第23話 勝手に思い込み、勝手に怯え
マティアスは縄を掛けられたまま、壁にもたれて座っていた。
集会所の隅は薄暗く、格子窓から夕方の光が細く差している。番をする村人は戸口に二人。テレサが入ると、彼らは黙って場所を空けた。
昼間なら人の声が満ちる場所だ。今日は、埃の匂いと、縄の匂いだけがした。
テレサが近づくと、彼は静かに顔を上げる。
「先生」
「……まだ、何か」
「聞きたいことがあります」
マティアスは苦く笑った。
「奇遇ですね」
「私にも、一つだけ、聞きたいことがあります」
「遺跡のこと、ですね」
「ええ」
「あなたが見た遺跡を、もう少しだけ」
「どこにあり、どんな場所だったのか……知りたい」
テレサは小さく頷く。
「分かりました」
「その代わり、先生も教えてください」
「トーマさんに、何があったんですか」
マティアスは目を閉じた。
長い沈黙の末、静かに語り始める。
声は、落ち着いていた。落ち着かせるのに力の要る、そういう落ち着き方だった。
「翌朝でした」
「私は、彼女の家を訪ねました」
「リュミナ触媒の件で、何か進展があったのではないかと思ったのです」
「彼女は机に向かい、報告書を書いていました」
「私を見ると、『どうして、ここへ』と」
「机の上には、研究費の監査資料も、触媒の調達を調べた書類も広がっていた」
テレサは黙って耳を傾ける。
「私は、終わったと思いました」
「秘密採掘が見つかった、と」
「全て、私を告発するためのものだと……そう思い込んでしまったのです」
マティアスは自嘲するように笑う。
「違いました」
「ですが、その時の私には、そうは見えなかった」
「彼女は、自分のしたことも含めて、明日には全て報告すると言いました」
「私の研究と調達の件も、改めて整理すると」
「それから部屋を出ようとしたので、止めました」
「話を聞いてほしかった」
「どうか、もう少し待ってほしいと」
「腕を掴みました」
その声が少しだけ震える。
「彼女は振りほどこうとしました」
「私も放しませんでした」
「……もみ合いになりました」
短い沈黙。
テレサは膝の上で、手を握った。聞くと決めて来た。なら、最後まで聞く。
「倒れた拍子に、頭を強く打った」
「それだけです」
「本当に、それだけでした」
マティアスは視線を床へ落とした。
「動かなくなって、初めて……机の上の報告書を読みました」
「そこに書かれていたのは、私ではなかった」
「あなたのことでした」
テレサの胸が締め付けられる。
息を、ゆっくり吐いた。そうしないと、次の言葉が耳に入らない気がした。
「彼女は、自分が追いかけた少女が地割れへ落ちたことを報告しようとしていた」
「ずっと、そのことで苦しんでいた」
「……私は最後まで、勘違いをしていたのです」
部屋には誰も言葉を発しなかった。
格子窓の光が、床の上で少しだけ位置を変えていた。それだけの時間、誰も動かなかった。
「それでも私は、朝に訪ねたことを隠した」
「事故報告書と、私の研究や触媒に関係する資料を持ち去りました」
「彼女が何を報告しようとしていたか知ったあとで、です」
「事故だった、などと言うつもりはありません」
マティアスは静かに首を振る。
「彼女を死なせたのは、私です」
「私が、勝手に思い込み、勝手に怯え、勝手に手を伸ばした」
「その結果です」
そう言って目を閉じた。
閉じた目尻の皺が、この数日で深くなったように見えた。
「……約束でしたね」
「今度は、あなたの番です」
テレサは短く息を吸った。
それから、遺跡へ落ちた場所と、そこで見た古代施設について、話せる範囲で静かに語り始めた。
――
マティアスの話を受け、村長たちは彼の研究室兼住居を捜索した。
トーマが書いた事故報告書。
持ち去られていた研究費監査と触媒調達の資料。
無許可の採掘と、ヴァルド石の売却を示す記録。
テレサの仮説だけだった違法採掘と、マティアス自身が漏らしたトーマ死亡への関与が、村の扱う事実へ変わっていった。
集会所を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
「お疲れ様でした」
聞き慣れた穏やかな声に、テレサは振り返る。
「……シリルさん」
荷車の傍らで、シリルがいつものように柔らかな笑みを浮かべていた。
「村の皆さんが慌ただしかったものですから。何かあったのだろうとは思っていました」
「マティアス先生でした」
テレサがそう答えると、シリルは小さく目を伏せた。
「そうですか」
短く、それだけを口にする。
やがて顔を上げると、どこか困ったように笑った。
「私の忠告、覚えていらっしゃいますか?」
