第22話 川音の決着
刃先が喉へ届く前に、テレサは半歩だけ外へずれようとした。
肩の傷が引きつる。
身体をひねる動きが、いつもより半拍遅れた。
遅い、と頭が冷たく告げる。喉の奥で、心臓が跳ねた。
刃先が襟元をかすめる。
布の裂ける薄い音。冷たさが一筋、鎖骨の上を走った。
いつもなら、最初の一動で手首を流していた。
今日は届かない。
「クロ!」
草むらが鳴った。
クロエがマティアスの側面へ走り込み、短剣の間合いへは入らず、低く身を構えた。
唸りが川音の下を走る。
マティアスの目が、ほんの一瞬だけクロエへ逸れた。
それで十分だった。
一瞬。クロエが身体を張って作った、たった一瞬。
テレサは重心を落とし、短剣を持つ手首を革手袋で掴む。
肩の力で腕を返さない。
肘を身体の近くへ留めたまま踏み込み、全身の向きを変えて手首を外へ流す。
短剣が指から抜け、河原の石へ落ちた。
硬い音が、川音を割って響いた。
マティアスは止まれない。
踏み込んだ足を払い、崩れた身体の横へ回る。なお向き直ろうとした顎へ、掌底を一度だけ打ち込んだ。
マティアスの身体から力が抜けた。
「クロ、待て」
クロエは追わず、その場で足を止めた。
どくろんは、命じられたとおり一声も発しなかった。
静寂が戻った。
川のせせらぎだけが、何事もなかったかのように流れ続けている。
西日が水面で細かく割れて、まぶしさに一度だけ目を細めた。革手袋の中の掌が、汗で冷たい。
テレサはゆっくりと息を吐き、河原へ落ちた短剣をマティアスの手が届かない場所まで蹴り離した。
足元には倒れたマティアスがいる。
その胸はかすかに上下していた。
「……生きています」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「どくろん。もういいよ」
どくろんが淡々と報告した。
『生命反応ヲ確認。致命傷ナシ。失神状態ト推定』
「そう」
『追加。ますたーノ肩部創傷ニ再出血ヲ確認』
布の下が熱を持っていた。濡れた重さが、内側でゆっくり広がっていく。
「……分かってる」
『事前警告ト一致』
「今それ言う?」
『記録ノ再提示デス』
テレサはしゃがみ込み、マティアスが意識を失っていることを改めて確認する。
もう戦う必要はない。
安堵とともに、張り詰めていた力が少しだけ抜けた。
遅れて、指先が震え始めた。戦っている間は出なかった震えだ。
テレサは拳を一度握って、開いた。震えは、少しだけ収まった。
「村へ知らせないと」
立ち上がった、その時だった。
遠くから複数の足音が近づいてくる。
「テレサー!」
「いたぞ!」
聞き慣れた村人たちの声だった。
先頭を走ってきた猟師の一人が息を切らしながら立ち止まり、目を見開く。
「先生……?」
倒れているマティアス。
その傍らに立つテレサ。
周囲に残る戦いの跡。
誰もが一瞬、言葉を失った。
「何があったんだ……?」
テレサは静かに答える。
「先生に襲われました」
ざわり、と空気が揺れる。
「……何だって?」
「遺跡の話をしていたら、急に」
村人たちは互いに顔を見合わせる。
信じ難いという表情だった。
それでも、倒れているマティアスの姿が現実を物語っている。
猟師の一人が慎重に近づき、脈を確かめる。
「……生きてる」
「縄だ。両手を後ろで縛れ」
「気を抜くな。目を覚ますかもしれん」
手際よく縄が掛けられ、マティアスの両手首が後ろで固く縛られていく。
その様子を見届けると、テレサはようやく肩の力を抜いた。
傷の痛みに眉が寄る。
クロエがすぐ隣へ戻り、テレサの足へ鼻先を寄せた。
濡れた鼻の冷たさで、ようやく足元の感覚が戻ってきた。
「大丈夫。助かったよ、クロ」
クロエは短く鼻を鳴らし、テレサの掌へ頭を押し付けた。それきり、倒れたマティアスの方は見ない。仕事は終わった、という顔だった。
やがて、マティアスが低く呻いた。
瞼が開き、自分を囲む村人と、後ろ手に縛られた両腕を見る。
テレサは、その目が自分へ戻るのを待った。
「先生」
「……まだ、そう呼ぶのですか」
「ひょっとして、トーマさんもあなたが?」
マティアスの唇が動く。
「……事故だった」
村人たちが息を呑んだ。
それは否定ではなかった。
マティアス自身が、違法採掘とトーマの死のあいだへ線を引いた。
「詳しい話は、村へ戻ってから聞きます」
テレサはそれ以上を重ねなかった。
マティアスはしばらく俯いたまま動かなかった。
縄で拘束された両手は固く縛られたまま。
村人たちも、誰一人として口を開かない。
沈黙の中で、テレサが静かに言った。
「そういえば。遺跡は、ありました」
その一言で、マティアスの肩がぴくりと震えた。
「……何?」
聞き間違いではない。
そう確かめるような、小さな声だった。
「古代施設です。先生が探していたものです」
マティアスはゆっくりと顔を上げる。
その目には、信じたい者と信じることを恐れる者、その両方の色が浮かんでいた。
「……どこで」
「先生が調査していた場所の近くです」
短い沈黙。
テレサは続ける。
「どくろんも、そこで見つけました」
どくろんがマティアスの正面へ浮かぶ。
『肯定。長期閉鎖施設内ニテ回収。施設ノ実在ヲ確認』
その言葉を聞いた瞬間だった。
マティアスの瞳が大きく見開かれる。
「……あった」
掠れた声が漏れる。
「本当に……あったのか」
誰へ向けた言葉でもない。
長年、古文書と地形を重ね、胸の奥で問い続けてきた、その答えだった。
「は……はは……」
小さな笑いが漏れる。
やがて、それは抑え切れなくなった。
「ははは……そうか……!」
「そうだったのか……!」
「私は……間違っていなかった……!」
笑いながら、涙がこぼれる。
長年、証明できなかった学説。
資料と地形から組み立て、それでも成果として示せなかった夢。
それは確かに、この世界に存在していた。
「見つかったんだ……」
「本当に……」
震える声は、そこで止まる。
ゆっくりと視線が自分の両手へ落ちた。
縄で縛られた手首。
犯罪者として拘束された、自分の姿。
遺跡を見つけたのは、自分ではない。
その栄誉を受けることも、もうない。
長い年月を費やして追い続けた夢は、本物だった。
だが、その夢に辿り着く資格だけは、自ら失ってしまった。
笑いは、いつしか嗚咽へと変わっていた。
学説が正しかったことと、ここまでに選んだ手段は別だ。
テレサはその二つを混ぜず、何も慰めずに見ていた。
誰も、その場で言葉を掛ける者はいなかった。
川のせせらぎと、嗚咽だけが、夕方の河原に続いた。
テレサは肩の布を上から押さえた。掌に、鼓動と熱が伝わる。
生きて、立っている。
まずは、それだけでよかった。




