第21話 川辺で待つ
家を出る前に、テレサは腰の装備を一つずつ確かめた。
小刀。細縄。革手袋。
どれも狩りへ出るときには珍しくないものだ。今日は弓を持たなかった。獲物を仕留めに行くわけではないし、村の中を弓を担いで歩けば、かえって余計な印象を残してしまう。
細縄だけは、いつもより少し長いものを選んだ。
輪にした縄を腰へ巻き、服の上から軽く叩く。
肩をゆっくり回してみる。
エマが結んだ布の下で、傷が鈍く引きつった。
昨日よりはましだ。腕も上がる。
けれど、治ったわけではない。
『ますたー』
頭上のどくろんが、淡々と呼んだ。
『肩部創傷ノ残存ヲ確認。可動速度、平常時ヨリ低下』
「動くなら十分」
『不十分。マティアスハ負傷情報ヲ取得済ミ』
テレサは縄から手を離した。
『手負イト認識サレタ対象ハ、抵抗能力ヲ低ク見積モラレ、襲撃対象ニ選択サレヤスイ』
「……先生にも、軽い怪我だって話したから」
『負傷ヲ誘因トシテ利用スル判断ハ非推奨』
「餌にするんじゃない」
テレサは短く息を吐いた。
「怪我してるのに、ないふりして一人で行くのをやめるだけ」
戸口では、クロエが当然のように立ち上がった。
テレサはクロエの前へ手を出し、ついてくる合図を送った。
人を誘い出す場所へ連れていくが、クロエを刃へ飛び込ませるつもりはない。
それでも、傷が動きを遅らせた時に、死角を一つ任せられる。
「クロ。川まで一緒に」
クロエが静かに尾を振った。
それからテレサは戸を開けた。
外は穏やかだった。
日差しはまだ高く、村の中央では何人かの女たちが立ち話をしている。荷車の脇では男たちが壊れた車輪を直し、子どもたちはその周囲を邪魔にならない程度に走り回っていた。
テレサは裏手の道を使わなかった。
川へ向かうだけなら、家々の間を抜けた方が早い。けれど、わざわざ遠回りをして、村の中央を横切る。
「あら、テレサ。どこへ行くの?」
声を掛けてきた女へ、テレサは足を止めた。
「少し川まで。家にいると、頭が詰まりそうで」
「地震からこっち、ずっと難しい顔してるものね」
「そうかな」
曖昧に笑う。
女は呆れたように眉を上げた。
「暗くなる前に帰りなさいよ」
「うん。そのつもり」
もう一人が会話へ入ってくる。
「川なら下流へ行きなさい。上の方はまだ地面が緩んでるかもしれないから」
「分かった。下流の浅瀬の方へ行くね」
行き先を口にしてから、テレサは再び歩き出した。
広場を抜ける。
荷車を直していた男の一人とも目が合った。軽く手を上げられたので、テレサも同じように返す。
子どもたちが走ってきた。
「テレサ、遊ぶ?」
「今日はやめておく。また今度ね」
「どこ行くの?」
「川」
「魚?」
「気分転換」
何人が聞いていたかは数えなかった。
数える必要もない。
少なくとも、テレサがこの時間に、クロエと川へ向かったことは残る。
それで十分だった。
村の端を越えると、人の声は少しずつ遠ざかっていった。
畑の脇を通り、踏み慣らされた細道を下る。背丈の低い草が風になびき、その向こうから水の流れる音が聞こえてくる。
テレサは一度だけ振り返った。
人影はない。
だからといって、誰もついてきていないとは限らない。
視線を道へ戻し、歩調を変えずに川辺へ向かった。
川幅はさほど広くない。
水は浅く、底の丸石まで透けて見えた。大雨でも降らなければ、子どもでも向こう岸へ渡れる程度の流れだ。
河原へ降りる手前で、テレサは足を止めた。
背丈のある草が、林の影へ続いている。
テレサが二本の指を下げると、クロエは音も立てずに草むらへ入り、身体を伏せた。
「ここで待て。呼んだら、横から出て」
クロエは動かない。
噛みつかせるためではない。
一瞬だけ相手の目を外し、自分が動き直す時間を作るためだ。
「無理に出たら駄目」
もう一度、待機の合図を見せる。
草の向こうで、クロエの耳だけがこちらへ向いた。
風下を選んで伏せさせてある。匂いで先に気取られない位置。それでも自分の心音までは隠せない気がして、テレサは胸を一度だけ押さえた。
テレサは大きな平石へ腰を下ろした。
村からは少し離れているが、まったく戻れない距離ではない。声を張っても届かないだろうが、走れば村の端まではそれほどかからない。
周囲を見回す。
草むら。疎らな木々。川へ降りる細道。
襲ってくるなら、背後の林か、村から続く道。
見通しは悪くない。
逃げるなら川下。
足場の位置も頭へ入れる。
そこまで確かめてから、テレサは息を吐いた。
確かめておいて、こうも思う。
先生が、そこまでするだろうか。
話しに来る。探りに来る。危ないから近づくなと、困った顔で言う。
想像できるのは、そこまでだ。