テレサは少し考える。
「……深入りは危険だ、と」
「ええ」
シリルは肩をすくめた。
「結局、深入りしてしまいましたね」
「はい」
少し間を置いて、テレサは続ける。
「でも、私しか知らないことがありました」
「私が黙ったら、トーマさんは地震で亡くなったことになっていたから」
「分からないまま、それで決まるのは嫌だったんです」
シリルは小さく笑う。
「そういう方でしたか」
「?」
「いえ」
首を横に振る。
「困った方だ、というだけです」
能力を見誤ったと認めても、その笑顔の奥まで見せる気はないらしい。
評価を改められることと、信用できることは別だ。
テレサはそう記録して、追及しなかった。
夕暮れの道を、家へ向かって歩き出す。
今日聞いた声を、頭の中でもう一度だけ辿った。勝手に思い込み、勝手に怯え、勝手に手を伸ばした――。
観察した事実は正しくても、人は意味を間違える。
それは、先生も、自分も、同じだった。
戸を叩く音がした。
クロエが先に顔を上げる。尾が一度だけ、短く振れた。
警戒ではない。知っている相手だ。
戸を開けると、エマが立っていた。
両腕で包みを抱え、鞄を肘に掛け、その上に畳んだ布まで載せている。今にも何かを落としそうだった。
「テレサちゃん。あの、今日は、役所の用事じゃないんだけど」
「じゃあ、何ですか」
「……怪我の様子を、見に来たの」
「それも用事では」
「そう言われると思った」
エマは少しだけ笑い、それから真顔になった。
「川辺のこと、聞きました。肩、また開いたって」
テレサは黙って、戸を広く開けた。
エマは目を丸くして、それから中へ入った。
部屋には、干し肉と薬草と、火の残りの匂いがしている。エマが入ると、そこへ清潔な石鹸のような匂いが少し混ざった。
人を上げる部屋ではないことを、初めて少しだけ意識した。
――
椅子に座らされ、肩の布を解かれる。
「……うん。開いたのは、少しだけみたいだね」
声に、安堵が混ざった。
「はい。もう塞がりかけです」
「それでも、替えさせて。念のため」
新しい布は、エマが持ってきたものだった。結び目の位置も、力加減も、村の縁で結んでくれた時と同じだ。
「岩甲猪のときは、そばで手当てできたけど」
布を結びながら、エマが言う。
「今度は、あとから聞くだけだったから。……顔を見るまで、落ち着かなくて」
どくろんが棚の上から口を挟んだ。
『経過ハ良好。再出血ノ兆候ナシ』
「どくろんちゃんが言うなら、少し安心かな」
『チャン付ケハ不要デス』
「あ、ごめんなさい」
『謝罪モ不要デス』
エマは小さく吹き出した。初めて会った日より、どくろんへの返事がずっと自然になっている。
――
手当てが終わっても、エマはすぐには立たなかった。
膝の上で、手を組んだり解いたりしている。
「あのね」
「はい」
「私が村の縁の案内を頼まなければ、その傷はなかったでしょう。……その傷が残ってるときに、襲われたって聞いて」
来た時から、これを言うつもりだったのだと分かった。
テレサは少し考えて、順番に返した。
「岩甲猪に遭ったのは、案内のせいです。それは合ってます」
「うん」
「でも、先生が私を襲ったのは、私が調べたからです。案内は関係ありません」
「……うん」
「それに、傷が残ってると知ってて、私は川へ行きました。自分で決めたことです」
エマはしばらく黙っていた。
納得した顔ではなかった。かといって、言い返す顔でもない。
「テレサちゃんは」
ようやく口を開く。
「そうやって、全部一人で決めるんだね」
責める声ではなかった。
ただ、事実を確認する時のエマの言い方だった。
「……狩人なので」
「うん。知ってる」
それ以上は続かなかった。
――
テレサは立ち上がり、棚から畳んだ布を出した。
岩甲猪の日に、エマが肩へ結んでくれたものだ。洗って、乾かして、返すつもりで置いてあった。
「これ、返します」
エマは布を見て、それからテレサの肩を見た。
「まだ塞がりかけでしょう」
「もう使いません」
「使うかどうかは、聞いてません」
布はテレサの手へ押し戻された。
押し戻す手は、強くない。それでも、指先が布の端をきちんと畳み直してから、離れた。
「治ってから、返して」
柔らかいまま、動かない。
テレサは布を見下ろし、少しだけ黙って、棚へ戻した。
「……分かりました」
「うん」
エマは満足そうに頷き、抱えてきた包みを開き始めた。パンと、干した果実と、薬草の小袋。
「余りものだから」
余りものにしては、包み方が丁寧だった。
テレサは指摘しないことにした。
パンは、まだ少し温かかった。余りものは、普通、温かくない。それも指摘しないことにした。
