第2話 走って、揺れて、落ちた
地面の奥から、低い音が響いた。
獣の唸り声に、似ていた。
だが、獣ではない。
もっと大きい。もっと深い。
森全体が息を吸い込んだような、重く長い音だった。
クロエが立ち上がり、前足で地面を掻く。低く短い吠えが一度だけ森に散った。トーマへ向けたものではない。足の裏に伝わる何かを、嫌っている。
「っ……」
テレサは足を取られかけ、幹へ手をついた。
掌に、幹の震えが伝わった。木が、根ごと震えている。
鳥たちが一斉に飛び立つ。
木の上で騒いでいた小動物が、枝から枝へ逃げていく。
次の瞬間、地面が大きく揺れた。
「っ!」
立っていた世界が、傾いた。
片足を取られ、テレサは近くの幹へ体重を預ける。
クロエはテレサの裾に体を寄せ、すぐにまた離れた。転ばないよう支えようとしているのか、逃げ道を探しているのか、はっきりしない。
木々が軋む。
葉が雨のように降り注ぎ、地面の落ち葉が跳ねた。
地鳴りは足の裏から骨を伝い、奥歯まで届く。世界ぜんぶが、低い声で唸っていた。
背後から悲鳴が聞こえた。
「テレサさん!」
トーマの声だった。
テレサは振り返った。
離れた場所で、トーマが地面へ膝をついている。
無事らしい。
そう確認した直後、頭上で木の裂ける音がした。
反射的に横へ跳ぶ。
クロエも同時に跳ぶ。大きな枝が、今まで立っていた場所へ落ちた。
土と枯葉が舞い上がる。
揺れは、止まらない。
止まるどころか、大きくなっている。立っているだけでも難しかった。
テレサは姿勢を低くし、周囲を見る。
怖い、と思う暇はなかった。怖がるのは、あとでいい。
山林で地震に遭った時、危険なのは倒木と落石だ。斜面から離れ、太い木の真下を避け、開けた場所へ移動する。ハルトじいに教わったのか、自分で覚えたのか、もう分からない。ただ、体が知っている。
近くに、安全な場所がある。
前方の、小さな岩場だ。
テレサはクロエの背へ軽く手を触れ、進む方向を示してから地面を蹴った。
クロエも同じ方向へ走る。指示の声は要らない。長年一緒に動いてきた距離感だけで、足りた。
「待って! そっちは――」
トーマが何か叫んだ。
その声を、轟音がかき消した。
左手の斜面が、崩れた。
大小の岩が、木々をなぎ倒しながら落ちてくる。幹が折れる音が、立て続けに鳴る。
進路を変える余裕はない。
テレサは前へ跳んだ。
クロエも並んで跳ぶ。
最初の岩をかわす。
二つ目が背後を通り過ぎる。風圧が、背中を叩いた。
三つ目は、大きすぎた。
正面から避ければ、間に合わない。
テレサは岩場の縁へ足を掛け、その勢いのまま横へ身を投げた。
岩が、すぐそばを通り過ぎた。
土煙が、視界を白く塗る。
助かった。
そう思った瞬間、足元から地面が消えた。
岩場では、なかった。
地震によって生まれた、亀裂だった。
地面が割れ、その向こう側が崩れ落ちていく。
テレサの指が、辛うじて縁を掴んだ。
身体が宙にぶら下がる。
腰の獲物袋が揺れ、その重みも指にかかった。
下は暗く、底が見えない。風が、下から吹き上げてくる。深い穴の匂いがした。
縁の上で、クロエが激しく吠える。前足で土を掻き、鼻先をテレサへ向けて何度も短く吠えた。届かない位置から、それでも離れようとしない。
「テレサさん!」
トーマがこちらへ走ってくる。
顔が青ざめていた。
「動かないで! 今、助けます!」
言われなくても、動けなかった。
掴んだ土が、指の間から少しずつ崩れていく。乾いた粒が、手の甲を伝って落ちていくのが分かる。
右手を掛けられる場所を探す。
岩はない。
根もない。
地面は地震で緩み、体重を支えられない。
トーマが地割れの手前で膝をつき、手を伸ばした。
クロエは縁とトーマのあいだを行き来するだけで、それ以上は手が出せない。歯で服を掴むことも、体で支えることもできない。前足で土を掻き、短い吠えを繰り返すだけだった。
「手を!」
届かない。
あと少し。
あと少しが、遠い。
トーマが身を乗り出す。
その足元にも、亀裂が走った。
「来ないで」
テレサは、初めて声を出した。
トーマの動きが止まる。
クロエも、一瞬だけ吠えを止めた。
「でも――」
「落ちる」
自分一人ならともかく、二人落ちれば助かる可能性はさらに減る。
クロエを巻き込む気もない。
「クロ……離れて」
声は掠れた。
クロエは動かない。縁で低く唸り、また短く吠える。命令を聞かないのは、初めてかもしれなかった。
トーマは唇を噛み、それでも手を伸ばそうとした。
テレサの指先から、また土が崩れた。
もう、支えられない。
妙に冷静だった。
死ぬかもしれない、と思った。
怖い。
しかし、罠にかかった獲物へ止めを刺す時のように、頭の一部だけが静かに状況を見ていた。
右手は届かない。
足場はない。
トーマの手も届かない。
助かる方法は――ない。
「ごめんなさい」
トーマが言った。
なぜ、謝るのだろう。
追いかけてきたからか。
それとも、やはり自分を捕まえるつもりだったのか。
確かめる時間は、なかった。
掴んでいた地面が、崩れた。
身体が落ちる。
「テレサ!」
トーマの声が遠ざかった。
呼び捨てにされたのも、初めてだったかもしれない。
縁の上で、クロエの吠えが何度も重なる。次第に小さくなり、遠くなる。
暗闇の中で、テレサは反射的に頭を庇った。
肩が岩へぶつかる。
背中を強く打つ。
その衝撃で、背中の弓が外れた。
紐が肩からずれ、弓と矢筒の重みが消える。
手元には、残らない。
何度も壁へ身体を打ちつけながら、どこまでも落ちていく。
最後に見えたのは、細く切り取られた夕暮れの空と、その縁に残る黒い影だった。
その光も、すぐに閉じた。