昔から知っているあの顔の上へ、刃を持った先生を重ねられない。
それでも、逃げ道は数えておく。
外れたなら、それでいい。
「出てきていいよ」
腰の袋が、ごそりと動いた。
濃い灰色の髑髏が、ゆっくりと顔を出す。ガラスのような表面に日光が反射し、眼窩の奥で淡い光が灯った。
『周辺走査ヲ実行。視認範囲内ニ人型反応ナシ』
「人型反応って、目で見ただけでしょう」
『訂正。視覚情報ニ基ヅク周辺確認。異常ナシ』
「素直でよろしい」
テレサはどくろんを膝の上へ載せた。
川面を風が渡る。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
水の音を聞いているだけでも、家に籠もっているよりは頭が軽くなる。事件のことを忘れたわけではない。忘れられるはずもない。
けれど、考えるべきことはもう考えた。
あとは相手が動くかどうかだ。
陽が少し傾き、川面の光の粒が細かくなる。上流から流れてきた葉が、浅瀬で一度回って、また流れていった。
待つのは、狩りで慣れている。ただ、待つ相手が人だというだけで、こんなに落ち着かないものかとも思う。
テレサは川から小石を一つ拾った。
指先で転がしてから、流れへ放る。
小さな音を立てて沈んだ。
「ねえ。古代の人たちも、川を見てぼんやりしたりしたのかな」
『質問意図ヲ確認。古代文明人ノ余暇行動ニ関スル照会ト判断』
「うん。そういうのでいい」
『記録上、自然景観ノ観賞ヲ目的トシタ施設ハ複数存在』
「施設まで作ったんだ」
『肯定。水景、植生、人工光源ヲ組ミ合ワセタ休養区画ガ一般的ニ設置サレテイタ』
「贅沢ね」
『訂正。精神負荷ノ軽減ハ作業効率ノ維持ニ有効。合理的設備ト分類』
「そういう言い方をすると、急に風情がなくなる」
『風情ハ設備評価項目ニ含マレナイ』
テレサは小さく笑った。
こういうところは、出会った頃から変わらない。
何を聞いても、どくろんは記録や機能として答える。そこへ人間らしい意味を見出そうとすると、たいてい無機質な言葉で返される。
それでも、以前より会話は続くようになった。
「でも、景色をきれいだと思ったから作った人もいたでしょう」
『推測領域。個体差ノ存在ハ否定デキナイ』
「つまり、いたかもしれない」
『可能性ハ存在』
「最初からそう言えばいいのに」
『回答精度ガ低下スル』
「会話のしやすさは上がるよ」
『会話効率ト回答精度ノ優先順位ガ未設定』
「じゃあ、今度設定してあげる」
『管理権限ヲ確認デキナイ』
「けち」
『評価ヲ棄却』
また小石を投げる。
今度は水面を一度だけ跳ねてから沈んだ。
テレサは流れていく波紋を眺めた。
「あなたがいた時代にも、研究者はたくさんいた?」
『肯定。研究職、技術職、解析職、管理職ヲ含メ、多数存在』
「研究のためなら、何でもする人も?」
どくろんの眼窩の光が、わずかに明滅した。
『質問範囲ガ広範。倫理規定違反者ノ存在ニ関スル照会ト判断』
「そう」
『存在シタ』
「やっぱり」
『文明規模ト倫理規定違反者ノ発生率ニ、直接的相関ハ確認サレテイナイ。技術水準ノ高低ニ関係ナク、規則違反、情報隠蔽、人体侵害、資源ノ不正利用ハ発生』
「昔も今も、そこは変わらないんだね」
『人間種ノ基本的傾向ニ大幅ナ変化ハ確認サレテイナイ』
「嫌な言い方」
『記録ニ基ヅク回答』
テレサは膝を抱えた。
研究。
昔も、今も。
誰かを救うためのものにもなる。
誰かを傷つける言い訳にもなる。
知識そのものに善悪はない。使う人間が何を優先するかで、形が変わる。
マティアスは最初から、人を殺すために研究を始めたわけではない。
きっと、本当に村を救いたかったのだ。
少なくとも、始まりは。
「研究って、完成したら終わるのかな」
『否定。一般的ニ、一研究課題ノ達成後ハ新規課題ガ発生』
「そういう意味じゃなくて」
『質問ノ再定義ヲ要求』
「……何かを犠牲にして研究を続けて、その研究が完成したら、その人は満足できるのかなって」
どくろんはすぐには答えなかった。
風が吹く。
草が擦れ合う音が、川音へ混ざる。
『該当個体ノ心理状態ニ依存。一般解ハ提示不能』
「そう」
『補足。目的達成ノタメニ許容範囲ヲ拡大シ続ケタ場合、達成後ニ元ノ基準ヘ復帰スル保証ハナイ』
テレサは横目でどくろんを見た。
「ずいぶん人間らしい答えね」
『行動記録ノ統計的傾向ニ基ヅク』
「やっぱり風情はない」
『風情ハ回答要件ニ含マレナイ』
テレサは笑った。
それから、しばらく黙って川を眺めた。
静かだった。
静かすぎるくらいに。
川音の向こうの気配を、耳が勝手に数え始めている。
鳥の声が一度、遠くで聞こえた。
テレサはその方向へ顔を向けず、右手を腰の近くへ置いた。
「どくろん」
