第1話 見てはいけないものを見た日
走ることには、慣れていた。
森の中を走ることにも、何かに追われながら走ることにも。
ただし、普段テレサを追いかけてくるのは、牙を剥いた猪や、縄張りへ入り込んだ人間を敵と見なした魔獣である。
「テレサさん、待ってください!」
人間の女性に追いかけられるのは、これが初めてだった。
しかも相手は、村役場の職員である。
テレサは肩越しに一度だけ後ろを見た。
夕暮れの森を、トーマ・リーデルが必死の形相で走ってくる。普段はきちんと整えられている髪が乱れ、仕事用の長いスカートを片手で持ち上げていた。
走るのに向いた格好ではない。向いた靴でもない。
それでも、諦める気配はなかった。
「待って! 話を聞いてください!」
嫌だった。
ものすごく嫌だった。
役場の人の「話」は、長い。しかも今回のは、長いだけでは済まない気がする。
足元では、猟犬のクロエが無言で並走している。主人が走るから走る、というだけの顔で、息も乱していない。
話の内容にまったく心当たりがないなら、立ち止まってもよかった。
テレサには、あった。
つい先ほど、見てはいけないものを見た。
――
森と街道の境に近い、普段は人通りの少ない場所だった。
狩りを終えたテレサは、仕留めた野兎を腰の袋に入れ、村へ戻る途中だった。今日は当たりの日で、袋はいつもより重い。クロエも足元を離れず、鼻先だけ忙しく働かせながらついてくる。
獣道から街道へ出ようとしたところで、誰かの声を聞いた。
男女が、言い争っていた。
女の方は、トーマだった。
村の事務仕事を一手に引き受け、何かあれば村長より先に名前が挙がるほど働いている人である。真面目で、細かくて、少々口うるさい。テレサも年に何度か、届出やら何やらで世話になる。そのたびに「一人暮らしは大変でしょう」と、余計な一言が付く。
男の方は、少し前から村へ出入りしている行商人だった。
名前は確か、シリル。
よく笑い、よく喋り、相手が欲しがりそうなものを見つけるのが上手い男だ。テレサも塩を買ったり、毛皮を買い取ってもらったりと、何度か商いをしたことがある。
値切ろうとはしなかった。
話が長くなりそうだったからだ。
テレサは立ち止まり、木々の隙間から二人を見た。
クロエは少し先で止まり、道の脇へ伏せた。耳は立てているが、敵意は見せていない。いつもの帰り道の待ち方だった。
聞き耳を立てるつもりはなかった。
道を空けてくれるまで、待とうと思っただけである。
「ですから、それでは説明になっていません」
トーマの声は硬かった。役場の窓口で聞くのと同じ声の、もっと硬いやつだ。
「困りましたね。説明したくても、私にも分からないのですよ」
対するシリルは、笑っていた。
困っている人間の笑い方には、見えなかった。
「今まで入っていたものが、急に入らなくなった。それで仕入先も理由も分からないと?」
「商売には、そういうこともあります」
「納得できません」
「私に納得させる義務があるのでしょうか?」
トーマの肩が、強張った。
テレサは、そろそろ別の道を探そうと思った。
二人が何について話しているのかは分からない。ただ、トーマが仕事の話をしていて、シリルが真面目に答えていないことだけは分かった。関わって得のある話でないことも。
「あなたは、何か隠しています」
「商人ですから。隠し事の一つや二つはありますよ」
「そういう話をしているのではありません」
「では、どういう話でしょう。まさか私があなたとの逢瀬を隠している、とでも?」
乾いた音が、森に響いた。
トーマの平手が、シリルの頬を打っていた。
鳥が数羽、驚いて枝から飛び立つ。
シリルは顔を横へ向けたまま、しばらく動かなかった。
トーマ自身も、自分が何をしたのか信じられないように、手を上げたまま固まっている。
テレサも、固まった。
クロエは短く鼻を鳴らしただけだった。警戒というより、急な音への反応に近い。
仕事の話では、なかったのかもしれない。
あるいは、仕事の話から、何か別の話に変わったのか。
どちらにしても、関わらない方がよい。
村でしばらくは消えない噂話を、いま自分は見てしまっている。見たと知られたら、話を聞かれ、事情を確かめられ、下手をすれば仲裁だの証人だのにされる。
そういうのは、全部、面倒だ。
そう判断したテレサは、一歩後ろへ下がった。
その時、足元の枯れ枝が折れた。
小さな音だった。
しかし、その場にいた二人には、十分だった。
トーマが振り返る。
木々の隙間越しに、目が合った。
「あ……」
トーマの顔から、血の気が引いた。
テレサは視線を逸らした。
見ていない。
何も見ていない。
そういうことにして、立ち去ろうとした。
「待ってください!」
背後でトーマが叫んだ。
テレサは走り出した。
クロエも、何事もなかったように並んで走り始める。
夕日が、走る二つの影を、森の奥へ長く引いていた。
「待ってくださいってば!」
待てと言われて待つ人間は、森では長生きできない。
育ての親だったハルトじいは、いつもそう言っていた。
追いかけてくるものが何であれ、まず距離を取れ。安全を確保してから、相手の正体と目的を考えろ。
考える順番を間違えるな。足を止めて考えるのは、止まっても死なない場所でだけだ。
