分も。
十二歳の狩人である自分も。
どちらも、自分だった。
「統合……?」
その言葉が、一番しっくりきた。
別人格ではない。記憶が増えただけでもない。二つの人生を経験した、一人の人間になっていた。
テレサはゆっくり息を吐いた。
吐いた息が、青白い光の中で薄くほどけて消えた。それを目で追う程度には、もう落ち着いていた。
「……落ち着け」
まず確認。状況整理。ログ取得。現状把握。
いつもの仕事と同じだ。障害が起きたら、最初にやることは決まっている。
慌てるな。思い込みで動くな。事実だけ集めろ。
「事実」
指を一本、立てた。
「私は生きてる」
腕は動く。脚も動く。痛いが、折れている感じではない。
「事実その二」
周囲を見渡す。
「知らん場所」
岩。柱。壁。床。どれも人工物だった。自然には見えない。
「事実その三」
身体を起こそうとして、気付く。
「……濡れてる」
服が水を吸っていた。冷たい。
寝ていた場所を見る。
そこには、小さな泉があった。
透き通った水。底から、淡い青白い光が湧いている。この空間の明かりの源は、これらしい。
「……これで助かった?」
転落した高さを思い出す。
普通なら死ぬ。良くて全身骨折。軽傷で済む落ち方ではなかった。
泉を見つめる。傷口を触る。血は止まっている。肩の激痛も、骨折というより打撲だった。
「回復……した?」
魔法。
その言葉が、自然に浮かぶ。
前世なら笑っていた。しかし今の自分には、魔法が存在する世界で十二年間生きた記憶がある。
だから、否定はしない。
「じゃあ、この泉が……」
回復魔法? 古代魔法? 治癒装置?
分からない。
分からないなら、保留。
「仮説」
落下。
↓
泉へ落ちる。
↓
助かった。
↓
何らかの力で治癒。
↓
記憶統合。
「……証拠は足りん」
保留。
テレサは立ち上がった。
脚に力を入れる。歩ける。少し痛む程度。
「これは……助かったと言ってええんかな」
腰を確かめる。ナイフはある。袋は空だ。野兎は見当たらない。落下の途中で失ったのだろう。今日の当たりが、丸ごと消えた。
それから、周囲を見る。
泉の少し先に、見覚えのある影があった。
弓。
矢筒も、そばに転がっている。
テレサは近づき、弓を手に取った。
幹を撫でる。割れはない。弦を弾く。張りは残っている。矢も、折れていないものが数本ある。
「……使えるな」
破損していなければ、拾って持つ。それだけの話だった。
弓と矢筒を背負い直す。重みが戻ると、少しだけ息がしやすい。
見上げる。
穴は見えない。
落ちてきたはずなのに、真上は岩盤だった。
壁沿いの柱が、あらためて目に入る。さっきは数のうちだったものが、今度は形として見えた。
等間隔で立つ柱。
柱の表面には、見たことのない文字が刻まれている。
「……読めん」
いや。
見覚えは、あった。
前世ではもちろん見たことがない。今世でも知らない。
それでも、
「古代文字……?」
という言葉だけは、自然に浮かんだ。
なぜそう思ったのか、自分でも分からない。ただ、人が何かを書き残した文字だということだけは理解できた。
テレサは柱へ近付く。
指先でなぞる。
冷たい。石とは少し違う感触だった。
「何でこんなもんが……」
こんな山奥に。誰が。何のために。
考えても答えは出ない。
保留。
「出口、探すしかないか」
その時だった。
――ピッ。
どこかで、小さな音が鳴った。
電子音。
そんな音だった。
テレサの足が止まる。
魔法世界で十二年。そんな音は、一度も聞いたことがない。
しかし前世では、毎日のように聞いていた。
サーバー。端末。監視装置。起動音。
「……誰?」
返事はない。
静寂。
再び歩き出そうとした、その瞬間。
――ピッ。
今度は、もう少し近かった。
誰かがいる。
いや。
何かが、いる。
テレサはゆっくり腰へ手を伸ばした。気付けば、ナイフを握っていた。狩人としての癖だった。
呼吸を殺す。耳を澄ます。
足元に、いつもいるはずの体温がない。