――
それから、しばらく会話がなかった。
エマは持ってきた包みを解いて棚へ並べ直し、テレサは矢の手入れを始めた。
羽根を確かめ、鏃を拭く。
エマの手が止まり、耳に挟んだ筆記具を探し始める。
テレサは無言で、自分の耳を指した。
「あ」
エマが筆記具を抜き取り、少し赤くなる。
それだけだった。
会話は多くない。
それでも、黙っているのが苦しい相手ではなかった。
村の縁を回った日と、同じだった。
クロエはエマの足元まで来て、伏せている。初めての客には距離を取る犬が、もう取っていない。
――
日が傾き始めた頃、エマは立ち上がった。
「そろそろ戻ります。執務室の整理が、まだ残ってて」
「はい」
戸口まで送る。
エマは外へ出て、一度だけ振り返った。
「また来てね」
「……近くに来たら」
「うん。それでいい」
エマは笑って、村の方へ歩いていった。
テレサは戸を閉める。
棚の上で、どくろんが眼を灯した。
『観測。訪問目的ハ怪我ノ確認。実質ハ安否確認ト推定』
「知ってる」
『差シ入レハ余リ物ト申告。包装状態ハ矛盾』
「それも知ってる」
『指摘シマセンデシタネ』
「……いいの」
棚には、返しそびれた布と、丁寧に包まれた余りものが並んでいた。
テレサはそれを少し眺めてから、矢の手入れへ戻った。
事件が終わって数日。
村はようやく静けさを取り戻していた。
テレサは森へ続くいつもの道を歩く。
少し先では、クロエが道の匂いを確かめ、ときどきこちらを振り返っていた。
途中の仕掛けを一つ見て回り、空なのを確かめて掛け直す。事件のあいだも、罠は文句を言わずに待っていてくれた。
蔓の張りを指で確かめ、枝の重なりを直す。手が覚えている仕事は、考え事と一緒にできる。
風は軽く、木漏れ日が地面でゆっくり形を変えていた。こういう日の森は、歩くだけで頭の中が片付いていく。
懐には、洗って畳んだ布が入っている。
岩甲猪のあと、エマが肩へ結んでくれたものだ。見舞いに来たエマへ返そうとしたら、治ってから、と受け取ってもらえなかった。
肩は、だいぶ塞がってきた。もうすぐ、返せる。
頭上では、どくろんがふわふわと浮かんでいた。
『ますたー』
「ん?」
『今後ノ予定ハ』
「予定?」
『生活設計デス』
テレサは思わず足を止める。
「……そういや、何も考えてへんな」
狩りをして、薬草を採って、一人で暮らす。
今まではそれで十分だった。
でも。
「このまま一生、狩人いうのもなぁ」
『狩猟継続ハ現状維持案デス』
「そうやけど」
少し考えてから、小さく肩をすくめる。
「村で結婚して子ども育てて、一生終わる……いう未来は、なんか想像つかへん」
『情報更新』
『ますたーハ結婚願望ガ低イ』
「記録せんでええ」
どくろんは気にした様子もなく続ける。
『代替案』
『冒険者』
「却下」
即答だった。
『早イ』
「危ないし、不安定やし」
『確カニ』
「依頼なくなったら食べていけへんやろ」
『論理的一貫性アリ』
「でしょ」
少し沈黙が流れる。
「では」
『前世知識ヲ利用シタ事業ヲ推奨』
「例えば?」
『古代技術ノ再現』
「無理」
『知識ノ販売』
「捕まりそう」
『遺跡ノ管理者』
「そんな仕事ない」
どくろんは数秒黙り込む。
『情報不足』
『現代社会ハ難解デス』
「せやろ」
思わず笑ってしまう。
結局、どくろんも万能ではない。
古代文明のことなら何でも知っているのに、今の世の中になると妙に頼りない。
「……王都とかなら」
ぽつりと口をついた。
「仕事、あるんかな」
『可能性アリ』
「住み込みとか」
少し考える。
「……メイドとか?」
『家事技能ハ保有』
『掃除』
『料理』
『洗濯』
『適性アリ』
「まあ、それくらいしか取り柄ないしな」
『狩猟技能』
『隠密技能』
『戦闘能力』
『推理能力』
『ソレラハ一般的メイドノ保有技能デハアリマセン』
「最後の二つは絶対ちゃうやろ」
思わず吹き出す。
少し先で、クロエが足を止めた。
「それに、うち一人やないしな」
「同行対象。クロエ。どくろん」
「犬と、しゃべる髑髏の使い魔つきで住み込める仕事って、あるんかな」
『現代雇用情報。情報不足』
「肝心なところで役に立たへんな」
『古代施設管理職ナラ適性アリ』
「そんな仕事ない言うたやろ」
王都も、メイドも、今は候補にすぎない。
行くと決めるなら、道も、旅費も、働き口も確かめなければならない。
事件が終わって、次に分からないことができた。
まずは、王都へ行く方法から調べてみよう。
道や手続きのことなら、役所の人が詳しいはずだ。
……布も、そろそろ返しに行かないと。