もっとも、ハルトじいが想定していたのは魔獣や盗賊であり、村役場の職員ではなかっただろう。
テレサは木々の間をすり抜けた。
前方に張り出した根を越え、低い枝を身を沈めてかわす。どこに根があり、どこの土が緩いか、考えるより先に足が知っている。
背中では弓が揺れ、腰の獲物袋が走るたびに脚へ当たった。今日の野兎の重さが、少しだけ恨めしい。
夕方の森は足元から暗くなる。根の影が濃くなり、湿った窪みが黒く沈む。それでも迷わないのは、暗くなる順番まで覚えているからだ。
クロエは右脇を走る。足音はほとんど立てない。トーマの方を睨むことも、進路を塞ぐこともない。ただついてくる。獲物を追う時の真剣さとも、見知らぬ者を威嚇する時の張りつめた感じとも違う、散歩の延長のような走り方だった。
トーマの足音は、遠ざかっている。
本気で逃げれば、追いつかれるはずがない。
テレサは森で暮らしている。
九歳でハルトじいを亡くしてから、誰にも頼らず狩りと採集で生きてきた。足場の悪い森で走るのは、平らな道を歩くより慣れている。
対してトーマは役人だ。
仕事場は机の前である。
「話を……聞いて……!」
声がかすれてきていた。
それでも、追跡をやめない。
テレサは眉を寄せた。
そこまでして、自分に何を話したいのだろう。
平手打ちを見たことを、黙っていてほしい。
たぶん、そういう話だ。
村で噂になると困るのだろう。
トーマは真面目な人だ。仕事中に行商人と揉めて、挙げ句の果てに手を上げたと知られれば、立場が悪くなる。
ただ、それだけなら、村へ戻ってからでも話せる。
わざわざ森の中まで追いかけてくる必要はない。
テレサはもう一度、後ろを見た。
かなり距離が開いている。
トーマの姿は木々に隠れ、時折、服の一部が見えるだけになっていた。
それでも、来る。
必死に、こちらを見失わないよう追ってくる。
腰のナイフへ、自然と手が伸びた。
相手がトーマであっても、危険がないとは限らない。
普段は真面目で親切な人間でも、知られたくないことを知られれば、何をするか分からない。
ハルトじいは、人間を獣より信用するなとも言っていた。
獣は腹が減った時と、縄張りを侵された時に襲う。
人間は、笑いながらでも襲う。
その教えが正しいのかどうか、テレサには分からない。ただ、教えのとおりにして死ななかったのは確かなので、今日も教えのとおりにする。
「テレサさん!」
また名前を呼ばれた。
声には焦りがあった。
怒っているようには、聞こえない。
むしろ、怯えているようにも聞こえた。
空が暗くなり始めている。
日が沈む前に村へ戻る予定だったが、このまま直接帰るのはまずい。村まで追ってこられたら、人前で話をすることになる。
それはそれで安全かもしれない。
しかし、トーマが何を言い出すか分からない。
痴話喧嘩を目撃したなどと思われれば、面倒だった。
それに、見たと認めれば、次は「どちらが悪かったか」を聞かれる。
大人の揉め事に子どもが口を挟んで、いいことがあった例を知らない。森で一人で暮らす娘の言葉は軽く扱われるくせに、言った責任だけは残る。
テレサは、人と話すのが得意ではない。
誤解を説明するのは、もっと苦手だった。
なら、一度完全に撒いてから帰ればよい。
右手には、沢へ下りる獣道がある。普通の村人なら、道があることにも気づかない。そこへ入り、流れを少し遡れば足跡も消せる。
テレサは獣道の入口まで来て、足を緩めた。
クロエも合わせて歩調を落とす。まだ、周囲を警戒する様子はない。
トーマの足音が、まだ遠い。
ここで撒けば、終わる。
そう思う一方で、胸の奥がざわついた。
撒いても、村へ戻ればまた会う。
役場の窓口は一つしかない。届出のたびに、あの必死の形相を思い出すことになる。向こうは向こうで、こちらの顔を見るたび、言えなかった話を抱え直すのだろう。
そのとき、より面倒な話になっているかもしれない。
今、少しだけ聞いて、用件だけ済ませた方が早いのかもしれない。
面倒だった。
本当に面倒だった。
それでもテレサは、獣道へは入らず、街道寄りの開けた木立で立ち止まった。
クロエが足元で止まり、テレサの顔を見上げる。
「……クロ。待て」
短い指示だった。
クロエは座った。尾は動かず、ただ従っている。トーマへの敵意は見えない。
テレサは肩で息を整え、ようやく後ろを向いた。
仕方ない、という顔を作るのも億劫だったが、逃げるよりはましだろう。
トーマが木々の間から現れる。息は上がり、頬は赤い。それでも、捕まえたというより、追いつけたことに安堵した顔だった。
「はあ……はあ……話を、聞いてください。誤解なんです」
テレサは返事をしなかった。
聞くそぶりだけ見せればいい。余計なことは言わない。用が済めば帰る。
そう決めて、わずかに顎を引いた。
クロエが、急に耳をピンと立てた。
トーマの方ではない。森を見回している。
低く喉を鳴らし、短い唸りを一度漏らす。視線の先は、定まらない。
言われてみれば、森が静かだった。
夕暮れの鳥の声が、いつの間にか、消えている。
テレサの背筋が凍る。
クロエが、いまの走りのあいだ一度も見せなかった反応をしていた。