『待機中』
「今から何があっても、邪魔しないで」
『命令内容ガ不明瞭』
「声を出さないで。私が呼ぶまで」
『危険状況下ニオケル警告機能ノ停止ヲ要求シテイルト判断』
「そう」
『非推奨』
「分かってる」
『生命維持ヲ優先スベキ』
「それも分かってる。でも、相手にあなたがここにいると知られたくない」
どくろんの光が一度、明滅した。
『命令受諾。厳密発声制限ヘ移行。ますたーノ呼出シマデ発声ヲ停止』
眼窩の光が弱まる。
テレサはどくろんを袋へ戻した。
紐は完全には締めない。中から外を確認できる程度に隙間を残す。
それから立ち上がり、服についた草を払った。
帰るには、まだ少し早い。
けれど、これ以上ここにいても仕方がない。
何も起きなければ、それでいい。
今日ではないというだけだ。
テレサは川へ背を向けた。
そのとき。
背後で、草が鳴った。
風ではない。
一歩分。
心臓が、ひとつ大きく打った。
テレサはゆっくり振り返る。振り返る速さまで、普段のままに。
人が慎重に足を置いた音だった。
テレサは振り返らない。
腰の小刀にも触れなかった。
代わりに、巻いてある細縄の端へ指を掛ける。
「散歩ですか」
聞き慣れた声だった。
穏やかで、少し疲れている。
テレサはゆっくりと振り返った。
少し離れた場所に、マティアスが立っていた。
いつもの外套を身につけている。
表情も、普段と大きくは変わらない。
ただ、右手だけが外套の陰へ隠れていた。
「マティアスさん」
テレサは驚いたふりをしなかった。
「こんなところで会うなんて、珍しいですね」
「ええ」
マティアスは答えた。
視線が一度、テレサの肩で止まった。
昨日聞いた軽傷を、確かめるような短い視線だった。
それから周囲へ目をやる。
クロエの姿は見えない。
視線がテレサの腰へ落ちる。
小刀。
縄。
狩人なら、持っていて不自然ではない。
彼はそう判断したようだった。
「少し、話をしてもいいですか」
「何の話でしょう」
「あなたが調べていることについてです」
テレサは黙ってマティアスを見た。
向こうから来た。
それだけで、ほとんど答えは出ている。
それでもテレサは口元をわずかに緩めた。
「ちょうどよかったです」
「何がですか」
「私も、マティアスさんに聞きたいことがありました」
マティアスの目が細くなる。
「発掘現場のことです」
川音だけが続いた。
マティアスは動かない。
表情も変わらない。
けれど、外套の陰にあった右腕が、ほんのわずかに強張った。
テレサは続ける。
「地震で崩れた、あの発掘現場。まだきちんと調べていませんよね」
「何のことでしょう」
「明日、村の人たちと確かめに行きます。発掘現場だけじゃなくて、周辺のヴァルド石の鉱脈も調べた方がいいかもしれません」
「危険です」
返答が早かった。
「地盤が安定していません。再び崩れる可能性もある」
「だから放っておくんですか」
「安全が確認されるまでは、近づくべきではありません」
「安全が確認されたら?」
マティアスは答えなかった。
テレサは一歩だけ、村の方向へ身体を向けた。
「このままにはできません。明日、きちんと見てもらいます」
「待ってください」
今度は、声にわずかな硬さが混じった。
テレサは足を止める。
「何ですか」
「その必要はありません」
「どうしてです?」
「危険だからです」
「それだけ?」
「それだけで十分でしょう」
「私には、そうは思えません」
テレサはマティアスを真っ直ぐ見た。
「先生は、あそこでヴァルド石を掘っていましたね。許可を取らずに」
マティアスの顔から、表情が消えた。
川の音が、急に遠くなった。世界が、この数歩の距離だけになる。
「リュミナ触媒は、止まった採掘用ゴーレムを動かすために要った。掘った石を売って、研究を続けていた」
否定は返ってこなかった。
テレサが自力で辿り着いたのは、ここまでだ。
無許可の採掘。触媒。売られた鉱石。
トーマの死まで、まだ一本にはつながっていない。
けれど、マティアスの目には、そうは映らなかった。
秘密を一つ知られたのではない。
すべてを見抜かれた。
その恐怖だけが、彼の顔から昔の先生を消していく。
風が止んでいた。西日が川面で砕け、マティアスの影が河原の石の上で長く伸びる。
テレサは重心を、わずかに沈めた。
マティアスは外套の中から右手を出した。
短剣が握られていた。
「……あなたも」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
むしろ、どうしようもなく疲れた声に聞こえた。
「邪魔をするんですね」
マティアスが踏み込んだ。
刃が、真っ直ぐテレサの喉元へ走った。