クロエは、上だ。あの縁に残った。無事でいてくれ、と思う気持ちを、いったん胸の奥へ畳む。今は、ここを出るのが先だ。
気配を探る。
……いない。
生き物の気配が、まるでない。
それなのに。
誰かの視線だけが、ある気がした。
静寂だった。
耳が痛くなるほど、静かだった。
森なら、風が鳴る。虫が鳴く。どこかで鳥が羽ばたく。何かしら、音がある。
しかし、この場所には何もない。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえた。
あの電子音は、あれきり鳴らない。
ナイフを握ったまま、心の中で百を数えた。気配は、近づきも離れもしない。
(……様子見か)
(こっちが動くまで動かへん気なら、待ち比べはこっちの負けや。ここは向こうの庭やし、水も食いもんもない)
テレサはナイフを鞘へ戻した。いつでも抜ける。それで足りる。
動きながら、観る。出口を探すついでに、この場所が何なのかも拾っていく。知らない山へ入った日と、やることは同じだ。
テレサは壁へ背中を預けたまま、ゆっくり周囲を見渡す。
天井は高い。壁も床も、一枚岩を削って作ったように滑らかだった。
テレサは歩き出した。
靴音が、乾いた空間へ響く。
カツ。カツ。カツ。
歩くたびに反響する。
「嫌やなぁ……」
隠れる場所がない。音も消せない。こちらの位置だけが、一方的に知られていく。
狩人としては、最悪の地形だった。
その時。
――ピッ。
また鳴った。
今度は、はっきり聞こえた。
電子音。
前世なら日常。今世なら異常。
テレサは反射的に柱の陰へ滑り込む。腰のナイフへ手を掛ける。呼吸を止める。耳を澄ます。
……いない。
気配はない。
獣も。人も。魔物も。
何もいない。
なのに、音だけがある。
「……何やねん」
返事はない。
数秒。沈黙。
やがて。
コツ。
何かが転がる音がした。
テレサはゆっくり視線を向ける。
通路の奥。
床の上を、小さな球が転がってきていた。
「……石?」
いや。丸すぎる。誰かが削ったような、きれいな球体だった。
両手で包める程度の大きさ。色は濃いグレー。表面は磨かれたガラスのように滑らかで、水晶を思わせる半透明の光沢がある。転がるたび、青白い明かりを鈍く映した。
ころ。
ころ。
ころ。
一定の速さで近付いてくる。
坂でも、ないのに。
「…………」
止まった。
テレサから三歩ほど離れた場所で。
球体は動かない。じっとしている。
「…………」
テレサも動かない。
一人と一個。
奇妙な睨み合いが続いた。
「…………石?」
試しに、小声で聞いてみる。
返事はない。
「違うか」
返事はない。
「生きてる?」
返事はない。
「…………」
何なんだ。
投げるか。いや。触るか。棒で転がすか。
思案していると、
カチ。
という、乾いた音がした。
「!」
球体へ亀裂が走る。
ぱかり。
上下に割れた。
中から現れたのは、
「…………」
髑髏だった。
濃いグレーの、小さな髑髏。
骨のような白さはなく、全体がガラス質で、水晶を削り出したような半透明の艶を帯びている。人間の頭蓋骨を、そのまま手のひらサイズに縮めたような形。
暗い眼窩。
ぎざぎざの歯。
どう見ても、縁起が悪い。
「うわぁ……」
思わず顔をしかめた。
「趣味悪っ」
その瞬間だった。
髑髏の眼窩へ、青い光が灯った。
カッ。
左右同時。
テレサはナイフを抜く。
「動いた!」
髑髏は、ゆっくり浮き上がった。
床から拳一つ分。
ふわり。
重力を、無視するように。
「…………」
テレサは半歩下がる。
髑髏は近付かない。
ただ浮いている。
見つめている。
そして。
口が、開いた。
「…………」
ギギ。
という音を立てて、顎が動く。
テレサは完全に固まった。
髑髏が喋る。そんな話は聞いたことがない。
魔物か。呪いか。古代の魔法か。
頭の中で、候補だけが増えていく。
そして髑髏は、妙に落ち着いた、抑揚の少ない声で言った。
『起動、完了』
テレサは数秒考えた。
考えて。
考えて。
「…………夢?」
それが、一番まともな結論だった。




