第18話 浅くても怪我です
村へ戻ると、日はまだ落ちきっていなかった。
岩甲猪の報せと、討伐後の処理の手配は、エマが役所として引き受けた。場所は目印を置いてある。あとは村の男たちの仕事だ。
テレサは家へ帰ろうとした。
「テレサちゃん」
呼び止められた。
「薬師さんのところ、寄ってから」
「浅いので」
「浅くても怪我です」
二度目だった。
この言い方をする時のエマは、動かない。
テレサは息を吐いて、村外れへ向きを変えた。
――
薬師の家は、村外れに近い小さな家だった。軒下に薬草の束がいくつも下がり、乾いた匂いが戸口まで届いている。
中は薄暗く、壁は天井まで棚だった。素焼きの壺。束ねた根。糸で吊るした乾いた花。竈には小さな鍋がかかり、煮詰めた薬草の、苦くて少し甘い匂いが満ちていた。
出てきたのは、腰の曲がった老婆だった。
「岩甲猪だって?」
報せはもう届いていた。村は狭い。
老婆はテレサを座らせ、肩の布を解いた。傷を見て、指の腹で周りを押す。
「……浅いね。これしきで、わざわざ来たのかい」
「私が、連れてきました」
エマが横から言う。
老婆は鼻を鳴らした。
「いい心がけだ。狩人は、放っておくと膿むまで黙ってるからね」
「……」
「石の傷は膿みやすい。洗って軟膏を塗っとく」
手当ては短かった。迷いのない手つきで、痛むところにだけ触れない。
軟膏は冷たく、塗られたところから熱が引いていく。壺から指二本ですくう量まで、決まっているようだった。
肩の横で浮いているどくろんを、老婆は一度だけ見た。
「近ごろの狩人は、妙なものを連れてるね」
「使い魔です」
『使イ魔デハ――』
「はいはい」
老婆はそれ以上聞かなかった。診るのは怪我だけ、という顔だった。
軟膏の上から布を当てる段になって、老婆は解いた布を持ち上げた。
「これを結んだのは、あんたかい」
エマが、少し背筋を伸ばした。
「は、はい」
「悪くない。締めすぎず、ずれない。……同じように結んどきな」
エマは布を受け取り、村の縁でしたのと同じ手順で、肩へ結び直した。
結び目の位置も、力加減も、同じだった。
「それと」
老婆はテレサを見た。
「二、三日、弓は引くな」
「……明日は」
「引くなと言ったよ」
取りつく島もなかった。
どくろんが何か言いかけて、老婆に一瞥され、黙った。専門家というものを、この端末なりに分類したらしい。
――
外へ出ると、空は暮れ始めていた。
軒下の薬草が夕風に揺れ、乾いた葉同士の触れる、小さな音を立てていた。
エマは戸口の脇で帳面を開き、筆記具を走らせた。討伐の場所、道の被害、怪我。今日見てきたことを、順番に書きつけていく。
書き終えて、帳面を閉じる。
「これで、今日見て回る分は全部です」
それから、少しだけ笑った。
「最後の一人が、テレサちゃんだったの」
テレサは返事に迷った。
村の外縁の家々と同じ帳面に、自分の怪我が載っている。
「……大げさです」
「大げさでいいの。抜けてるよりずっといい」
エマは帳面を鞄へしまい、鞄を抱え直した。
「今日は、本当にありがとう。……ごめんね、は言わない方がいいんだよね」
「はい」
「じゃあ、ありがとう、だけ」
夕暮れの道で別れる。
エマは役所の方へ、テレサは家の方へ。
肩の軟膏が、歩くたびに薬草の匂いを立てた。
どくろんが横へ並ぶ。
『専門家ノ処置ヲ確認。指示ハ、二、三日ノ射撃禁止』
「聞いてた」
『遵守ヲ推奨』
「……明日、試すだけなら」
『推奨シマセン』
「試すだけ」
どくろんは数秒黙った。
『記録シマス。ますたーハ指示ヲ軽ク扱ウ傾向』
「記録しなくていい」
家までの道は、いつもより少しだけ長く感じた。
疲れている。
それでも、悪い一日ではなかった気がした。
翌朝。
弦を引き分けたところで、肩が止まった。
エマが結んでくれた布の下、浅い傷が熱を持って突っ張る。引けないことはない。ただ、狙いを定めるあいだ保たない。
この状態で射れば、仕留め損なう。手負いの獲物を森へ帰すのは、外すより性質が悪い。
テレサは狩りを諦め、弓を下ろした。
試すだけ、と言って出てきた。薬師の言ったとおりだった。
体が空いたなら、やることは決まっている。
村へ戻り、マティアスの工房へ足を向けた。
シリル。リュミナ触媒。トーマさん。そして、マティアス先生。
手元の札は増えた。増えただけで、どの札とどの札が同じ山なのか、まだ分からない。
扉を叩く。
「こんにちは」
「どうぞ」
穏やかな声に迎えられて中へ入ると、工房は昨日のままだった。
壁際に並ぶ鉱物標本。机を埋める資料の山。開き癖のついた古文書と、書き込みだらけの周辺地図。梁から吊るされた薬草。インクの匂い。
一朝一夕では、こうならない。何年ぶんもの「まだ分からない」が積もって、この部屋の形になっている。
「また来てしまいました」
「歓迎しますよ。ちょうど手を休めようと思っていたところです」
マティアスは机の端へ椅子を寄せてくれた。
「村では、研究の話ができる相手が少ないものですから」
「先生のお話、面白いです」
「そう言っていただけると嬉しいですね」
初めて会った日から変わらない笑み。
(崩れへんなあ。)
シリルは、場面ごとに顔を選んで出してくる。マティアス先生は、最初から一枚しか出していない。
選んでいないのか。一枚に決めて、動かさないのか。外からは、どちらも同じに見える。
机の端には、湯気の立つ器が一つ。手を休めようと思っていた、は嘘ではないらしい。細かいところが、いちいち本当なのだ。この人は。
テレサは壁の標本へ目を移した。
「この標本、先生が集めたんですか?」
「ええ。自分で採ったものも、買い求めたものもあります」
「シリルさんから買ったものも?」
視線が、ほんのわずかに揺れた。
「……商人とは、仕事上の付き合いがあります」
「リュミナ触媒を買っていた、とおっしゃってましたよね」
「ええ」
「以前は」
「今はもう、手に入りません」
昨日と同じ答えだった。言い直しも、迷いもない。
ここは何度なぞっても、同じ音しか鳴らない。
テレサは押すのをやめ、話を村へ戻した。
「昨日、エマと村の縁を回ったんです」
椅子の背に掛かっていたマティアスの指が、止まった。
「……エマさんと」
「地震のあと、道や家がどうなってるか確かめたいからって。案内を頼まれて」
「そうでしたか。役所も忙しいようですね」
相槌は滑らかだった。指だけが、まだ椅子の背にある。
「外れの道で、魔獣が出ました」
「まあ。村の近くで?」
「縁のほうです。少し怪我をしましたけど、浅いので」
「怪我」
マティアスの眉が寄る。
視線はテレサの顔から動かない。肩の布を探すそぶりもなかった。
「大丈夫ですか。無理はしていませんか」
「大丈夫です。浅いですから」
「……それならいいのですが。しばらくは安静に。森の仕事は、傷に障りますよ」
「エマは無事でした」
「それは何よりです」
指が、椅子の背から離れた。
心配の言葉に嘘の色はない。子どもの怪我に眉を寄せる先生は、昔から知っている先生のままだ。
その同じ人の中に、エマの名前で指を止める先生がいる。
どちらかが偽物、と決めるのはまだ早い。
「山側の道は、崩れたところが多かったです」
「ああ、あちらは元々足場が悪い。地震では相当やられたでしょう」
「崩れた斜面って、土の下の石がよく見えるんですね」
「地層が露出しますからね。調べる側には、ありがたい眺めですよ」
「この辺でも、ヴァルド石が採れる場所ってあるんですか?」
返事が、来なかった。
一拍。
二拍。
部屋の音が消える。梁の薬草が擦れる音さえ、聞こえた気がした。
テレサは首の後ろが張るのを感じながら、呼吸だけは変えなかった。
「……どうして、そう思ったんです?」
答えの代わりに、問いが返ってきた。
「山が多いですし」
テレサは首を傾げてみせる。
「村縁を歩いてて、なんとなく」
「誰かから、聞きましたか?」
「いいえ」
「そうですか……」
マティアスは視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。
「鉱石そのものなら、珍しくありません。山へ入れば見つかることもあります」
「ヴァルド石も、ですか」
「……一般的な鉱石の話です」
「そうなんですね」
「ですが、価値のある鉱石となれば話は別です。滅多に見つかるものではありませんよ」
「なるほど」
内容だけ聞けば、学者の講義だった。筋も通っている。
ただ、順番がおかしい。
あるか、ないか。先生はそれを答える前に、こちらがどこで知ったかを確かめた。
その後は他愛のない話をした。薬草の乾き具合。地震のあとの井戸。村人たちの様子。
話しながら、マティアスは二度、湯を注ぎ足してくれた。器を扱う手つきは、標本を扱う時と同じで丁寧だった。
マティアスは最後まで穏やかだった。
「今日はありがとうございました」
「またいつでも来てください」
扉が閉まるまで、笑顔は変わらなかった。
閉まる寸前、机へ戻っていく背中が見えた。肩の線が、来た時より少しだけ固い。
……気のせいかもしれない。気のせいでないかもしれない。どちらも、そのまま覚えておく。
工房を出ると、軒下で待っていたクロエが立ち上がった。
伸びをして、当然のように隣へつく。待たされた文句は、尻尾には出ていなかった。
村道を抜け、人気が切れたあたりで、どくろんが口を開く。
『ますたー』
「うん」
『収穫ハ』
『ヴァルド石』
テレサは指を一本立てた。
「先生、石があるかないかより先に、うちの情報源を確かめた。質問に質問で返した」
『観測事実』
「学者やから、質問の出どころが気になっただけ、いう線もある」
『別解釈。断定ハ非推奨デス』
「分かっとる」
エマの名前で止まった指は、まだメモ止まり。怪我のことも、心配されただけだ。
積み上げてきた研究も、村へ向けてきた親切も、たぶん本物だ。けれど、本物の長所を持っていることと、隠し事がないことは、別の話だった。
本命ログに足すのは、一行だけ。
「マティアスはヴァルド石の所在より先に、情報源を確かめた」
テレサはそれを頭の中の事件記録へ書き加え、家路についた。




